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ぼくのライブエイド研究5

どうして出てくれないの? みんな待ってるよ!

1985年7月13日・土曜日、イギリスとアメリカで同時に行われた史上最大のチャリティ・コンサート「ライブエイド」この大イベントを仕切るプロデューサーも、米英どちらも最高の大物になりました。

イギリスは、70年代から数多くのアーティストのスタジアムライブを成功させ、1979年にはライブエイドのモデルになったとも言える、ポール・マッカートニー主催の「カンボジア難民救済コンサート」も手がけている、ハーヴェイ・ゴールドスミス。

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アメリカは、あのウッドストックや、モンタレーポップフェスティバルラストワルツ、など伝説のコンサートをいくつも手がけ、1983年には巨大フェス「USフェスティバル」も成功させたビル・グレアム(グラハム)。

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この2人が、ライバル意識をむき出しにしたおかげで、豪華な出演者が次々と名乗りを挙げてくれたワケですが、やっぱりオファーを断られたり、スッポかされたり、当日までにいろんなトラブルがあったようですね〜。それを探るだけでも、楽しいんですけど。

ちなみに2021年現在、ハーヴェイは現役ですが、ビルはライブエイドの6年後の1991年に、不慮の事故で亡くなっています。彼の死後は、大規模な追悼コンサートも行われ、1994年には評伝本「ビル・グレアム ロックを創った男」も出版されました。

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これは現在、絶版ですので、ぼくも図書館で借りて読みました。400ページくらいある大著で、主に60年代〜70年代のロックシーンについて書かれていて、ライブエイドに関するパートは20ページ程度ですけど、そこだけでも読みごたえがある。「出る出ない問題」の証言も多く入ってますので、後で引用します。

公式ポスターに名前が入ってるのに・・・

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◎ ぼくがネットで拾ったこのポスター写真、これは、2005年リリースの公式DVDのパッケージにもプリントされてるのと同じものです。イベントの2ヶ月前くらいに制作されたものでしょうか。両方とも10時開場・12時開演予定になってますが、アメリカは後に早められて、7時開場・9時開演になりましたね。

◎ アーティスト名はアルファベット順に並んでますが、イギリス側の出演者はすでにフィックスされた状態。全員出ました。しかしアメリカ側のラインナップは、半分くらい「出なかった」人です。赤で囲んでみました。

◎ この頃、上記のグレアム本に載ってるゲルドフのコメントでは

「ビルが全然何もしてくれなかったんで、カンカンになってアメリカに飛んだ。怒り心頭に発してね」

みたいです。前回紹介したドキュメントLive Aid Against All Odds - documentaryでも、47分くらいから、ゲルドフはちゃんと肉声インタビューでビルの悪口を言いまくってます。アメリカ側のテレビ関係のスタッフも、ビルが働かないから、自分らでアーティストの交渉に当たったとか。

本の中でグレアム自身の証言では

メジャーな黒人アーティストには、すべてにコンタクトを取ったが、全員に断られた。彼らがライブエイドを袖にしたのは確かだ。

だそうです。それも疑わしいという説もあります。
ま、考えたらイギリスの白人ロッカーであるボブ・ゲルドフが主催者で、イギリスだけでなくアメリカ側のステージにも、エリック・クラプトン、フィル・コリンズ、レッド・ツェッペリン、ミック・ジャガー、デュラン・デュランなど、イギリス出身の白人ロック勢がメインを占めるような構成ができつつあった。ゲルドフも最初は「募金をたくさん集めるために、ライブにお客を呼べるメンツにするのは当然」と強気で言ってましたが、やはりアメリカのR&B、ソウル系のアーティストにしたら面白くなかったでしょう。

まあイギリス出身のアーティストも、アメリカでも売れたら、生活や仕事も税金の安いアメリカを拠点にするのが、当然の時代だったので、しかたない部分もありますよね。イギリスのステージも、アメリカから帰国して出演した人も多いみたい。

結局アメリカが決まらないから、プリテンダーズ、シンプル・マインズ、トンプソン・ツインズなど、本来イギリスに出る予定だったバンドも、アメリカに出ることになったり。

◎ それでも、直前になってアメリカでもライブエイドの話題が大きくなるにつれて、逆に自分から「出たい」と売り込んでくるアーティストも増えて、それらをさばきつつ、予定になかった午前中の時間に押し込んだり、不足してる黒人アーティストを増やすのに努力するなど、やはりビル・グレアムの影響力は欠かせなかったようです。

◎ では、赤で囲んだ人を順番に解説します。

■ ボーイ・ジョージが、なぜココに? 

