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小島政二郎『小説永井荷風』を読む

駆け出し編集者の頃、怖いもの知らずのアタックで、小島政二郎の小説『聖体拝受』の連載を頂戴する僥倖に恵まれた。挿画を棟方志功に依頼したところで人事異動にでくわし、連載を担当することが出来なかったのは、今更のごとく悔やまれる。その頃、『小説永井荷風』は「永井家の許可が得られずに」(『百叩き』あとがき)、まだ出版されていなかった。その後、出会った視英子夫人の連載エッセイは大変な好評を得て、編集者冥利に尽きない思いをした。

荷風にひたすら「片恋」して、慶應義塾の文科に入った小島政二郎は、荷風が三田を去ったこともあって、「とうとう教わらずにしまった」ばかりか、「得たものは嘲笑に始まって悪声に終わったのだ。こういう人生もまた逸興であろう。」と、『小説永井荷風』の冒頭から自嘲ふうである。しかも、荷風から「嘲笑」されたのは、「尊敬の一心を込めて書いた『永井荷風論』によって、――十のうち九までは礼讚の誠をつらねた中に、ホンの一つ、私が荷風文学の病弊と見た点を指摘したことによって、彼の怒りを買った。」のみならず、「終生の恨みを招いた」というのである。

その荷風の逆鱗に触れた「直言」とは何か。『百叩き』を捲ると、「永井荷風の『断腸亭日乗』を読むと、私の悪口が六ヵ所に出ている。」として、一々について論駁している。そこに新潮社の『日本文学講座』に、若い頃の著者が執筆した「永井荷風」の話が出てくる。「全篇荷風礼讚の辞を列ねた。が、ただ一点、彼の女性観だけが私には納得出来なかった。」というのも、「荷風ほど教養のある作家の女性観とはどうしても思えず、無頼漢が口にしている女性観のような気がしてならなかった。」というのだ。

あるいは、「無頼漢と同じ女性観」であるにしても、「小説家である以上、生きた女性の生活を描いて見せて貰いたかった。」と綴った、「ホンの一つ」の「悪口」は、あるいは喉元に匕首を突きつけられたと、荷風は感じたのかも知れない。小島自身は「佐藤春夫と言い、小島政二郎と言い、彼を崇拝している人間の真心が通じない不思議な人間がいたものだ。」と不思議がるのだが、おそらく荷風にとっては、その次元の問題ではなかったかも。

「何年間か親炙して‥‥最後に残酷な悪口を『日記』に書かれ」た佐藤春夫は、『小説永井荷風伝』を著し、ゾラに傾倒した頃の荷風を「ゾラの経世的文学精神とは風馬牛であった」と揶揄した。一方、小島政二郎は「荷風はアメリカで、日本の作家が東京で英訳で読んだフランスの作家の作品をフランス語で読みつつ、彼等と同じように脱皮しつつあった事実を私は興味を持って眺めずにいられない。‥‥ゾライズムの模倣からも抜け出して、新らしい時代の作家として、彼等と歩調を合わせたかのように帰って来たのだ。」と捉えているのは、二人の人柄も滲み出ていて興味深い。

女性観をめぐっては、『小説永井荷風』において繰り返し論及しているが、荷風は「人間性を徹底的に追究する作家ではなかった。『日記』によると、彼は一生数え切れないほど女を漁った。しかし、どの女の性格をも追究していない。彼の小説を読んで、性格が彷彿として記憶から消え去らない女は一人もいない。」と断じてはばからない。

すなわち、「荷風は人生を『物語』にする作家であった。男にも、女にも、人間的に、性格的に肉迫しようとする興味はなかった。しかし、風俗や、小説が展開する場所、風景には、異常な興味と執念とを持っていた。『すみだ川』の人物は一人も生きていない。しかし、隅田川沿岸の風景描写は、小説に不必要なくらい詳細に生き生きと活写されている。」ばかりか、「荷風は『夏姿』でも、『襖の下張』でも、『腕くらべ』の私家版でも、女を玩ぶところしか描いていない。女のリアリティを描き得ないのは当然である。」とあくまでも辛辣である。

その「隅田川沿岸の風景描写」といえば、『江戸芸術論』の「浮世絵の山水画と江戸名所」の章で、葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』に描かれた風光を、荷風がこと細かに一覧する叙述をふと思い起こした。著者は「年譜的に言うと、荷風が浮世絵に興味を持ち、『江戸芸術論』を書き……」とチラリ触れ、さらに「浮世絵の美を論じた『浮世絵の鑑賞』や、ゴンクールの『北斎』や『歌麿』の翻訳や、江戸の狂歌を最大限に褒めたり、だんだん文学とは無縁のものとなって行った。」と、ほとんど一顧だにしない。だが、ほんとうに無縁か、もしくは江戸芸術を探究するなかで培われた何かがありはしないか。もう少し突っ込んだ考究をもとめたい。

ちなみに、国会図書館デジタルコレクションで目にした、北斎の『東都名所一覧』(寛政十二年正月開版)の版元に須原屋茂兵衛、須原屋伊八、蔦屋重三郎が名をつらねている。もと出版人としては、彼らの旺盛な出版活動ぶりに興味をかき立てられた。

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