三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』をめぐる断想

三谷太一郎『日本の近代とは何であったかー問題史的考察』の第一章で明かされている、当時では最長老の政治学者であった南原繁との対話のエピソードは、どう解釈すべきなのだろうか。
「今から半世紀近く前、著者は、日本における政治哲学および戦後日本の教育体制の基礎を造った当時最長老の政治学者南原繁と対話する機会がありました。その時、南原が著者に問いを発し、福沢諭吉のような人がなぜ明治憲法に対して批判的でなかったのか、自分はかねてから非常に不思議に思っていると語ったことを思い出します。南原の生年の一八八八(明治二二)年は、ちょうど明治憲法発布の年でした」
南原繁は何らかの答えを出したのだろうか。あるいは、著者はその時、どのように答えたのだろうか。

森鷗外の史伝に対する捉え方は面白い。
「鷗外の『伊澤蘭軒』や『北條霞亭』は、廉塾という山陽道の一宿駅を拠点とする、ささやかな知的共同体が及ぼした全国的なコミュニケーションのネットワークを、飛躍を伴わない徹底した考証学的方法ーーこれは鷗外が敬愛して止まなかった澀江抽斎の学問的方法ですがーーによって描破したのです。北條霞亭の先任者として、一時期菅茶山の委嘱を受け、廉塾塾頭を務めた頼山陽の『日本外史』その他の著作は、『文芸的公共性』の一つの結実です。それが幕末の政治的コミュニケーションを促進する媒体の役割を果たしたことはいうまでもありません」

さらには、「森鷗外が一連の『史伝』で描いた江戸時代末期の学者たちの学問は、明治期の機能主義的で実用主義的な学問に対する反対命題でした。鷗外が『史伝』の著述にあたって、そのことを明確に意識していたことは明らかです」と洞察している。『渋江抽斎』は思いのほか興味深く読んだ。『伊澤蘭軒』『北條霞亭』も読みたいが、どうやら文庫本を手に入れるのは難しいようだ。

「第一章 なぜ日本に政党政治が成立したのか」の締め括りに述べられている、この言葉は重い。
「私は、今後の日本の権力形態は、かつて一九三〇年代に蠟山政道が提唱した『立憲的独裁』の傾向、実質的には『専門家支配』の傾向を強めていくのではないかと考えています。これに対して『立憲デモクラシー』がいかに対抗するかが問われているのです」

ところで、原敬の日記に明治期の政争の激しさを見て驚いた。
「……前田が農林学校に縁を繋ぎ居りて他日大臣たらんとするの野心あり、窃かに教員等を使嗾して運動せしむるものなりとの評判すらなす者あり、兎に角同校は農商務省に属し居るよりは学問の系統上に於ても文部省に属する方適当にして且つ得策なるに因り此処分をなしたるなり、……而して決行までは何人も之を知らず、全く突然に出たり」(明治二三年六月一三日付の原敬の日記)
一人の政敵の復活を完全に遮断するために、省庁の改変という大掛かりな手段を用いることも厭わない。お主そこまでやるか、と言いたくなる気分である。

最後に、「終章 近代の歩みから考える日本の将来」において、「二〇一一年の東日本大震災による原発事故によって、幕末以来の日本の近代化路線に致命的な挫折をもたらしたことも否定することはできません。原発には、現在および将来の日本の資本主義の全機能が集中していたからです」と述べて、「日本近代それ自体への深刻な問い」を提起している。

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