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灰屋紹益『にぎはひ草』抜き読み記

 夜も涼し     もすす

 寝覚めの仮庵   さめのかり

 手枕も      まくら

 ま袖も秋に    そてもあき

 へだてなき風   たてなきか

吉田兼好は、アタマの文字を上から読めば「米賜え」、オワリの一字を下から読めば「銭も欲し」と、米と銭の無心を折りこんで和歌を詠んだ。沓冠のレトリックである。その兼好に比べれば、「我とめる身にはあらざれども、よね(米)あり、ぜに(銭)あり、民のかまどのにぎはひある人まねして、心のいとまさらになく、心身ことごとく、兼好には、黒白うらはらなるがゆへに、つれづれ草によせて、にぎはひ草とや名づけはべらん」――灰屋紹益が『にぎはひ草』(岩本活東子編『新燕石十種』第3巻、中央公論社)と名づけた所以である。

紹益は和歌・和文・漢詩・連歌・俳諧をはじめ、蹴鞠・茶道・音曲・書道などにいたる広い教養を身につけた文化人であった。和歌は松永貞徳などの一流の師に学んだようで、「明日御出座忝存候 一二種ならてハ御さなき由 まいらぬもの」と筆を起こした師への書状に、そのまま師が返事を書き入れて戻した貞徳宛て書簡が、『連歌俳諧研究』1966巻30号(小高敏郎「紹益・貞徳書簡」)に載せられている。

この頃、「倹約の御世」であった。「万人、その分々に随て身をつつしみ、つづま(約)やかにして下をいたはりて、くるしみあらしめじとするを、倹約とは申べきなり、当世はおご(奢)らぬを倹約といへばとて、おごらぬといふは、我物をつかはぬやうにすることのみと心得て、いとどしは(吝)き事に成ぬ、此しはき、しはし、しはい、と云は皺なり、我持たる物は人にやらじ、つかはじとしめ(占)置なり、つかひやるはの(延)べたる心なり、しめちぢ(縮)めぬればしわ(皺)に成なり、しはき者をば、きたなき、むさきなどいふも、この義にてしるし、若き者は面体もきれいなり、老人はしはになりてきたなく、むさきなり」

ここで『徒然草』のお出ましである。「つれづれ草にも、人はをのれをつづま(約)やかにし、おごりを退けて財をもたず、世をむさぼ(貪)らざらんぞ、いみじかるべきとこそいへるを、今は、をのれが物はつかはじとしめを(占置)きて、あくまで財を求め集て、人をいた(労)はる心さらになく、いためくるしめ、我とく(得)分として、非義なりとしれども、やらずつかはぬを倹約とす」と辛辣である。さらに、『徒然草』はつづく。「つれづれ草に、左右ひろければさは(障)らず、前後遠ければふさ(塞)がらず、心すこ(少)しきにしてせば(狭)き時は、ひし(拉)げくだ(砕)く、この詞少もたがはず、或はひしげくだけ、或は頓死す、或は人のきたな(穢)むる病を得、面体を損ずるもあり、我ためのみをおもひて、人のくるしみをいと(厭)はざるもの、かずかず見及てかくのごとし」――すなわち、人の苦しみに同苦せよ、と誡めるのだろうか。

