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小説は井原西鶴、美文は横井也有

永井荷風『雨瀟瀟・雪解 他七篇』(岩波文庫)つづき。

「二葉亭四迷出でて以来殆ど現代小説の定形の如くなった言文一致体の修辞法」を、「雨瀟瀟」の金阜散人はシニカルに冷笑するノデアル。「このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄(はいき)しようと思いながら多年の陋習(ろうしゅう)遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを歎じている次第であるノデアル。」

その金阜散人こと「わたし」は、「自分だけの心やりとして死ぬまでにどうかして小説は西鶴美文は也有(やゆう)に似たものを一、二篇なりと書いて見たいと思っていた」。なかんずく『鶉衣』を「わたしは反復朗読するごとに案を拍(う)ってこの文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後といえども必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。」とするほどに感嘆する。「その故は何かというに『鶉衣』の思想文章ほど複雑にして蘊蓄(うんちく)深く典故(てんこ)によるもの多きはない。それにもかかわらず読過其調の清明流暢(りゅうちょう)なる実にわが古今の文学中その類例を見ざるもの。」と言うのである。

はてさて、『鶉衣』の序文に「よく人の心をうつし、よく方の外に遊べり」と記して、蜀山人・大田南畝の「嘆賞措かざりし処」といえども、教養なき身は横井也有なる俳人を知るよしもなく、おのずから『鶉衣』なぞ手にしたことはない。「わたし」の知人・彩牋堂主人ヨウさんの嘆くように「新聞の小説はよめるが仮名の草双紙は読めない」のたぐいなので、それがいかほど優れているのか知るべくもない。図書館の検索を試みると、司馬遼太郎訳『鶉衣』(抄)が『日本の古典/蕪村・良寛・一茶』に収載されているではないか。とり急ぎ一読、「典故によるもの多き」ことは確かだが、これを「わが古今の文学中その類例を見ざる」ほどの「美文」と言うのだろうか。ただ、着眼がめっぽう面白い。

それにしても、親友の六林の著した『風俗文選』に贈った也有の「六林文集序」はとにもかくにも凄い。まずは俳諧の文章について、芭蕉などの文をあげて、「ただ和漢の故事古語を理解し、世俗の諺にも精通し、それらをにおわせながらも露骨には表わさず、長いのを縮め堅いものをこなしてやわらかにし、卑俗に落ちず、といってあまり上品ぶらず、主意がよく首尾一貫しているのを、整った文章だといえよう。」と述べる。しかるに、「私の友、護花関六林の文章は、どれもこれも玉をならべ錦を織りなしたみごとさである。」云々と、その「神髄や価値」を讃えてやまない。

しかる後、呉服を商う家では「入口の暖簾にはかならず木綿を使うことになっている。その店を訪ねる人は、まずこれに目をとめるが、その生地のよしあしはいわない。だから私の木綿のようなそまつな才で、はじめに一重(ひとえ)の暖簾をかけるように、つたない序文を置いたとしても、店の品物の値うちをおとすことにもなるまいと、つい遠慮もしないでこの序文を書き贈った。」と結ぶ。暖簾の譬えは、じつに絶妙おく能わざる着眼というほかない。

もうひとつ、「わたし」が、ヨウさんの話と結びつけて思い返すのは、「新妻の趣味を解せざる事を悲しみ憤(いきどお)る男の述懐」を描いたアンリ・ド・レニエの短篇小説「MARCELINE OU LA PUNITION FANTASTIQUE」――仏和辞典を引いて直訳すれば、「マルセリーナあるいは幻想的な罪」であろうか――の作意である。

「小説は西鶴」を憧れとする荷風も、フランス滞在中にレニエを読んで、「新しい近代的の趣味で、ゾラやフローベルなどの現実描写を主義とする観察小説の反抗として面白く感じた」(「レニエの詩と小説」)とするが、今ではほとんど馴染みのない作家である。まずはアマゾンを覗いてみると、森鷗外訳の『不可説』『復讐』があらわれた。早速、この二つの短篇に目を通したが、レニエに寄せる荷風の心情を得心するには至らなかった。

いまどき馴染みのない世界を、荷風に謎をかけられて覗き見るのは、それなりに発見があり愉しいものである。「榎物語」「ひかげの花」など、立ち止まって寄り道することなくスラスラ進める作品は、かえって物足りなく思え、読み疲れるようであった。

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