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続・交遊のあれこれー中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その3)

中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉を読むのは、辞書と首っ引きなので、時間のたつのがはやい。不要不急の外出を自粛するにはもってこいかも知れない。以下、偶感のつづき。

「江戸の文士たち」のなかでも、昌平黌を辞して新たにジャーナリズムの世界を作り上げた市河寛斎を、山陽は「娯庵ヲ陶し詩仏ヲ鋳シテ、左提(サテイ)右挈(イウケツ)シテ詞風ヲ変ズ」と評している。その若き俊才たちに、自分を売り込むために、山陽が「最も頼りとした先輩」が、その大窪詩仏と菊池五山である。

大阪に出て来た詩仏は、山陽との初面談に納涼舟に招じられ、「盞ヲ満ス新醋(シンサク)、金瀲灔(キンレンエン)、盤ニ堆(ウズタカ)キ鮮鱠(センクワイ)、雪瓏鬆(ユキロウショウ)」と歌い、山陽は「酒影燈火、両(フタ)ツナガラ動揺」と詠じてご機嫌であった。数日後、京都に帰る舟の乗り場まで見送りに来た詩仏、字名は天民に、山陽はむくいて「天民六十、胆、天ノ如シ。」「似ズ、頼生ノ頭、未ダ白カラザルニ。」と詠じた。白髪の詩仏と未だ若い山陽の「二人は、すっかり意気投合」したのである。

やがて詩仏も追うように京にあらわれ、山陽は自宅で歓待したばかりか、その後は盛んに往来を重ねて、二人は友情を深めている。のちに山陽の突然の訃報に接して、病床に臥す詩仏は「忽チ報ズ、霜風、秀蘭ヲ摧(クダ)クト。茫然、語ナク、涙頻リニ弾ズ。」「才学識、三者ヲ兼ヌルハ少ク、詩書画、一身ニ弁ズルハ難シ。」と、輓詩(ばんし)を詠んだ。この弔詩の末に、「幾編ノ新著、千秋ノ業、風流儒雅ノ看ヲ作(ナ)ス莫レ。」、すなわち「山陽の仕事を、たかが文士の遊びと思わないでほしい、と彼は世に訴えている」のだが、その絡みで、「フランス十九世紀末の頽唐派や今世紀初頭の近代派」を引き合いに出して、著者は詩仏の詩風の「新しさ」に刮目している。

一方、菊池五山は「一流の詩人であると同時に、一流の批評家」であり、『五山堂詩話』を年々、続刊していたが、その巻八に「ゴシップ好きの五山は奇抜な挿話」を紹介していて、山陽とのやり取りが面白い。「余、聞ク、某ノ土、人ノ頼子成ト仮称スル者アリ。一豪家ニ寄食シテ、濫リニ飽煖(ハウダン)ヲ占ムト。前(サ)キニ偶タマ此ヲ以テ、浪華ノ金谷生ニ語ル。生、饒舌、早ク子成ニ報ズ。」――山陽の偽物が田舎に現われたのである。

山陽はただちに次の詩を噂の出所の五山に送った。「文字腸ヲ撑(ササへ)テ饑(キ)ヲ補ハズ。名ハ画餅ノ如シト、豈ニ其レ非ナランヤ。恠(アヤシ)ム、他ノ一箇ノ陳、座ヲ驚カシ、飯袋便々トシテ、到ル処、肥エタルヲ。」――「名声は腹の足しにならない筈なのに、偽物はどこへ行っても、たらふく食っていられるとは‥‥」というわけである。それに対して、五山は「余(五山)、之ヲ読ミテ笑倒ス。然レドモ、其ノ実ハ子成、噪名ノ致ス所。余ガ如キハ其ノ一仮ヲ求ムトモ、恐ラクハ未ダ得ル可カラズ。」と嘆いて、「冗談に山陽を羨ましがってみせている」のも愉しそうである。

とはいえ、愉しくない「噪名」もある。山陽を「父執」、すなわち「父の友人」として親しく交わり、のちに「文章の四名家」と称された藝藩の坂井虎山は、山陽に「弟子」の礼を取る間柄であった。その虎山が五十三歳で世を去り、広島の門人たちが依頼した斎藤拙堂の碑文は、山陽と虎山を徹底的に対比させるものだった。

