近田春夫さんと川勝正幸さんとの思い出
2024年8月10日、二子玉川ジェミニシアターで、パール兄弟+ジューシィ・フルーツのライブに、近田春夫さん(と、ハルヲフォンの元メンバー恒田義見さん)がゲスト出演して、また何年かぶりに自身のボーカル曲を歌われる、という貴重な機会のトピックに合わせて!(長文注意)
・サエキさんが近田さんと過去を振り返る貴重な対談をされております!
サエキけんぞうのハローチューブ 近田春夫さんの巻 ビールなどについて!
https://www.youtube.com/watch?v=cKB12-d4wN0
緊急対談! 近田春夫 × サエキけんぞう
https://www.youtube.com/watch?v=qzU9oGY2EJ8
緊急対談! 近田春夫 × サエキけんぞう 〜 後半
https://www.youtube.com/watch?v=Sh4tRh6oru4
・それを補足する形で、ぼくとサエキさんも対談動画を撮りました!
かとうけんそうと近田春夫を話すサエキけんぞうのハロキャス!
https://twitcasting.tv/kenzosaeki/movie/799027604
サエキけんぞうのハローチューブ かとうけんそうと近田春夫の謎を解くその1
https://www.youtube.com/watch?v=9W9bs6LWsPI
サエキけんぞうのハローチューブ ゲストかとうけんそう 近田春夫の全てを話その2
https://youtube.com/watch?v=CwXXdgunwQU
そいで、以下の文章、上記の動画とも、ちょっと内容がカブる部分がありますが
2018年に、やはりパール兄弟のライブに近田春夫さんがゲストボーカルで参加された際、ぼくもコーラスで参加させてもらったのを記念して、Facebookだけに投稿していた文章を、
また整理してまとめ直しました。
近田さんの最高の支持者であった故・川勝正幸さんとの思い出と、自分自身のバンド活動の思い出も混じえて。
ビートたけしって、どうなの?
ぼくが川勝正幸さんに初めて会ったとき1980年は18歳で、川勝さんは6個上の24歳(2浪なのでまだ学生)でした。
明けて1981年、世はまだ漫才ブームだった。映画や音楽や様々なポップカルチャーについて語り合う中で、「漫才ブームの中で生き残るのは誰なんだろうね〜」という話題も常にのぼり、ぼくは「やっぱりツービートだと思いますよ。たけしの才能ってお笑いの枠を超えてると思うし」と言うと、当然、川勝さんのセンスなら同意してくれるんじゃないかな? と思ったけど、川勝さんは「いや〜、ザ・ぼんちじゃないかな。結局オーソドックスな漫才を貫くほうが残ると思うよ。ぼくはたけしはまだどうかと思う」と言うので意外だったのだ。まあ、たけしはまだ本も出してない、映画と関わるなんて考えもしない時期でしたが。
しかし、そのときはシングル「恋のぼんちシート」がリリースになったばかりで、プロデュースは近田春夫さんだった。近田さんファンの川勝さんの立場からは当然、あくまでザ・ぼんちを推さないといけないのだ。おれは川勝さんと近田春夫ファン同士ということで意気投合して、だから6つも下のおれを対等に扱ってくれてたのに。
でも川勝さんは評価しないと言いながらも、ちゃんと「ビートたけしソロ・いたいけライブ野音」とかもチェックしていた。でも当時のたけしソロとかは「バンドをバックに真面目なロックや、泣かせる歌を2枚目気取りで歌うばっかであんまり笑わせてくれないし」でイマイチだった、と川勝さんは言ってた。「恋のぼんちシート」はロングセラーとなってオリコン1位となり、ザ・ぼんちは単独で武道館をやったりとか勢いはあったし。
そうこうしてると「ビートたけしのオールナイトニッポン」が人気番組となり、ぼくもたまに聴いてましたが、そのうち番組内では「恋のぼんちシート」は盗作じゃないか! という話題でもちきりになってた。
ぼくたち近田ファンは、その3年前くらいから「近田春夫のオールナイトニッポン」で、毎週のように近田さんから「筒美京平先生のこの曲はこの部分を、洋楽のココからパクっていて、都倉俊一先生は、、」といちいち解説されて、日本の歌謡曲が洋楽の引用で出来上がっていく様子を詳細に勉強させてもらっていた。洋楽同士のパクりあいもあり、時には海外のロックが日本の歌謡曲の影響を受けているとしか思えない例などもあり、ポップミュージックとは構造的に引用の繰り返しになる、みたいなことを学習していた。
だから近田さん自身の曲もどこかしら、洋楽をネタ元にしてることはファンなら百も承知で、どっからパクってると言われても別に驚くこともなかったけど、たけしが騒ぎに火をつけた、ということで世間的には「盗作はよくない!」みたいな流れになってしまってた。
これは、たけしファンからすると「単にザ・ぼんちの人気に嫉妬した、たけしがイタズラごころで悪意もなく盛り上げた」という感じで、特に近田さんに対しては興味もないし、よく知らない、てことなんだろうけど、ぼくらからすると「盗作、盗作!」と騒ぐことで、あの毒舌のたけしが「モラル」や「常識」の側に依ってしまっている。。という暗い印象が強く、川勝さんに会った時も「なんか、たけしって粋じゃない、ていうか普通の人ですね」「そうだよな」みたいな話題になった。(ちなみに「ぼんちシート」の編曲は鈴木慶一さんだったけど、慶一さんはご存知のように、後に北野映画の音楽を多く担当しますが。)