すべての始まり、イギリスの若手スーパースターが集まったプロジェクト、バンドエイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」が1984年11月にリリースされ世界的に話題になった直後の、まさにクリスマスシーズン12月末、ロンドンのウェンブリー・アリーナでは「ドゥゼイ」にも参加した2組、人気絶頂期のデュラン・デュランカルチャー・クラブのツーマンライブが4日連続で行われていました。会場にはバンドエイドの首謀者ボブ・ゲルドフも来ていて、アンコールで「ドゥゼイ」を大合唱したと。その盛り上がりを見たボーイ・ジョージは、ゲルドフに「あんた、バンドエイドに参加したメンバー集めて、生の大きいコンサートもやるべきよ」と進言したんだそうです。

ライブエイドを最初に思いついたのはボーイ・ジョージだった、ということですが。彼自身は、カルチャー・クラブを少し離れて、ソロでのキャリアを考えようと、しばらく前からニューヨークで生活していた。

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一方、年が明けて、ライブエイドは米英での同時開催も決まり、ゲルドフとしてはボーイ・ジョージは言い出しっぺなんだから、当然出るだろう。しかし一人でニューヨークにいるんなら、ソロ名義でアメリカのステージに出演することにしとけばいいか。と思って名前を入れておいたところ、逆に!

「いやいや、あたしは出るんだったら、カルチャー・クラブとして、バンドでイギリスのステージに出たかったわよ。何を勝手に決めてんの!」とヘソを曲げて、結局は出演しなかった。というのが、これまでのネット上の噂を総合した定説でしたが、

最近になって、2020年の本人のインタビューで、その理由を "engaged chemically" と語っていました。本人の造語みたいだけど、たぶん当時の健康上の理由? 病気の治療とか、ドラッグ関係かな〜。「周りにも止められた」と。ま、そういう噂も当時からありましたが。。

(追記)しかし考えたらライブエイドのちょっと後くらいにもカルチャー・クラブとしてのライブはやっていた。一ヶ月後には来日もして、スタイル・カウンシルなんかと一緒に横浜スタジアムで演奏していたよ。

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なんだ、やっぱり、なんかのワガママで出なかっただけでは? 本人の語る病気説も信用できなくなったわ!

■ ビリー・ジョエル

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ゲルドフは「オレ(ウィ・アー・ザ・ワールドのオリジナル・レコーディング)」に参加している人をひとりでも多くライブエイドには参加させたかっただろうと思いますが。ビリーはこの時期はライブをやってなかったので、この日のためだけにバンドを集めるのも大変。しかしピアノの弾き語りだけでは、バンドで出演してる連中より目立たないし、ということで辞退したようです。アメリカの雑誌ローリングストーン誌の振り返り記事によると。

ソロアーティストは同じような理由で出なかった人も多いみたい。それでも弾き語り、カラオケだけでも出てくれた人もいるし。むつかしいですね。チャリティだからってバックバンドにはギャラは出さなくていいのか、そこは自腹なのか、て問題もあるしね。ま、ほんとはビリーも気乗りしてなかったのかも。

■ ウェイロン・ジェニングス

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ベテランのカントリーシンガー。この連載の第1回でご紹介した西寺郷太さんの名著「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」で、この人について詳しく書かれております。「オレ」の参加メンバーとしてカウントされてたのに、歌詞の内容でモメて、途中で帰っちゃた人。なのに、なぜライブエイドがオファーしてたんでしょうか? 調べても、わかりませんでした・・・。

■ クリス・クリストファーソン

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長年、カントリーシンガーとして活躍し、俳優としても数多くの名作に出演している。バーブラ・ストライサンドと共演した1976年版「スター誕生」「コンボイ」などが代表作。政治活動にも熱心で、チャリティライブも数多く出ています。グレアム本によると、