「藝山ノ陽、累(カサ)ネテ才子ヲ生ム。子成(山陽)公実(虎山)、前後、美ヲ擅(ホシイママ)ニス。何ゾ才ニ豊カニ、歯(ヨハヒ)嗇(ショク)ナル。子成ノ寿、僅カニ彼(カ)ノ如ク、公実ノ齢モ、亦、此ニ止ル。死シテハ年寿ヲ同ジクシ、生レテハ郷里ヲ同ジクス。是レ将(ハ)タ偶然耶(カ)。抑(ソモソ)モ亦、以(ユエ)アル耶。烏虖(アア)、子成ノ骨、已ニ朽チ、公実ノ身、又、死ス。後進ノ士、将タ誰カ仰ギ止ムモノゾ。其ノ文、雄奇、其ノ気、英偉。光ハ人目ヲ炫(マバユ)クシ、名ハ人耳ニ震フノミ。烏虖、子成ノ骨朽チ、而シテ名ハ則チ朽チズ。公実ノ身死シ、而シテ心ハ則チ死セズ。脩短ノ命、論ズル所ニ非ズ。仰慕ノ心、ソレ或イハ慰マン。」

このリズミカルな「名調子」の撰文に、虎山の門人たちは「無欠の先師を以て、有瑕の人に比した」として、不快感を示し、「碑面に刻まれることは中止に」した。というのも、山陽歿後二十年を経過してもなお、「広島では彼について親不孝な放蕩児という印象が消えていなかった」のである。いつまでも消えないのはSNS上の罵詈雑言だけではないようだ。

山陽伝には記されていなくても、たまたまその人の詩集に、山陽の序や批評を見つけて、交渉のあったことに気づいた珍しい例に、讃岐の医者・尾池桐陽がいる。『桐陽詩集』の序に弟子の巌村南里は、「桐陽先生(詩稿を)携ヘテ京師ニ入リ、頼山陽ニ示ス。山陽深ク相イ称揚シ、且ツソノ古体ヲ推シテ、以テ海内匹(タグヒ)スルモノ罕(マレ)ナリトス。」と記した。じつは「弟子の南里さえ、その価値を疑っていた」ので、桐陽の詩を「山陽が褒めたと聞いて、耳を疑った」ほどである。

桐陽の「古体」と山陽の「新詩風」の是非など漢詩に縁なき素人に分かるはずもないが、篠崎小竹は序に「亡友頼子成批シテ之ヲ評シ、今世比スルモノ希ナリ必ズ伝フベシ、ト謂フ。(中略)宜(ムベ)ナルカナ、子成ノ評賛、而シテ刊行セシメント欲スル也。玩誦ノ間、前輩ニ遇フガ如ク、子成ニ代リテ之ガ序ヲナス。」と喜びを記している。さらに、頼杏坪の草した跋文には、「将(マサ)ニ上梓セントシテ序ヲ山陽ニ請フ。君、果セズシテ下生ス、故ニ小竹篠氏之ヲ作ル」と、その成り行きを叙述している。山陽の遺志をしかるべく結実させるに労を厭わない知友に恵まれていたのである。

『桐陽詩集』におさめられた「秋前一日、茶山先生ヲ訪ヌ」と題された詩には、「夕陽村口ノ読書楼、梧竹園ハ臨ム細々ノ流レニ。客、垂楊樹下ニ在リテ立チ、微風先ズ報ズ、一牀ノ秋。」と詠じていて、桐陽は「三世通家ノ誼(ヨシ)ミ、単身、刺ヲ投」じて、菅茶山に詩稿の評を請うたのではなかろうか。「昭和も四十年代の末の今日もなお、廉塾の庭先には、可愛い小流れが澄んだ水に私たちの顔を映してくれる」とあるから、著者は「数千巻に余る当時の刊本」をひもとくばかりか、若き日の山陽が代講を務めた、菅茶山の廉塾跡まで実地に足を運ぶ力の入れようであった。

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