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柳亭種彦『偽紫田舎源氏』の終章

恥ずかしながら題名「散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)」(永井荷風『雨瀟瀟・雪解 他七篇』岩波文庫)は、ルビなしでは読めない。そんなレベルの自分でも、草双紙『偽紫田舎源氏』で知られる柳亭種彦翁の門下・柳下亭種員のセリフに、「眼にはさやかに見えねどもと古歌にも申す通り、風の音にぞ驚かれぬるで御座います。」とあれば、すぐに「秋来ぬと‥‥」で始まる古今和歌集の和歌と思い当たる。

ところが種彦が、蜀山人の随筆『双師労之(やつこだこ)』の文章をしみじみ語り、その終わりに添えられた狂歌「ながらへば寅卯辰巳(とらうたつみ)やしのばれん、うしとみし年今はこひしき。」を繰り返して聞かせた、というくだりは、その狂歌の気分を漠然と読みとれるに過ぎない。とすれば、師と門弟のセリフに、荷風はそれぞれに似つかわしいレベルの表現を用いているのか、なぞと妄想を逞しくした。

偽紫楼の夜更けを照す円行燈の下で、種彦翁は「いかなる危険を冒しても、この年月精魂を籠(こ)めて書きつづけて来た長い長い物語を、今夜の中(うち)にも一気に完成させてしまわなければならぬような心持」になりつつも、「うしとみし年」を「今はこひし」と、ひとり寂しく黙想するのである。

「義理も身も打捨てて構わぬ若い盛りの無分別ほど羨(うらや)ましいものはないと思うのであった。ああ、あの無分別の半分ほどもあるならば自分は徳川の世の末がいかになり行こうと、あるいは自分の身がいかに処罰されようと、そんな事には頓着せず、自分の書きたいと思うところをどしどし心の行くままに書く事ができたであろう。悲しむべきは何につけても勇気の失せ行く老境である。」

さる頃より寛政の改革は諸事倹約の御触れが出、役者市川海老蔵が御吟味を受けたこともあって、世間の噂はついに「偽紫田舎源氏」に及び、作者の種彦も厳罰に処せられるのではないかと喧しかったのである。

朝早くから偽紫楼にやって来て、御政事向きのことをうんぬんする門弟の種員と笠亭仙果を前に、種彦は「口舌元来禍之基(こうぜつがんらいわざわいのもとい)。壁にも耳のある世の中だ。長いものには巻かれているのが一番だよ。」「一寸の虫にも五分の魂というが当節はその虫をばじっと殺していねばならぬ世の中。ならぬ堪忍するが堪忍とはまず此処らの事だわ。」と、今も人口に膾炙する常套句をあえて用いることで、それが種彦の真意ではないと示唆しているのか、自戒も含めて二人をさとすのである。

その深意を問えば、「老朽ちて行くその身とは反対に、年と共にかえって若く華やかになり行くその名声をば、さしもに広い大江戸は愚か三ヶ(さんが)の津(筆者注:江戸時代の京、大阪、江戸の三都)の隅々にまで喧伝せしめた一代の名著も、あたらこのまま完成の期なく打捨ててしまわなければならぬのかと思うと、如何にしても癒しがたい憂憤の情は多年一夜の休みもなく筆を執って来た精魂の疲労を一時に呼起し、あるかぎりの身内の力を根こそぎ奪い去ってしまったような心持をさせる」のを、種彦は如何ともしがたかった。

なによりも、「禁令の打撃は長閑(のどか)な美しい戯作(げさく)の夢を破られなかった昨日の日と、禁令の打撃に身も心も恐れちぢんだ今日の日との間には、劃然(かくぜん)として消す事のできない境界(さかい)ができた」とするのは、『ふらんす物語』の発禁を経験した荷風の偽らざる心境でもあったにちがいない。日をおかず北御町奉行所からの御達しがあり、御白洲へ罷り出る日の朝、種彦は「溘然この世を去られた」のである。

とにもかくにも、そこに荷風の自己投影を見てしまう「散柳窓夕栄」は、戯作者としての柳亭種彦をもっと深く知り、その『偽紫田舎源氏』をじっくり繙きたい衝動を掻き立ててやまない作品である。

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