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「もしもし」の向こうの世界

K.S.R.C ResearchReport FileNo.010006
オリジナル公開日 1999/1/10 報告  報告者:KS

 あなたは電話をするとき何と言うだろうか。多くの人が「もしもし」と言うのではないだろうか。では、なぜ電話の時に「もしもし」と言うのか、考えたことがあるだろうか。この言葉の裏にある「もの」は奥が深い。

 「もしもし」の「もし」の語源は「申す」が訛ったものと言われている。ではなぜ「もし」でなく「もしもし」と言うようになったのか。

 電話が日本に姿を現したのは明治時代中期のことである。今でこそ極普通に使っているが、その当時の人々にとっては、たいそう不思議な機械であったことは想像に難くない。そこにいない人の声が聞こえてくるのであるから、不思議であったであろう。当時の人々の常識では考えられなかったはずである。逆に当時の常識としてはそんなことができるのは人間業では無かったのだ。人間でないと言うことは、それはすなわち妖怪の仕業であろうと考えたのだ。
 妖怪は繰り返しの言葉を言うことができないと考えられていた。だから、そこにいるはずのない人の声の聞こえる電話を使うときに、「もしもし」という繰り返しの言葉を言うことによって「私は妖怪ではありません。安心してください。」というメッセージを伝えると同時に、電話の相手が人間かどうか確認しようとしたのだ。こちらが「もしもし」と言って、相手も「もしもし」と言ったときに初めてお互いに相手が人間なんだと確認できたわけである。

 このことから伺い知ることが一つある。それは、当時は妖怪というものがより身近な存在だったと言うことだ。

実は、このような例はまだある。

 子供の頃、「かごめ、かごめ」という遊びをしたことはないだろうか。
オニとなった人が真ん中で座り、その周りを「かごめ歌」という歌を歌いながら周り、その歌が終わったときにオニが後ろの人を当てる、という遊びである。

 この「かごめ歌」に秘められた謎は大きい。まずは、「かごめ歌」をご覧いただこう。

かごめ、かごめ
籠の中の鳥は、いついつ出やる
夜明けの晩に、鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ

 幼い頃、実際に遊んでいたときには歌詞の意味など考えずに遊んでいたであろうが、あらためて見直してみると、とても不思議な歌詞であることが解ると思う。
 では、ひとつづつ解いていくことにしよう。

 まずは、「かごめ、かごめ」からだ。
 この「かごめ」の意味として、日本民族学の祖・柳田国男氏は「かがめ」が訛ったものとしている。確かに、真ん中のオニは「かがんだ」状態である。が、もし柳田氏の言うとおり「かがめ」の訛ったものであるなら、日本中でどうして唯の一つも「かがめ、かがめ」で伝承されている例がないのであろうか。
 この「かごめ」の意味はそれ以降の歌詞の意味を考えると、次のように考えるのが最も素直である。それは「かごめ」は「籠目」であるということだ。

 歌詞は「夜明けの晩」「鶴と亀が滑った」と続く。
 「夜明けの晩」とは矛盾した言葉だ。「夜明け」とは朝日=太陽を表している。古来、日本人は太陽を神として信仰していた。その太陽が隠されると言うことなのだ。これは、「神を隠した」あるいは「神は現れない」と言う意味となる。

 続く「鶴と亀が滑った」であるが、「鶴」も「亀」も縁起が良い動物とされている。その「鶴」と「亀」が「滑った」のである。これは非常に不吉なことの象徴である。

 最後の詩「後ろの正面だあれ」であるが、これは単に「後ろにいるのは誰か」の問いかけだけではない。地獄の亡者はその後頭部に番号札を張られると言う。後頭部とはまさに「後ろの正面」である。そこから「後頭部に番号札を張られるのは誰だ」=「鬼に地獄まで連れ去られるのは誰だ」という意味になるのだ。

 「かごめ歌」に秘められた意味は以上のように解釈できる。しかし、疑問が残る。それは、なぜ子供の遊び歌にこのような恐ろしい意味の歌が与えられているのかと言うことである。その答えは、ひとつである。それは、昔は鬼が人を連れ去る事件が多発していたためである。これは「神隠し」とも言われる現象で今も語り継がれている。