ことほど左様に、『徒然草』によせた典雅な文体に手こずり、仮名書きにあてはまる漢字をさぐるなど四苦八苦しながら、本阿弥光悦にまつわる挿話を抜き読みした。

「一、大虚庵光悦といへる者、能書たりし事は普(あまねく)世にしる(著)しといへども、生れ得たる心の趣、かつ覚たらんもう(失)せてなく、伝聞かんも又々なし、また世に有べき人間とは覚はべらず、今の世の有さまを見るに、聖人、賢人の道を学とするも、世をわたるためをもととするに似たり、光悦は、よをわたるすべ一生さらにしらず、若かりし時より、物の数を合するもののたぐひ、おも(重)しかる(軽)しとし(知)るもののたぐひ、一生我家の内になし(中略)我身をかろくもてなし(持て成し)て、一類眷属のおごりをしりぞけん事を思ひ、住宅麁相(そそう)にちいさきを好みて、一所に年経て住る事もなく、茶湯にふかくすき(数寄)たりければ、二畳三畳敷、いずれの宅にもかこいて、みずから茶をたて、生涯のなぐさみとす、人ののぞみ好む道具なども、しばらくは持たる事有けれども、おと(落)すな、うしな(失)わぬようになどいう事、いとむつかしとて、みなそれぞれにとらせて、後人のほししと思うべき物なかりし」

蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり、とする日蓮の教えに徹した光悦の振る舞いということか。

鷹が峯の領地についても、懐古の念を強くするばかりである。

「都のいぬゐにあたりて、たかがみね(鷹が峯)と云山あり、そのふもと(麓)を光悦に給りてけり、我住所として一宇を立、茶立所などしつらい、都にはまだしらざる初雪の朝(あし)たは、心おもしろければ、寒さを忘れ、みづから水くみ、かましかけ、程なくにえ音づるるもいとどさびしく、みやこの方打ながめ、問くる人もがなと、松の梢の雪は、朝(あした)の風にふきはらひて、木の下がけにしばしのこるをおしむ(中略)かかるすまひの軒ばの松になれて、としひさしかりし世の中のわざとては、一こともしらず、心にもなし、我はさこそすべけれと、こしら(拵)へたるには更になくて、生れ得たる心のいさぎよきにてぞ有ける、その世には、同氏類は、人なみなみ(並々)に茶湯に心をよせざるはなかりけるが、いとあさましく、心ふつつか(不束)にすたりて、茶たて所昔ありけるも、こぼ(毀)ちとりて跡もなし」

本阿弥一門衰退の兆しを、紹益は嘆くのである。

「光悦孫に法眼空中斎(光甫)とてあり、茶湯にふかくすきて、年久かりし、我家の所作(しょさ)は類(るい)にすぐれて、世にももてはやすと見えし、茶の事の道には、物ごとに目あり心あるさま成けれども、さありとも人みし(見知)らざりけるにや有けん、近きほどには、此ふたりならではなし、またあるべきとも見えず、今のこれるひとりも、八十にあまれり、我も七十にあまりぬ、もと此氏の内に縁ふかきゆへに、この類ほどなく茶の事などの道、跡かたもなく成行なんこと、いと口おしくぞ覚はべる、我いと(稚)けなき時より、光悦そば近くな(馴)れて、老人の物語きくことおもしろく覚ければ、いくそたび(幾そ度)まかりてけり、少物覚けるほどに成ぬれば、ちゃの(茶飲)みの友にも成て、私宅にもあまたたび(数多度)たづね来られし、老人のくせ(癖)にて、おなじ物語も度々ききける」

その光悦も今は亡く、孫の光甫もすでに八十をこえ、七十過ぎの紹益は本阿弥一門の茶の道は跡かたもなく消滅したと慨嘆してやまない。

本阿弥光益が実父とされる紹益もまた、法華経を篤く信仰しており、自身に「冥加至極」のことがあれば、「今世に覚なし、過去の故や有けん」と受けとめるのであった。

「我若年より七十歳にあまるまで、法華経五種の修行の内、解脱は俗身なれば成難し、四種は数十年一日もおこたらず、この功徳を以て、現世には、先報恩謝徳の事、和歌の道に冥加あらせ給へ、と申ける、我いささか智なく徳なく、功もなし、信あれば徳有とはこの事にやと覚はべるなり」

五種の修行とは、法華経法師品に説かれる、釈尊滅後における五つの修行。すなわち、受持・読(経文を見ながら読む)・誦(経文を暗誦する)・解説・書写である。紹益は、信あれば徳あり、陰徳あれば陽報あり、と越し方に深く感慨をもよおすのである。

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