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永井荷風『下谷叢話』雑感

およそ20日余りをかけて、永井荷風『下谷叢話』(岩波文庫)を読了した。1時間に2、3頁のペースである。というのも、荷風の引く漢詩文を読み解くのに、手もとの漢和辞典はもとより、デジタルの辞典類までフル動員して思わぬ時間を要した。

中国文学者・成瀬哲生の「解説」によると、本書は「幕末明治初期の漢詩人大沼枕山(ちんざん)と鷲津毅堂(きどう)、対照的な二人の伝を軸に語られる」のだが、江戸時代の末から明治初年にかけて「世に知られた儒者」であった毅堂の次女恒(つね)は永井荷風の慈母であり、荷風の「先考(筆者注:永井禾原、亡父)は毅堂の門生であったのみならず、またこの時詩を大沼枕山に学んでいた」のである。しかも、江戸の詩壇に名声を博した大沼枕渓と枕山父子は「鷲津氏の族人」という間柄にある。

かつて「日本の風土に現れた読書人」たちの「漢詩文は、原文のままか、せいぜい返り点を付しただけで出版された。知識の集積がそれを可能にしていた。荷風の引用の仕方も知識の集積を多かれ少なかれ前提にしている」ので、「読書人ならざる解説者は、多くを『大漢和辞典』と『漢語大詞典』に頼らざるを得なかった」というのである。

そこで、「引用の漢詩文で、荷風が訓読を施していないものは、引用原文の参考として解説者」が訓読を付しているのは有り難い。とはいえ、「なお現在の読者には、訓読だけでは不親切なので、注を付ける必要があるのかも知れないが、ほとんど割愛した。典故の説明も含めて注を付けるとなると、おそらく本文をしのぐ量となるであろう。解説者の今回の経験でいえば、わずかな例外を除き、『大漢和辞典』(大修館書店)と『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社)の範囲内である」とこともなげである。が、その『大漢和辞典』や『漢語大詞典』など、大部の辞典類なぞ座右に揃えようもないふつうの読者にはまさに難攻不落と言うべきか。

解説者は、「幕末明治初期の高度に日本語と中国語という二重言語を楽しんだ時代の様相を広く眺めわたせる条件が、特に漢詩については、整いつつある」とするが、その是非は措くとして、「ここで敢えて中国語ということばを使ったが、‥‥彼らが中国語でオーラル・コミュニケーションができたということではなく、彼らの用語に口語系統の語彙(俗語)が目立つからである。言い換えると、漢和辞典には載っておらず、中国語辞典には載っているというような語彙が目立つ」というのには閉口した。漢詩文に出てくる「中国語」は、一般読者が否応なくぶつかるもう一つのカベである。いかに「二重言語を楽しんだ」のか、その様相のまとまった手引きはないのだろうか。

漢和辞典には載ってなくて、ネットの『中日大辞典』(大修館)でヒットした、いくつかの語彙を摘録する。大沼枕山が梁川星巌、大槻磐渓、西島秋航らと共に、井伊掃部頭直亮の老臣・岡本黄石の「別莚(べつえん)」に招かれて、湯島に飲んだ席上の作品に、訓読のみ引くと「分襟近クニ在リテ意逾(いよ)イヨ親シム」とあり、この「分襟」は「別れる」とある。国元へ帰国する黄石は詩友たちと、明年出府までの別れを惜しんだのである。ちなみに、枕山の詩賦に「酒の一字を見ざるは罕(まれ)」であり、「酒痴」を自称した。

一方、辺海の武備を憂いた鷲津毅堂は、阿片戦争に遭遇した清の魏源の著した海防策『聖武記』十四巻の抄録『聖武記採要』三巻を著し、その自序に「一ニ曰ク兵制兵餉(へいしょう)」とある「兵餉」は、「兵糧、兵士の給与」の意である。時あたかも「幕府が令を発して世人の慢(みだり)に海防の論議をなし人心を騒すことを禁じた」ので、「町奉行所の詮議するところ」となり、毅堂は「窃(ひそか)に江戸を逃れてまず房州に走った」という憂国の士である。『毅堂丙集』にみる詩の題言に、「余往歳吉田松陰ト江戸橋ノ酒楼ニ邂逅ス」とあるのも故なしとしない。

米国の軍艦が浦賀に来航した頃の、横山湖南の絶句に、「妖鯨出没して狂瀾涌ク/羽書ハ安辺ノ議ヲ奏セズ/唯夷情測リ得ルコト難キヲ報ズルノミ」とある。「安辺」は「辺境の守りを強固にし、安全にする」の意である。「妖鯨」(黒船)来航の急を告げるばかりで、慌てふためいて防備の無策であるのを嘆くのである。湖南は梁川星巌門下の漢詩人で、枕山の「莫逆(ばくげき)の友」(親友)であった。

明治になって、毅堂が陸前国登米県の権知事に任ぜられ、任地に赴いた時の状況が『赴任日録』に詳らかで、その一節に「諸山ソノ麓を擁シ扶輿(ふよ)磅礴(ほうはく)タルコトソノ幾十里ナルヲ知ラズ」とある。その「扶輿」は、「下から上に吹きまくる暴風、つむじ風」のこと。「磅礴」は漢和辞典に「満ちふさがるさま」とあるから、「扶輿磅礴」は中国語と日本語のセットをなすが、東北の任地に赴くのも並大抵の行程ではなかったさまがうかがえる。こうして辞典を繰るごとに文意が浮かび上がってくるのは愉しい営みであった。

いまだ四十歳前の枕山が、「今時ノ軽薄子/‥‥/口ヲ開ケバ経綸ヲ説ク/其ノ平居ノ業ヲ問ヘバ/未ダ曾テ修身ニ及バズ」と、「飲酒」と題する五言古詩に詠い、「後進の青年らが漫(みだり)に時事を論ずるを聞いてその軽佻(けいちょう)浮薄なるを詈(ののし)った」。荷風は、それは「あたかもわたくしが今日の青年文士に対して抱いている嫌厭(けんえん)の情と殊(こと)なるところがない」と慨嘆し、「わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以もまたこれに他ならない」と胸の内を漏らすのである。

とすれば、武田泰淳が「枕山と毅堂」(『荷風全集』第15巻月報15)に述べるごとく、荷風はやはり「枕山の生活を慕い、自己の今後の生き方と通じ合うものを語りたがっている」のは言を俟たない。だが、「それだからといって、毅堂の生き方を、さほど否定しているわけではない」こともまた明らかである。否、あるいは敬愛の念を抱いていたかも知れない。そこに荷風の苦悶があった。

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