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政治権力と学問ー中村真一郎『頼山陽とその時代』抜き書き(その2)

中村真一郎『頼山陽とその時代』抜き書き(その2)は、山陽の父・春水にかかわる「政治権力と学問」の話である。春水は「藝州竹原の一商家の子に生まれ、大阪に出て片山北海のもとで儒学を学び、また多くの益友を得た」ばかりか、「早くから宋学(程朱学)に興味を示し、後に寛政の三博士と称せられた友人、古賀精里、尾藤二洲、柴野栗山らを、古学から程朱学へ転向させた」というのである。

しかも、「この小さなグループの学術研究の新しい方向がやがて、学界全体の新風として時代を支配するようになって行った」のには、「春水自身の政治的手腕が大いに働いた」というから驚くほかない。では、その政治的手腕とはいかなるものか。春水はまず「政界の実力者である白河侯松平定信に接近し、定信が幕府の執政となると共に、その権力を動かして程朱学を官許の学問たらしめたのである。そして、その運動の中心にするために、従来は林家私学であった昌平黌を官学たらしめ、その教授に友人の栗山、精里、二洲を送りこんだ」と言うのである。

すなわち、「己れの信ずる学問の流派を学界の中心に持ちこみ、そして、『異学の禁』を幕府に実行させて、他の学派を弾圧することで、その信念を徹底的に実現するところまで持っていった」とすれば、「綿密な現実政治家の感覚」というよりも、凄腕の「陰微な寝業師」、卓越した「裏からの策動家」である。

春水没後十三年に世に出た、山陽編輯の『春水遺稿』(十一巻、別録三巻、付録一巻)は、詩集八巻の後に、『正学指掌序』『学統論』『学統説送赤崎彦礼』などを収録した文集二巻があり、それは「春水が一生の事業として成しとげた、思想統一、程朱学を正学とし、他の学派を異学として排するという運動に関する」ものであった。著者は「これらの文章はいずれも短文であり、論理も単純すぎる」ように感じ、昭和の「国体明徴」の議論もそうであったように、「時代の危機を、……専ら『精神』の面だけで問題としようとしているところが共通の弱点である」と指摘している。

「それよりも」と著者は言う。「異学の禁に反対して、柴野栗山に勧告書を送った赤穂の儒官、赤松滄洲の意見の方が、今日から見て遥かに説得力がある」し、また「書を松平執政に立(たてまつ)って、思想弾圧に反対」した江戸の冢田大峯説は、「滄洲説よりも更に徹底していて、見事なものである」とする。

すなわち、「大峯の意見によれば、新政権は前代田沼氏執政下の『貨財ノ賄賂』の弊風を廃止したけれども、今度は思想の賄賂の弊風を起そうとしている」という論難は、著者の言うとおり「まことに鋭い」ものがある。この反対声明が出されたとき、昌平黌の三博士の一人、尾藤二洲の「門人たちのなかには動揺するものが少くなかったと伝えられる」ほどであった。いま令和の時代にあって、またまた「思想の賄賂」や「科学研究の賄賂」などの弊風が許されてはならない。

春水の『学統弁』に書いた山陽の跋に、「世或ヒハ襄(山陽)ノ家学二背キ、甚ダ洛閩(ラクビン、朱子学)ヲ信ゼザルヲ謂フ。襄曰ク、唯甚ダ信ズ。故二甚ダ信ゼザル所アリ。其ノ甚ダ信ゼラル所アルヲ以テ、其ノ甚ダ信ズル所ノ私二アラザルヲ知ルベキナリ」とあり、著者は「ディアレクチックによって、朱子学を超越してしまっている」と感嘆おくあたわざるふうである。山陽の「甚ダ信ゼザル所アル」とする所以は、あるいは「異学の禁」にも由来するのだろうか。

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