彼は自分からライブエイドに出演を希望したが「出演者が多いから、バンドでなく弾き語りにしてくれ」と言うと、マネージャーが「そんな扱いならクリスは出ない」と断ってきた。3年後に新しいマネージャーを探していたクリスに会ったら、そのことは知らず「自分はどんな形でも出たかった」と後悔していたと。

■ ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース

出てないのに、他の野外ライブの映像にライブエイドの会場の様子を挟み込んで、むりやり出てたような編集の動画をアゲてる人がいたよ。

気持ちはわかるが、もうちょっと上手くやってくれ、て感じだよね。

英語版のwikiによると「オレ」にも出てるくせに、ヒューイ・ルイスは2週間前の6月28日になって「募金の流れが、ちゃんとアフリカに行くのかよくわからないから」みたいな文句をつけて、出演を辞退したと。これに対してハリー・ベラフォンテさんは「自分もアフリカに行って見てくればいいのに」と批判したようなことも書いてあります。

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別で見たサイトでは「ヒューイ・ルイスは、ボブ・ゲルドフには共感していたが、後から出演を希望するアーティストが増えすぎて陣取り合戦みたいになるのに嫌気がさした」と書いてるのもあった。まあ、単純に出たくなかったのかもね〜。

■ ポール・サイモン

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「オレ」にも参加した、フォークの大御所ですね。グレアム本の、ゲルドフのコメントによると

ポール・サイモンから電話で「ビルの傲慢なふるまいに我慢がならない。あんな無礼な男とは仕事できない」と、コンサートを降りるという。ウイリー・ネルソンがそれに続いた。

だそうです。ウイリー・ネルソンも「オレ」に入ってるメンバーなのにね〜。ゲルドフはこのことで、かなりヤケになったようですね。

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■ ティアーズ・フォー・フィアーズ 後述します。

■ スティーヴィー・ワンダー

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「オレ」の最重要人物のひとりですが、本人の知らないとこで、勝手に名前を入れられて怒ってたみたいです。そもそも黒人アーティストは軒並み断ってたはずなのに、なんでスティーヴィーだけは出てくれそうと思ったんだろ?

メディアによっては「マイケルとスティーヴィーはライブエイドをボイコットした」などと悪者扱いしてるものもあったり。マイケル・ジャクソンのマネージャーは早くから「レコーディングに専念する時期なので出演できない」と声明を出してたようなんですが。

しかし前回も書いたように、当日のテレビ放送でキャスターたちが「マイケルとスティーヴィー、ダイアナ・ロスも会場に向かってるようです」とか言ってたり。「会場の途中まで車で向かっていたが、引き返した」という噂も出たり。なかなか謎なんですよ。ダイアナもツアー中だからと断ってたそうなんですが。本人たちがライブエイドについて語ったのを見つけられてないんですけど、ご存知の方は教えてください。

◎ とはいえ、こんなに出てない人の名前が残ってるポスターを、終わって20年経ってリリースされたDVDにも入れちゃうとは、度胸あるよね〜。まあ、それも含めて歴史の一部として共有した、ってことでよいのかな?

◎ ちなみにマイケルやダイアナやスティーヴィーなど出てない人たちが、翌1986年のアメリカンミュージックアワード授賞式では、仲良く「ウィ・アー・ザ・ワールド」を歌い、それをロンドンで中継で見ているゲルドフが目を伏せるシーンもあるんですが(泣)これについては5回後くらいにw また詳しく分析します。

◎ ちなみに、この連載の第1回でも説明した、ボブ・ディランの提唱によって、アメリカの貧しい農家にもチャリティしよう、という趣旨の「ファーム・エイド」がライブエイドの2ヶ月後、1985年9月22日にイリノイ州で行われましたが、ココには、ビリー・ジョエル、ウェイロン・ジェニングス、クリス・クリストファーソン、ヒューイ・ルイス、ウイリー・ネルソンなども参加していたそうです!

