森鷗外『伊沢蘭軒』を読む(その9)鷗外に詫びた井伏鱒二の「悪戯」

「安政四年は蘭軒歿後第二十八年である」。
この年、老中の首席にあって独り外交の難局に当たっていた、主家の阿部正弘が病んだ。伊沢柏軒は終始「死を決して単独にこれが治療に任じ」、「蘭方医を用いしめよう」とするのを防いだ。ちなみに、鷗外の見立ては、「正弘の病は洋医方の能く治する所ではなかったらしい。正弘の病は癌であったらしい」というのである。しかし、「正弘の病は当時の社会にあっては一大事件」であり、それだけに「種々の流言蜚語が行われたのは怪しむに足らない」のである。

ある日、鷗外は新聞連載の読者と名乗る「朽木三助と云ふ人の書牘を得た」。そこには、驚くべき謀殺説が書き綴られていた。
「米使渡来以降外交の難局に当られ候阿部伊勢守正弘は 、不得已事情の下に外国と条約を締結するに至られ候へ共 、其素志は攘夷に在りし由に有之候 。然るに井伊掃部頭直弼は早くより開国の意見を持せられ 、正弘の措置はかばかしからざるを慨し 、侍医伊沢良安(榛軒)をして置毒せしめられ候 。良安の父辞安(蘭軒) 、良安の弟磐安(柏軒) 、皆此機密を与かり知り 、辞安は事成るの後 、井伊家の保護の下に 、良安 、磐安兄弟を彦根に潜伏せしめ候 。 」

鷗外は「これを読んで大に驚いた」ことは言うまでもない。「或は狂人の所為かと疑ひ 、或は何人かの悪謔に出でたらしくも思つた」のであるが、「しかし筆跡は老人なるが如く 、文章に真率なる処がある」と判じた鷗外は、その説の虚伝である所以を手紙に認めて答えた。その「大要は阿部正弘の病死は蘭軒辞安の歿後十八年 、榛軒長安の歿後五年の事であつて 、正弘の病を療したのは榛軒にあらずして柏軒磐安である 、父子三人皆彦根に居つたことがない 、此説の虚伝なることは論を須(ま)たぬと云ふのであつた」。とはいえ、鷗外はなお「朽木氏の存在を疑つて」いて 、宛名人不明で「答書の或は送還せられむことを期してゐた」というのである。

ところがである、鷗外のもとに「数週の後に朽木氏の訃音が至つた」のである。いわく「朽木氏は生前にわたくしの答書を読んだ 。そして遺言して友人をしてわたくしに書を寄せしめた 。 『御蔭を以て伝説に時代相違のあることを承知した 。大阪毎日新聞を購読して 、記事の進陟を待つてゐるうち 、病気が重体に陥つた 。柏軒の阿部侯を療する段を読まずして死するのが遺憾だ 』と云ふのであつた 。按ずるに朽木氏の聞き伝へた所は 、丁巳の流言が余波を僻陬(へきすう)に留めたものであらう 」と鷗外は結んでいる。

ところがである、驚くなかれ、この「朽木三助」とは、井伏鱒二が中学生の頃のペンネームだというのである。その経緯を「東京朝日新聞 」昭和六年七月十五日 ~十六日 掲載の 「森鷗外氏に詫びる件 」に、同じクラスの「森政保の教えてくれた材料によって 、鷗外に反駁文を書いた」と、みずからの「悪戯」を明かしている。とすれば、鷗外は中学生たちに「まんまと一ぱいくわされている」わけで、悪戯にもほどがあるとはいえ、井伏少年の「筆力」はそれを成しうるほどのものであったのである。

井伏鱒二は、「『文章に真率なる所がある 』なんていう批評は 、これは鷗外が参考資料に重みをつけるためだろうが 、私の文章を文壇的にそんなにいってくれたのは 、森鷗外が最初の人であるというわけになる 」とひとたびは喜びながらも、「しかし 、考えなおすまでもなく 、鷗外は全面的に自分で書きなおした候文を 、自分で真率なところがあると批評しているわけで 、私の候文を批評したことにはならないのである 」(井伏鱒二『点滴 ・釣鐘の音』三浦哲郎編、講談社文芸文庫)と、鷗外の凄さに兜を脱いでいるというべきか。

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