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花街の構造を穿つ―前田愛『成島柳北』の世界Ⅱ

前田愛『成島柳北』は、ようやく「柳橋遊日」から「風俗誌の系譜」の章へと進む。

「いわば花街の構造を社会学的な精密さで立体的に再現して見せたところに、もうひとつの風俗誌の可能性を切りひらいた」――そこに成島柳北『柳橋新誌』初編の特色があると見る著者は、冒頭の一節を例に引く。これがまた難解な熟語のオンパレード、辞書と首っぴきをまぬがれない。(丸括弧内のルビのカタカナ表記は原著のまま、コロン記号「:」の後に熟語の意味を辞書から引用)

「橋の東西より両国橋の南北に連なつて、各戸(イヘイヘ)の舟舫(ふなもやい:舟を繋ぎ止めること)舳艫相ひ銜み(じくろあいふくみ:多くの船が続いて進む様子をいう)、楫櫂(カヂサホ:短く数繁く動かして漕ぐのと、長くしなるようなもの)相ひ撃ち、其の数幾千艘なるを知らず。而して盛夏の候(コロ)、遊客麋(び:くだける、乱れる)ノ如ク至り、揺々(ようよう:揺れ動くさま)として泛して去り、日夕は一葉(ソウ)の岸に横はるを見ず、盛なりと謂つ可し矣。」

遊客を乗せた船の柳橋界隈を繁く行き交う繁忙ぶりが叙述されているが、それだけにとどまらない。

「至若(しかのみならず)酒楼の荘麗なる甍瓦(ぼうが)相ひ映じ、茶肆(チャミセ)の瀟酒(シヤレ:しょうしゃ)たる幟簾(のぼりすだれ)互に颺(あが)る。炙鱣店(ウナギヤ)は芬香鼻を襲ひ、屠豚舗(モヽンヂイ)は鮮血履を汚す。餅店の餅は以て黄河の水を壅遏(ようあつ:路をふさぎさえぎる)す可く、果舗(クダモノヤ)の果は以て斉囿(せいゆう:鳥獣放ち飼いのところ)の禽(とり)を弾尽(うちつく)す可し。鮓舗麵舗(スシソバ)、曰く何曰く何、欲する所飽くことを得ざる者無し。而して朝に具(シコム)ふる所の者、暮には則ち乾々(カラカラ)売尽す矣。飲食の客此に来る者其の夥しきこと知る可し也。」

鰻、豚猪の肉、餅、鶏肉、鮨、蕎麦などの店の幟がはためき、夥しい客がひしめき合う繁盛ぶりである。

こうした「柳橋の繁盛いっさいをもたらした蔭の力」は何か。柳北の認識は直截である。

「而して斯の地の繁華往日(イゼン)に超(こえ)たる者は則ち此に非ずして彼に在り。彼とは何ぞ、曰く、歌妓(ゲイシヤ)也。」

すなわち、蔭の力は「一夕の歓を売る歌妓の群に外ならない」と見て、柳橋の風俗を語り始めるのである。

しかも、柳北の「冷徹な分析」は、「花街の構造を金銭の関数として解きあかして行く」。が、冷徹ばかりではなく、「いもりより佐渡から出るがいつちよよし」という川柳を援用するなど、「諧謔を交えた軽快なスタイルで解きあかして」いくのである。江戸時代、イモリの黒焼は惚れ薬とされていたけど、佐渡の金山にはかなわない。花街も「金在れば則ち親しみ、金尽くれば則ち離る」というのである。冷徹かつ直截に物事の本質に切り込み、かつ軽快なスタイルで解き明かしていく柳北は、秀逸にして類稀な天性のジャーナリストではないか。

だが、「柳橋の醜状を遺憾なく暴露した柳北の冷酷な行文は、一方では、烟花の世界に『風流』を求めてやまない彼の夢見る心の証(あか)しである」と見抜いて、著者はのちに柳北の追補した一文の冒頭を引く。

「然れども余(わ)れ竟(つい)に真の無情の人に非ざる也。多情にして無情の言を為すは、乃ち亦思ふ所有る也、思ふ所有る也。夫れ多情の事は何ぞ彼の蚩々蠢々(ワカラズウゴメク)の徒と語る可けん哉。風流の遊は亦何ぞ齪々営々(コセコセケチケチ)の輩と偕(とも)にするを得ん哉。其の偕にすべく語るべき者は則ち唯々天地間第一等の逹士、古今来第一流の才子而已(のみ)。」

柳北はさらには、「金陵名妓の小伝をつくり、才子佳人の風流逸事を百世にのこした」あの明の遺民余懐の『板橋雑記』のひそみに倣うつもりであった。「中国、唐代の名妓、薛濤(せっとう)がその文才を元稹(げんしん)に認められ、校書郎に任ぜられた」ことから、芸妓を校書と雅称するようになるのだが、柳北は「ついに録するに足る柳橋校書の行実を求めえられなかった」のである。

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