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◎ 他も豪華メンバーだったようだけど(自分はダイジェストしか映像見てません)こちらのほうが、さらに黒人アーティストが少なかった。まあ西部の農家って、そっちも難しい問題ありそうですね。ファーム・エイドはその後も恒例イベントとして毎年行われているようです。ま、これは世界中継もないアメリカだけの話なので。

そろそろ本番、始まりますよ・・・

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◎ これもネットで拾った写真。かなり本番直前、数日前に作られたと思われるタイムテーブルです。イギリス側で作られたもので、左は、ほぼ分刻みで細かいスケジュールが載っている。意外とかなり緻密な進行でした。

◎ 右側、イギリスのステージが終わった後のアメリカ部分は、タイムは入れずアバウトになっていますが、ラインナップ、出演順は実際の本番とほぼ同じです。(イギリスとかぶる、アメリカ時間では朝9時〜12時(イギリスは2時〜5時)の出演者に関しては記載なく、イギリスでもあまり把握してなかったと思われ)

◎ それでもなお、ここまで決まっていながら「出なかった」人たちを赤で囲んでみました。どういうことなんでしょうか?

■ ジュリアン・レノン

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当日もテレビで「ジュリアンが来てるみたい」と言われてましたが、会場にいたんでしょうか? ほんとはスティングと共演する予定だった? と見せて、ポールと共演させようとしたのを嫌がって、なのかな? でも、ビートルズ再結成に乗せられるのを嫌がっていたから、来なかったんだろうなあ。

◎ ここでひとつ言っておくと、ジョンの息子、ジュリアンが渋ったためにビートルズ再結成は実現しなかったんでしょうが、ライブエイド当日のステージの中で、ブライアン・フェリイ「ジェラス・ガイ」パティ・ラベル「イマジン」ジョン・レノンのソロ曲のカバーを歌い、エルヴィス・コステロ「愛こそすべて」マドンナトンプソン・ツインズ「レヴォリューション」と、ビートルズ・ナンバーの中でジョンが書いた曲を歌ったのです。計4曲。これだけで、ジョンの魂は伝わったと言えるんじゃないでしょうか!

■ ティアーズ・フォー・フィアーズ

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男性デュオ。当時は「ルール・ザ・ワールド」が世界的大ヒットで、ものすごい人気でした。今も歌われる定番ですね。しかし、直前になって出演をキャンセル。それも、バックバンドのメンバーが2人、急にやめちゃった、とい理由で。誰か代わりに入れるか、ティアーズとフィアーズの2人だけで歌ってもよかったんじゃないか? て思いますよね。後にドタキャンを批判された2人は埋め合わせに、自分らのツアー収益を寄付したり、翌1986年に開かれたチャリティ、スポーツエイドに曲を提供したりしました。

【追記】2022年2月27日

2022年、17年ぶりに新譜をリリースしたティアーズ・フォー・フィアーズなんですが、上記の話とは、また違う話を最近のインタビューで言ってました!

なんだよ! 単に「忙しくて疲れてたから休んだ」だって!
それで、ドタキャンする? あそこで、クイーンの前に歌ってたら歴史に残ったのにな! 【追記終わり】

にしても、急に空いちゃったスケジュールに、急遽代打出演を決めたジョージ・サラグッドも偉かったですね。ブルースギターのレジェンドであるボ・ディドリーアルバート・コリンズまでゲストに呼んで、イベントの体裁を整えてくれた。

■ ロッド・スチュアート

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ロッドもやはり、ビリー・ジョエルと同じような理由で、バックバンドが集まらなかったので辞退したらしい。しかし最初は予定になくて、ギリギリでオファーを受けて、やっぱり出なかったとは。。公式Tシャツなんかにも、名前がクレジットされたのもあったのに。。1979年のユニセフのチャリティコンサートには出てたのに(あのときはロック系はロッドだけだったが)。

しかしライブをやらない人でも、せめて会場に来て誰かとコラボするとか、ウィ・アー・ザ・ワールドだけ参加するとか、あいさつだけでも、テレビ中継でトークするだけでも、ファンは喜ぶのに、それだとやる気にならん、というのは、やっぱりスターのエゴって難しいんだね〜。。

それでは今回は「名前が出てたのに、出なかった人たち」を取り上げましたが、次回は名前は出てないけど「オファーされたけど断った人」「逆に出たい、つったのに断られた人」「声もかからず、ガッカリした人」などなどをまとめたいと思います! 

2021年4月16日 かとうけんそう

■ ぼくより詳しい方がいらっしゃったら、間違いの訂正、情報提供、あらたな補足ください! いつでもフィードバックして、また文章を修正・追記します!




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