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永井荷風と谷崎潤一郎の往復書簡

永井荷風と谷崎潤一郎の往復書簡といっても、もともと「往復書簡」として纏まったものがあるわけではない。岡山に疎開した荷風は、やはり県北の勝山に疎開していた谷崎に書簡を送り、のちに疎開先まで訪ねてもいる。その間に交わされた手紙やハガキのすべてに目を通して、文豪二人の真情を感じ取りたかった。

そんなことを漠然と感じているとき、谷崎潤一郎『疎開日記 谷崎潤一郎終戦日記』(中公文庫)を手にし、そこに「永井荷風との往復書簡」を見つけて驚喜した。編集部の注によると《「永井荷風宛書簡」は『谷崎潤一郎全集 第二十五巻』(中央公論社、一九八三年九月)を、「谷崎潤一郎宛永井荷風書簡」は『永井荷風全集 第二十七巻』(岩波書店、一九九五年三月)『永井荷風全集 別巻』(岩波書店、二〇一一年十一月)を底本》として構成した「往復書簡」である。なお、山陽新聞1988年6月29日付けの記事によると、その後、武南家から7月23日付けの荷風宛て谷崎書簡が見つかっている。そこには、「当地にて間借をさがす際高齢者をきらふ処あり」(7月21日付け書簡)という荷風の心配に答えて、「当地は子供のある家族に部屋を貸すことは嫌がりますが、別に老人を敬遠する風は見えません」(現代文訳)という谷崎の添え書きがある、と報じている。

また、《(「永井荷風宛書簡」のうち昭和二十年六月二十七日付二通の詳細は解説を参照)。》とあるので、さっそく「解説」を参照すると《荷風宛の昭和二十年六月二十七日付の谷崎書簡は、『語文』(一六三輯、日本大学国文学会、二〇一九・三)に〈資料紹介〉として掲載された徳本善彦「永井荷風宛 谷崎潤一郎書簡(昭和二十年六月二十七日)」による》とある。そういえば先般、たまたま「肉筆で読む永井荷風展」(主催:日本大学図書館)に赴き、その谷崎書簡を観覧したと気づいて嬉しくなった。

6月27日といえば、谷崎の『疎開日記』には《岡山に疎開中の荷風先生より書面来れり》と記されている。荷風からの書面には《私偶然当地へ避難致し御住処始て存上候間御機嫌伺方〻端書差出申候》とあり、早速、谷崎は返書をしたためた。《先生が近きところに御疎開被成候事ハまことに夢のやうなる奇縁にて欣喜いたし候》とよろこぶばかりか、《猶此際一層岡山よりも辺陬の地へ再疎開被遊候方安全のやうに存候へ共如何思召され候哉》と、岡山市内よりさらに僻地への再疎開を勧めてもいる。

その頃、谷崎は津山からさらに辺鄙な勝山へ疎開先を移すのだが、本書収載の「都わすれの記」によると、《勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしき嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすぢ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む》とある。谷崎が《まどの戸をあくれば入り来やまざとの/人に馴れたる雀うぐひす》と詠うほどの山間地だが、室町時代からの高瀬舟の発着場跡が残り、今は県指定の「街並み保存地区」である。折りがあれば訪ねてみたい。旭川は下って岡山の後楽園わきを流れるのだが、岡山空襲に遭遇し、旭川の「河原の砂上に伏して九死に一生」(『日乗』)をえた荷風にも、谷崎は《此際もつと辺陬の地に御移り被成るやう切に御すゝめ申上候。》と再疎開を説いてやまなかった。

ようやく《拝顔》の叶った荷風の風姿を、谷崎は『疎開日記』に目に浮かぶように書きとめている。

《八月十三日、晴 本日より田舎の盂蘭盆なり。午前中永井氏より来書、切符入手次第今明日にも来訪すべしとの事なり。ついで午後一時過頃荷風先生見ゆ。今朝九時過の汽車にて新見廻りにて来れりとの事なり。カバンと風呂敷包とを振分にして担ぎ外に予が先日送りたる篭を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産なりとの事なり。然れども思つた程窶れても居られず、中々元気なり。拙宅は満員ニ付夜は赤岩旅館に案内す。旅館にて夜食の後又来訪され二階にて渡辺氏も共に夜更くるまで話す。荷風氏小説原稿ひとりごと一巻踊子上下二巻来訪者上下二巻を出して予に托す》

荷風は書き溜めた未発表の草稿『ひとりごと』(『問はずがたり』と改題)『踊子』『来訪者』の保管を託すほど、谷崎を深く信頼していた。谷崎もまた『三田文学』で荷風に激賞されて文壇デビューした恩を忘れなかった。

翌日の日記には、《今日は盆にて昼は強飯をたき豆腐の吸物にて荷風氏も招く。夜酒二升入手す。依つて夜も荷風氏を招きスキ焼を供す。》と、作州牛を知人から工面して手厚くもてなし、《又吉井勇氏に寄せ書のハガキを送る。》とある。さて、吉井勇に送った寄せ書きはどんな内容だったのか。嬉しいことに本書の「吉井勇との往復書簡」に収録されているではないか。

《昨夜から谷崎君の御世話で勝山にとまつてゐます 明日岡山に帰りますがいづれ勝山に世を忍ぶ事になるでせう 委細、郵便にて 荷風老人拝  

荷風先生思つた程やつれても居られず元気一杯にて昔日と異ならず大いに安心仕候 いづれ詳細後便にて申上候 十四日 潤一郎》

ちなみに、この葉書は京都府立総合資料館が所蔵する「吉井勇資料」の一つで、「〈新資料紹介〉吉井勇宛書簡をめぐって――八十五通の親愛」(たつみ都志・大村治代、「国文学:解釈と教材の研究」43、1998年5月号)に紹介されているのだが、「昨日岡山に残りますか」とあるのは、本書にあるとおり「明日岡山に帰りますが」であり、「郵便にて」は「郵書にて」が正しいと、出向調査した工藤進思郎(岡山大学教授)は「誤植(?)」を指摘している。(「作州疎開時代の谷崎潤一郎」岡大国文論稿2001.3)

ひとたびは「いづれ勝山に世を忍ぶ事になる」と心に決めた荷風であったが、「広嶋岡山等の市街続々焦土と化するに及び人心日に増し平穏ならず、米穀の外日用の蔬菜を配給せず、他郷の罹災民は殆食を得るに苦しむ由、事情既にかくの如くなるを以て長く谷崎氏の厄介にもなりがたし。」(『断腸亭日乗』八月十四日)と慮っている。谷崎もまた《予は率直に、部屋と燃料とは確かにお引受けすべけれども食料の点責任を負ひ難き旨を答ふ。》(「疎開日記」)というほど、時勢は逼迫していた。

岡山の武南家に帰着して終戦を知った荷風は、「休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」と『断腸亭日乗』に書きとめている。そして、谷崎宛て8月17日付け書簡には「本年五月流浪の生涯になりてより此方勝山の三日ほど楽しき時は一度もなかりし事に御坐候」と欣びを伝え謝意を表している。二人の文豪が疎開先の岡山で見せた交誼はうるわしい。客嫌いを自認する谷崎が荷風を敬慕するのは何故か。それは荷風が「孤立主義の一貫した実行者であって、氏程徹底的に此の主義を押し通している文人はないからである。」と短文「客ぎらい」に明かしている。

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