 では、鬼に代表される妖怪だが、現代にはいないのだろうか。

 現代の妖怪として真っ先に思い浮かぶ妖怪と言えば「トイレの花子さん」であろう。ただ、この「トイレの花子さん」には原型とも祖先とも言える妖怪が存在する。トイレで用をたしていると「赤い紙と青い紙どっちがいい?」とどこからともなく声が聞こえてきて、「赤い紙」と答えると血だらけにされ、「青い紙」と答えると全身の血を抜かれてしまうという「トイレの妖怪」がいた。また、もう少し時代を遡って第2次世界大戦後の昭和20年代後半には、「赤いちゃんちゃんこ着せましょか」と歌いかけてくる「トイレの妖怪」がいた。この妖怪の問いかけに「はい」と答えると、まるで赤いちゃんちゃんこを着てるように血だらけにされてしまったという。
 それ以外の妖怪では「口裂け女」に触れないわけにはいかないだろう。「口裂け女」は昭和50年代に現れた妖怪である。関西方面から噂が広がったようだ(最初の目撃例は大阪とも奈良とも言われている)。彼女はいろいろな特徴を持っていた。
 最も有名な特徴は「私、きれい?」と問いかけ「はい」と答えると、「これでもきれい?」と言ってマスクをとり裂けた口を見せ驚かすといった行動だろう。また、ポマード(一説では「おしろい」とも言われている)がきらいで「ポマード」と言うと逃げていくとか、足が速く100メートルを6秒で走るとか、赤いセリカに乗っているなど非常に多くの特徴が報告されていた。

 では、そういった妖怪の正体は何であろうか。ここでは、いくつかの説をご紹介しよう。

<異次元生物説>
 この世界とは異なった世界(次元)の生物ではないかという説。この説はすべての妖怪に対して説明できるが、万能が故に何の説明にもならないとも言える。

<未知生物説(UMA説)>
 現在まだ発見されていない、またはすでに絶滅した種類の生物ではないかという説。河童がこれではないかとも言われている。

<地球外生物説>
 妖怪とは宇宙人の目撃例ではないかという説。河童を例に取れば、河童の頭の皿は何かのアンテナ、背中の甲羅は地球上で呼吸するためのボンベではないかと言う具合だ。また、北海道のコロボックル、沖縄のキジムナー、西洋の妖精などはその身体的特徴から、近年目撃例の多い小型宇宙人ではないかとも言われている。

<外国人説>
 日本は明治時代を迎えるまで鎖国していたわけだが、それ以前に来日していた外国人を妖怪だと誤認したという説。鬼は背が高くがっちりした体型である。また肌の色も赤や青と言われているがこの特徴は外国人に当てはまる。また、天狗は鼻が高いことが特徴であるがこれも外国人の特徴と一致する。

<誤認説>
 普通の人を見間違えただけという説。この説が当てはまる妖怪は確認されている限りでは河童だけである。例えば、ちょんまげをほどいた人が川を泳いでいる姿を想像してほしい。ちょうど皿のように見える頭部は河童の特徴である頭の皿に酷似している。また日本人に多い出っ歯は河童のくちばしのような口元のようでもある。

 妖怪の正体は依然として謎に包まれている。
科学の発達した現在において、妖怪など存在するわけがないという意見がある。たしかに、目に見える形での妖怪の存在する余地はあまりなさそうである。が、昨今の凶悪な犯罪の影には、妖怪の心が見え隠れしているようにも感じる。
 妖怪は、現代人の心の中に潜んでいるのかもしれない。


<解説>

「もの」

 「鬼」は太古「もの」と読み「神」と同義語だった。子供がよく「鬼ごっこ」やいろいろな遊びで「オニ」と言うのは、古来子供には不思議な力があると信じられていたのと無縁ではなさそうである。
 昔話で子供が主人公で登場(桃太郎、一寸法師等)し、大人でも手に負えぬ鬼を退治してしまうのは、子供が鬼よりも強い聖なる存在と見なされていたからである。
 子供には不思議な力があると信じられていたが故に古来から重要な神事にも子供は主役級の大役を任されてきた。その子供が行ってきた神事が遊びとして伝承されている可能性は大いにある。「かごめ、かごめ」もその一つかもしれない。

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