『芥川龍之介の槍ヶ岳登山と河童橋』の驚き

「芥川龍之介 槍ヶ岳登頂100周年記念」として、上高地登山案内人組合が監修した『芥川龍之介の槍ヶ岳登山と河童橋』(2008年11月12日発行)が上梓されてて、ちょっとした宝物を見つけたような驚きがあった。

芥川龍之介の槍ヶ岳登山と河童橋_1

執筆者や企画・編集者は言うまでもなく上高地や槍ヶ岳に詳しいから、伊藤一郎(東海大学文学部教授)の論考「芥川龍之介の槍ヶ岳登山と河童橋」で、芥川の「槍ヶ岳紀行」に書いている道順を「松本→渚→島立→梓川に沿って右岸を進む……」と整理した後、いきなり「※『槍ヶ岳紀行』は『芥川龍之介未定稿集』に活字化されていますが、『芥川龍之介資料集』(山梨県立図書館文学館編)所収の写真と照らし合わせてみますと誤植が大変に多いことが分かります。ここにも記した地名『渚』『島立』も、実際の地名に合せて訂正しました」とずばり注記されている。

さらに、「資料編」に芥川の「槍ヶ岳紀行」が掲載されているが、これは伊藤一郎の翻刻(翻刻協力・牛丸工)によるもので、葛巻義敏編『芥川龍之介未定稿集』(岩波書店)の「翻刻は誤植が多いので、山梨県立文学館の原資料の写真版を基に、新たに翻刻し直した」と断り書きがある。これでは音に聞こえた岩波書店の校閲者もかたなしである。

布川欣一(登山史研究者)「昭和40年前後 上高地の山岳事情」には、一高旅行部OBの縦の会『失いし山仲間』(1972年、中村純二編)に寄せた、中塚癸巳男の回想記「小倉三郎君と島田藤君併せて芥川龍之介君」(四百字詰原稿用紙17〜18枚相当)にもとづいて、槍ヶ岳登山の終始が詳しく紹介されている。

芥川は、「小島烏水、明治35(1902)年の行に拠る『槍ヶ嶽探検記』(『山水無盡蔵』所収、1906年刊)を教室へ持込んで朗読し」て級友たちに熱く呼びかけ、中塚癸巳男など4人が応じたというのである。山崎安治「芥川龍之介の槍ヶ岳登山」(『登山史の発掘』)によって補えば、級友たちに「“槍ヶ岳の頂上は僅々四坪”等の句を“どうだ八畳敷しかないんだぜ、この室と同じ広さの尖鋭な頂上をちょっと想像して見ろ!是非とも登ろうではないか”と強調」したというのである。

しかも、「本格的登山の体験者はなく……例えば服装について、龍之介は、志賀重昂『日本風景論』(1894年刊)中の『登山の準備』に拠るとして〈紬、最も可〉だけを中塚らに伝え」、そこには〈また股引、脚絆の準備特に切要なり〉と続いていた。

だから、中塚はひとり「〈縮のシャツ、股引の上へ白地の久留米絣〉、それに、近所の足袋屋に作らせた紺足袋、紺木綿の脚絆をつけ、草鞋を穿いた」身ごしらえであった。「槍ヶ岳紀行」に「ふり向いて見ると谷底迄黒いものがつづいて其中途で白い円いものと細長いものが動いていた。(中略)円いのは市村の麦藁帽子、細長いのは中塚の浴衣であった」という「浴衣」はどうにも解せなかったが、そういうことだったのかとナゾは解けた。

そうして、芥川ら一行の登山ぶりは中塚によれば、「〈中原君が最元気、次が芥川君、市村君と私とはいつもビリッコケ〉」であったが、「〈兎も角も無事頂上。お山は晴天。雲海眺望三百六十度満点〉に恵まれた」と証言している。槍ヶ岳とは言わないまでも、今夏はせめて上高地周辺を歩きたいものである。

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