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本阿弥光悦の芸術と出版事業

本阿弥光悦は書画から漆芸、陶芸に至るまで声望の高い総合芸術家である。先の「本阿弥光悦の大宇宙」展(東京国立博物館)で購った玉蟲敏子・内田篤呉・赤沼多佳『もっと知りたい 本阿弥光悦 生涯と作品』(東京美術)を読んで、とくに「出版事業と宗達との共作」の章に刮目した。以下、その出版活動のあらましを抜き書きしておきたい。

〈日本の出版文化史上において、文禄二年(一五九三)の『古文孝経』と慶長十三年(一六〇八)の『伊勢物語』の刊行は記念碑的な出来事とされている。(中略)近世初期の出版事業は、十数年をかけて民間へ広がり、豪商の角倉素庵らもいわゆる「嵯峨本」などの出版に乗り出す。〉のである。角倉素庵は〈慶長九年(一六〇四)頃から古活字版の司馬遷著『史記』などをはじめ、数々の出版物を世に送り出し、近世初期の出版の興隆に寄与した。〉

〈以後、慶長十五年(一六一〇)頃を最盛期にして元和までの十年間に、十三部もの「嵯峨本」が出版されたと考えられている(川瀬一馬『増補古活字版之研究』日本古書籍商協会、一九六七年)。そのうちの『方丈記』は雲母摺による「菱十字花襷文」の表紙、紅葉に流水、兎文、梅花、山の端の月などの大ぶりな模様の本文料紙を用い、優美で大らかな味わいを特色としている。また「新古今集抄月詠和歌巻」は、具引き(=胡粉を塗ること)した地に純白の雲母で具象的模様を摺った料紙に、活字ではなく一枚板の製版により、「新古今和歌集」から選んだ月の和歌九首を印刷した観賞用の手本である。〉

では、なにゆえに一枚板の製本によったのか。川瀬一馬『古活字版之研究(中巻)増補版』は、「光悦の書は、その書体の巧みさに特色があるといふよりも、その運筆の妙や配字その他デザイン的な面に優れてゐるのであるから、活字版の様式を採用すると、版下書きの儘には組版できないため、光悦の特色はむしろ消えてしまう結果となり、恐らく光悦自身にとっては不満足であつたと思ふ。」という見解を呈示している。

そもそも、古活字版とはいかなるものか。川瀬一馬『日本書誌学之研究 続』によると、「平安朝から鎌倉時代・南北朝を経て室町末期に至る約九世紀間は、技術的に見ると、主として『製版』(一枚板の板木に彫刻する木版印刷法。「活版」に対する語)の印刷法であった。」ところが、文禄の役を契機に朝鮮半島から「活版印刷の法が輸入せられて、わが印刷界に一大変革をもたらす」のである。というのも、「一定数の活字を作成すれば、活字の回転利用により比較的僅少の経費で印刷を行なうことができた」から、たちまち「活字本流行の時代となった」のである。

すなわち、「文禄二年(一五九三)に後陽成天皇の勅版古文孝経(文献はあれど遺品未発見)から始まって、慶長(二十年間)・元和(十年間)・寛永(二十年間)に亙る約五十年間(一五九六〜一六四四)は、わが国印刷文化史上、内容・形式ともに、一大特色を有する一時期を劃することになった。この期の活字版の歴史的意義を認めて、これを後の江戸中期以後のものと区別して特に『古活字版』と呼ぶ」のである。

そのなかでも、「一人特記すべきは本阿弥光悦の活躍である。光悦は慶長年間に『嵯峨本』(または光悦本)と呼ばれる一類の美術的にすぐれた意匠を施した出版を行なった」のである。

だが、古活字版は「原版を用意する点は安易・簡単であるが、再版しようとすると、新しく組み直さなければならない上、漢文などに振仮名・訓点を施すことが技術的に難しく、且つ字面が美しく整備しにくい欠点があった。」ということで、寛永を過ぎると「一枚板に彫刻して、原版の重版が簡単に利く『製版』印刷が、再び復興して来る」のである。

ところで、本書によれば〈光悦の「嵯峨本」への取り組みは、光悦主宰・素庵補助説(和田維四郎『嵯峨本考』審美書院、一九一六年)、素庵・光悦協同説(川瀬一馬前掲書『増補古活字版之研究』)などが提唱され、だんだん光悦から素庵へと重心が移動するようになった。〉というのである。とはいえ、〈やはり「新古今集抄月詠和歌巻」については、散し書きのリズムや字形から光悦の息がかかっていることは疑えず、従来提唱されてきたように、光悦による版下説を受け入れてよいと判断される。本作は出版物の「嵯峨本」の世界と光悦の書をつなぐポイントとなる〉とするのである。

その〈「嵯峨本」のなかで最も版の種類が多く、出版時間の長さが考慮される観世流謡曲百番をテキストとする謡本は「光悦謡本」と通称されている。〉それは〈表紙や本文料紙を雲母摺による大らかな草花や木々、景物、織物模様で装丁した雅味ある古活字版の出版物〉であった。〈大らかな雲母摺模様で飾られたその表紙に対する愛好は、十八世紀末から十九世紀にかけて江戸の酒井抱一やその一門周辺で高まり、再興されるほどになった。抱一は、まず自身が編纂した俳諧書の『江戸続八百韻』(蔦屋重三郎版、一七九六年)に光悦謡本とそっくりな梅枝模様を用い、光琳研究が深まるなかで、『尾形流略印譜』(一八一五年)に独自の燕子花模様、『光琳百図』(一八一五年頃)に菊花の総模様を用いるようになる。〉のである。

すなわち、光悦の出版活動は酒井抱一を介して、出版社兼書店の耕書堂を営み、浮世絵の黄金期に喜多川歌麿、東洲斎写楽の二大スターを世に送り出した蔦屋重三郎につながっていく。はてさて、来年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は楽しみであるが、そのあと本阿弥光悦を大河ドラマに出来ないだろうか。

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