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永井荷風「監獄署の裏」を歩く

学生の頃、牛込柳町の県人寮に入り、そのあと神楽坂近くの横寺町に住んだ。都電で新宿に出て大学へ通ったが、河田町辺りは車内から眺めるだけで、街を歩き回ることはなかった。ましてや余丁町の永井荷風旧居跡なぞ知る由もないので、永井荷風『雨瀟瀟・雪解 他七篇』(岩波文庫)を手にして、まずはその旧居跡をたずねた。

永井荷風旧居跡

「無事帰朝しまして、もう四、五ヵ月になります。」という書き出しの「監獄署の裏」は、荷風が5年にわたる外遊から帰朝した翌年、「早稲田文学」に発表した作品である。「今だにぐずぐずと父が屋敷の一室に閉居しております。処は市ヶ谷監獄署の裏手」という、余丁町界隈の模様を仔細に描写している。「変りのないのは狭い往来を圧して聳(そびえ)立つ長い監獄署の土手と、その下の貧しい場末の町の生活」であり、「私の門前には先ず見るも汚らしく雨に曝らされた獄吏の長屋の板塀が長くつづいて」という街並みは、今では何らの名残りもとどめない。ただ、余丁町児童遊園の一角に「東京監獄市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔」がまつられ往時を偲ばせる。

刑死者慰霊塔

監獄署の裏手のありさまを目の当たりにして、「次第々々に門の外へ出る事を厭い恐れるように」なった「私」は、父の屋敷にこもり「やはり縁側の硝子(ガラス)戸から、独り静に移り行く秋の日光(ひかげ)を眺め」て暮らすことになる。

「木の葉は何時か知らぬ間に散ってしまって、梢はからりと明(あかる)く、細い黒い枝が幾条(いくすじ)となく空の光の中に高く突立っている。後の黒い常盤木の間からは四阿屋(あずまや)の藁(わら)屋根と花畠に枯れ死した秋草の黄色(きばみ)が際立って見えます。縁先の置石のかげには黄金色(こがねいろ)の小菊が星のように咲き出しました。その辺からずっと向うまで何にも植えてない広い庭の土には一面の青苔が夏よりも光沢(つや)よく天鵞絨(ビロウド)の敷物を敷いている。二、三匹の鶺鴒(せきれい)がその上をば長い尖った尾を振りながら苔の花を啄(ついば)みつつ歩いている。鼠色(ねずみいろ)したその羽の色と石の上に置いた盆栽の槭(はぜ)の紅葉とが鮮かに一面の光沢ある苔の青さに対照するでしょう。」

小笠原伯爵邸

現実の世界に「対照する」のは、屋敷の「内」と「外」である。「内」の世界がいかなるものか。帰朝第1作の「狐」に描かれる、狐が棲みつくほど広い古庭をもつ「小石川金富町なる父が屋敷」と、余丁町児童遊園近くに1927(昭和2)年に建てられ、今もレストランとして遺る小笠原伯爵邸の威容から推し量れるかもしれない。

荷風が帰朝して半年頃を題材にした、もう一つの作品がある。「あゝ丁度半年目だ。月日のたつのは早い。日本に帰つてからもう半年たつた。」という嘆息に始まる「新帰朝者日記」である。主人公に設定された洋行帰りの音楽家と、江戸文学に造詣の深い小説家、外遊仲間である大学助教授の文学士によって繰り広げる、「明治の偽善的文明」に対する痛烈な文明批評である。

この3人を合わせて荷風像が成立するようにも見られるが、激烈な文明批評の赴くところ、文学もその例外でありえない。「純粋の日本人から生れた純粋の日本文学は明治三十年頃までに全く滅びて了った。其の以後の文学は日本の文学ではない。形式だけ日本語によつて書かれた西洋文学である。」と厳しく弾呵するばかりではない。

「今日若い書生の頻に称道する自然主義の文芸の如きは、到底吾々の了解し得られぬものである。彼等は美辞麗句を連ねて微妙の思想を現はす事を虚偽だとか遊戯だとか云つて此れを卑むらしく思はれるが、文学の真髄はつまる處虚偽と遊戯この二つより外にはない。其れを卑むならば、寧ろ文学に関与(たづさ)はらぬ方がよいのである。‥‥文学の興味は人間の知識が凡そ不完全な言語をもつて、虚偽と不真実を何(ど)れ程真実らしく語り得るかと云ふ其の手腕を見るのにある。この滑稽な遊戯が乃ち文学と称するものだ。」

秘かに懐いていた新しい真実の文学への大望を、荷風はここにさりげなく披露してみせたということか。

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