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外史と政記と楽府ー中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その8)

「山陽の学藝」の考察は、頼山陽についての中村真一郎の「接近の最後の到達点」である。

山陽と言えばまず『日本外史』である。「後世も、この作品によって、山陽の名を記憶している」と言っても、さらに「後世」になるとそれすらあやしいかもしれない。「二十歳代で初稿を仕上げてから、生涯の間、数回書き直し、ようやく完成を見たのは、‥‥山陽四十八歳の時であった」というから、まさに二十年余りをかけた「山陽の畢生の事業」である。

そして、「学者的な『蒙史』や『逸史』は世に行われず、平易な『外史』はベスト・セラーとなった」のである。というのも、「全巻に著者の勤皇思想が一貫して脈打って」いて、中村真一郎は「維新の世代がこの書によって感奮興起したのも無理からぬ」ことであり、「維新の世代の理想主義は『外史』の行間に、自分たちの行動の原理を読んだ」と見るのである。

山陽は『外史』に続いて、すぐさま「今度は神武以来の歴代天皇の事蹟の歴史に取り掛る。それが『日本政記』となった」のだが、なかんずく「各所に挿入された『頼襄曰ク』に始まる篇」、いわゆる「論賛」には死に臨む病床にあっても手をいれるほどの力の入れようであった。しかも、その論調について著者は、「彼は死に臨んで、検閲への考慮というようなものは忘却し果てたように見える」と評している。

巻之一の応仁紀の論には、「道ハ一ノミ。道ノ天下ニ在ルヤ、ナホ日月ノゴトキ也。日月ハ天下ノ日月也。一国ノ私有スル所ニ非ザル也。道モ亦、然リ。」「夫レ道ハ一也、則チ学モ亦一也。寧(イヅク)ンゾイハユル国ト云フ者アラン乎、陋ナル乎。」と述べ、山陽は「普遍的原理としての『道』を呈示している」、すなわち著者は、「彼は真理追求の道具としての学問は、漢学も和学もない、ひとつの『学』があるだけだと断じている」と解くのである。

とくに興味深いのは、さらに括弧付きで続ける著者の付記である。
「(これは、折衷主義に似て、しかし、仏教に対しては態度が急変する。当時の漢学者はそのナショナリズムによって、国学に接近しはじめていたが、仏教に対しては攻撃的な立場を取るものが多いことは注目に価いしよう。当時の仏教、特に寺院仏教は徳川支配体制と密着して官僚化し、体制の矛盾から起る農民貧民の不満を、上から慰撫する傾向が強かった。それに対して、儒者も国学者も反体制的姿勢を強めつつあったから、連合して仏教思想に当ろうという傾向に向って行った。――それが最後に爆発したのが、維新直後の『廃仏毀釈』運動である。)」

この「廃仏毀釈」の解釈は説得的である。おそらく寺院仏教は「官僚化」のみならず、檀家制度のなかで形骸化し、あるいは堕落していたのではないか。その後もなお宗教的回生はとげられず、寺院仏教は「葬式仏教」に堕して延命したと言えよう。

『日本楽府』は『日本政記』の副産物であり、山陽が「明朝の李東陽(りとうよう)の『擬古楽府』の真似をして」、六十六篇作ったものである――と言われても、李東陽も『擬古楽府』の何たるかも知らずしては、一知半解にも及ばない。しかも、「『日本外史』の草稿を一読しただけで、山陽の天才を発見」した「山陽の親友であり、当代一流の漢詩文の専門家」であった篠崎小竹さえ、その序で「而シテソノ焉(コレ)ヲ読ム者、余ノ嚮(サキ)ニ悉ク解スル能ハザル者ノ如キ、蓋シ十ニ八九ナリ。」とするほど難解な代物である。

ためしに「朱器台盤」を抜き出してみよう。
「君ガ家ノ朱台盤、彼ヨリ奪ツテ此ニ与フ、何ゾ難シト為サン。自ラ鼎鼐(テイダイ)ノ安キヲ得ガタキ有リ。小児ハ餗(ソク)ヲ覆(クツガ)ヘシ、大児ハ羹。鼎沸セル四海、狂瀾湧ク。」火攻先着、欺イテ肉ヲ食フ。流箭(リウセン)喉ニ到ツテ星落ツルガ如シ。君王ニ従ツテ晨粥(シンジユク)ヲ啜ラズ。」

何時ものことだが、あまり馴染みのない漢字の百出には難渋する。ここでも〈羹〉を調べるのには手こずった。まずは、この漢字の部首が〈ひつじへん〉とは知らなかった。しかも総画数を18画と数える勘違いをしていた。じつは〈羹〉の下部は〈大〉であり、上とは繋がっていないので、19角である。目を皿のようにして探しても見つからないわけだ、やれやれ。

閑話休題。この詩は何をうたっているのか。「朱器台盤」とは、辞典によると「平安、鎌倉時代、藤原氏の長者が正月の大臣大饗に用いる食器。閑院左大臣藤原冬嗣から重宝として伝来したもの」とあるが、これだけでは何も見えて来ない。山陽は「純粋に文藝的な奇巧をねらって、表現上の工夫を凝らす余り、それがいかなる事実を詠じているのか謎のようになってしまった」というのである。

そこで、公刊に際して弟子の牧百峯が命じられ、各篇に付した「歴史的事実の註解」と対照して、著者は次のように読み解くのである。
「藤原忠実は長子の関白忠通から藤原氏伝家の宝器を取り戻して、次男の左大臣頼長に渡した。それがために国家は安定を失い、保元の乱が起った。『小児』は頼長、『大児』は忠通を指す。天皇方の源義朝が火攻めを以って先制攻撃し、上皇方の頼長は流矢に喉を射られ、そのために上皇が知足院に入って粥をすするのに、供ができなかった。‥‥」

たしかに誰しも「原詩だけからは、到底このような意味に想到することは不可能」である。山陽は「難解な暗喩によって、写実的表現では創出できない、特殊な詩的空間を幻出させることで、読者を酔わそうとしているらしい。――」と著者は評しているが、謎解きの面白さに酔うのではなく、どれだけの人がこの「特殊な詩的空間」を感受し酔えるだろうか。

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