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山旅の記―富士川英郎『江戸後期の詩人たち』断章Ⅶ

安達太良山といえば、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」とうたった、高村光太郎『智恵子抄』をまずは思い浮かべるだろうか。その安達太良山に登った江戸後期の文人学者の手になる山行記があると知ってビックリした。

安達太良山◉山頂 2017-10-27 11 10 55

その文人学者は、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』〈佐藤一斎と安積艮斎〉篇に出て来る安積艮斎(あさかごんさい)である。京都の頼山陽に対抗して、江戸の文章家として名前が人々の口の端にのぼったのは、林述斎を継いで昌平黌の儒官にあげられた佐藤一斎である。その一斎の門下に、「単に儒者としてばかりでなく、文章家としてもその名が聞え、また詩を善くした者に安積艮斎」がいる。艮斎は「自然、殊に山が好きで、しばしば閑暇を得る毎に登山を試みていた」ので、まずは「筑波山に登って、その頂上をきわめたときの作」を一首。

筑波山 2014-11-13 13 27 10

突兀奇峰雲外浮
天風吹上絶巓秋
山河歴歴双鞋下
但恐一呼驚八州

 突兀(とつこつ)たる奇峰 雲外に浮ぶ
 天風吹き上(のぼ)す 絶巓の秋
 山河 歴歴たり 双鞋(そうあい)の下
 但だ恐る 一呼(こ) 八州を驚かさんことを

その他にも、「西嶽」「踰碓氷嶺過浅間山記」「登白根山記」などの山行記があるというので、早速、安積艮斎『遊豆紀勝・東省続録』(村山吉廣・監修/安藤智重・訳注)のコピーを入手した。西嶽は安達太良山のことで、「其の二本松の治(ち)の西に在るを以て、故に又た西嶽と称す」(訳注者による「訓読」を引用、以下同)とある。

艮斎は安達太良山の「其の下に少長(しょうちょう)し、秀色近く目に在るも、いまだ登ることを獲ざるなり。後に江都(こうと)に寓すること三十餘年、屢(しばしば)帰省すと雖も、亦た登るを果たさず」――山水を愛すと言いながら、じつは故郷の名山にはまだ登ったことがなかった。「風霜を冒し遠途(えんと)を跋(ふ)みて来る。盍(なん)ぞ温泉に浴して以て自(みずか)ら慰めざるか」という母の勧めもあって、艮斎は兄や甥とともに「山下(さんか)の温泉、百病を治すに効有り」とされる安達太良山へ出かけた、というのは微笑ましい。艮斎の「山水」は日常と地つづきにある。

安達太良山からの眺望 2017-10-27 11 19 22

さて、今ふうに言えば塩沢登山口から湯川沿いルートだろうか、「西に行くこと十町許(ばか)り、巨峰有りて猿鼻(えんび)と曰う。径極めて険なり。直(ただ)に上ること八町ばかり、懸崖(けんがい)は剣脊(けんせき)の如く、大谷(だいこく)を俯視(ふし)すること数百仞、屏息(へいそく)して過ぐ」――「猿鼻」は屏風岩、「大谷」は湯川渓谷のことか。数年前に私が登ったのは奥岳登山口からなので、この景観を知らない。「稍(やや)坦夷(たんい)なり、佇立(ちょりつ)して四眺(しちょう)す」れば、「伊達信夫諸山」や「逢隈川」(阿武隈川)、そして米沢の吾妻連峰までも一望される。

「折れて西すれば」とは、天狗の庭を過ぎた辺りか。「衆峰の全体始めて露わる。崇嶂(すうしょう)峻壁(しゅんぺき)、仰ぐべくも攀(よ)ずべからざる者を鉄城峰(鉄山)と曰う。鋒稜(ほうりょう)桀豎(けつじゅ)して、太阿(たいあ)の新たに硎(けい)より発するが若き者を剣峰(矢筈森の一部)と曰う。岐(わ)かれ挙がりて離立(りりゅう)し、菆矢(しゅうや)の箙(えびら)より出ずるに類する者を箭筈(やはず、矢筈)峰と曰う。猙獰(そうどう)詭怪(きかい)、蒙倛(もうき)の若き者を鬼面峰(じつは篭山)と曰う。其の他皆、雲天に畳秀(じょうしゅう)して各(おのおの)名号有り」――一望される安達太良山の峰々である。さらに少し進んで、「湯源(とうげん)の発する所、白気(はくき)滃滃(おうおう)として起こる」のは、くろがね小屋辺りだろうか。

艮斎は言う。「予、嘗て諸州の名山に登るも、大抵、秀潤(しゅうじゅん)多くして奇嶂(きしょう)少なし。独り此の山の峰巒(ほうらん)巌壑(がんがく)の状のみ、雄峻(ゆうしゅん)嶄嶻(ざんさつ)として、巨霊の擘(さ)く所に類するは、大国の山岳為(た)る所以なるか」――そう言えるのは、筑波山、浅間山、草津白根山、あるいは伊豆の山々などと比すかぎりということか。

それにしても、山旅を叙述して繰り出される難解な漢語にはほとほと参った。語釈を列記すれば、「秀色」は美しい景色、「剣脊」は刀のみねと刃の中間のかどだっている線、「俯視」は上から見おろすこと、「屏息」は恐れて身を縮めること、「坦夷」はたいらか、「崇嶂」は高い峰、「峻壁」は険しい崖、「攀」はよじのぼる、「鋒稜」は矛のとがったかど、「桀豎」は秀で立つ、「太阿」は古の宝剣、「硎」は砥石、「菆矢」は上等の矢、「猙獰」は荒々しく憎々しいこと、「蒙倛」は悪魔を追い払う鬼の名、「滃滃」は盛んなさま、「奇嶂」は険しい峰、「峰巒」は山々、「巌壑」は岩と谷、「嶄嶻」は高く険しいさま、など。

いかに多彩な漢語を的確に使いこなすか、それが名詩文家たる一つの必須要件だったのだろうか。

ちなみに、白根山も、たんに「独り山水に於いて篤く好む」ゆえだけの登山ではない。艮斎の長子が疥(かい)を患い、「上毛の草津温泉は、疥を治すに於いて効有り。児をして澡浴(そうよく)して以て疾を療やし、兼ねて羈旅(きりょ)の艱を知らしめば、斯れ両得為り」として草津温泉へ出かけた。「かわいい子には旅をさせよ」の親心である。温泉につかって「宿疾稍(やや)痊(い)ゆるも、煙霞(えんか)の痼(こ)益(ますます)劇(はげ)し」くて、長子も同行して近くの草津白根山へ出かけるのである。「煙霞の痼」、すなわち山水を愛する心が大変強いとはいえ、それはよりよき日常への営みと繋がっているのである。

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