結局、この騒動は近田さんが、吉田拓郎(当時は「恋のぼんちシート」を出したフォーライフレコードの代表だった)の「パック・イン・ミュージック」に出て「はい、パクリました」と認めて、ネタ元だった海外のバンドと共演もしたことで、決着したことになった。その後、公式にはもともと許諾を得ていたみたいな表記になったようですが、詳細はわかりません。
しかし、その後、近田さんがタレント的な活動をあまりやらなくなったのは、このときの経験で世間やメディアの単純さにちょっと飽きた、みたいなところもあったんだろうな〜、と思う。
数年後に近田さんが書いた文章の中に「ぼくが天才だと思ってる人は、矢沢永吉とビートたけし。いやあ天才にはかないませんね」みたいなのがあって、これは野村克也が落合博満に対して「あいつは天才やから、天才の考えとることはサッパリわかりませんよ」と言ってハナから何も語ろうとしないボヤキみたいなやつと同じだな! と思いました。
このパクリ騒動の顛末については作家の小林信彦がエッセイに詳しく書いていて、小林氏は近田ファンでもあり、たけしファンでもあった。そして川勝さんも小林氏の大ファンで、小林氏にハルヲフォンのテープを送って、それを川勝さんの名前入りで原稿に書いてもらったことをすごく喜んでいたこともあった。
そしてビートたけしは芸能界の帝王となって、後年、川勝さんもやはり「戦メリ』以後はたけしへの評価も変わり、いくつかの北野映画はよかったと言ってましたが、ザ・ぼんちについて語ったことはないような気がする。ぼんちも、今でも花月の舞台には元気に立ち続けているようで、たまにテレビでも見ますから、漫才師としてはツービートより生き残ったとは言えますが。。
で、何が言いたいかというと、若い頃から先見の明があったと言われる川勝さんも、たけしに関してはハズしたじゃないですか! ていうのと、逆にぼくはそれ以来「たけし、どうなのかな〜」て印象のまま、同世代の中ではあまりたけしに影響を受けることはなかったかな。
その後は、たけしも近田さんの仕事を認めてリスペクトしたりして、一緒に写ってる写真なんかもあるようです。
そして、あの頃ぼくは、川勝さんの応援を受けてバンド、東京タワーズを結成し、近田さんとも共演させていただいて、もう30何年、いまだに近田さんの影響下にありますよ、川勝さん!て感じですかね。
ビブラトーンズのデビュー
1980年〜81年、川勝正幸さんと出会って最初の1年くらいの間、ぼくは演劇や落語やご飯屋や、いろんな場所に連れてってもらいましたが、なぜかライブハウスには行ってませんでした。
まだ「ライブハウスとか不良の溜まり場」というイメージもあり「1回きりのライブにお金使うなら、同じ金額でレコード買ったほうがいつまでも手元に残るし」て感覚も当時はあったかもしれない。
当時は学園祭ライブとかが、今と違って牧歌的で、無料とかカンパだけでシナロケやRCやヒカシューが見れたりとか、そういうのはひとりでよく行ってた覚えがあります。
しかし近田春夫さんが新バンドを結成し、レコ発ライブがあるというので「これは行くしかないでしょ!」と川勝さんに強く誘われて、やっと渋谷エッグマンに向かうことになったのだった。19歳になってようやくライブハウス初体験です。1981年10月。
エッグマンもまだ新築の香り残る、キレイな場所だった。4日間連続の最終日、ゲストはクールスRCだった。クールスファンも別に不良はそれほどいなかった。後で調べるとクールスもこの頃、ボーヤだった横山剣さんが正式メンバーになったばかりの時期だったそうだけど、そんなの気づきませんよね〜。後にクレイジー・ケン・バンドの熱烈なサポーターになる川勝さんでしたが。
そしていよいよ近田春夫とビブラトーンズの演奏。今まで近田さんの出るラジオ、テレビを残らず見てきたぼくがやっと初めてナマで見るのだった。「キーボード、矢野ヨネ!」とメンバー紹介があったときは驚いた。その前のBEEFのときからキーボードを茂木由多加さんがやったりして、近田さんは自分で弾かなくなってたけど「ミッドナイトピアニスト」というタイトルのアルバムを出したから、当然、ハルヲフォン時代のように近田さんがピアノを弾きながら歌うエルトン・ジョン的なイメージを持ってたのに、やっぱり近田さんがハンドマイクで歌ってたんだなあ〜。
しかしビブラトーンズの演奏は緻密でノリがよく素晴らしいもので、見終わった瞬間から興奮したぼくは、すぐに川勝さんに向かって「自分もバンドやりたいな〜」と言い始めた。
「しかし同年代の友達って、特にいないしな〜」と言うと
川勝さんは「S-KENのイベントで会った高校生の男の子がいるけど、きっとケンソーと気が合うと思うよ」と言って、
その次の屋根裏のビブラのライブで中嶋勇二を紹介してくれることになったのだ。
中嶋はすでに、洋楽好きなおれと違って日本のニューウエイブシーンに精通しており、ムーンライダーズのコピーバンドでドラム経験もあった、ということで、バンド作りにも乗り気になってくれた。
以後、川勝・ケンソー・中嶋は、屋根裏のビブラのライブは皆勤で通うようになる。
ビブラはたまにクロコダイルやエッグマンにも出てましたが、そっちも全部行った。近田さん抜きの人種熱のライブも見た。
そして、その他にもいろんなライブハウス、様々なバンドのライブにも毎週のように出かけるようになってしまった。
明けて1982年、中嶋のお姉さんが友達と8ミリ映画に出演していて、その監督が、あんたたちと同い年くらいで、すごい音楽詳しいから、きっと合うと思うよ、と言われて岸野雄一と出会うことになり、一緒にゲルニカのライブを見た。
岸野の押上の実家で8ミリの撮影があり、そこで手塚眞と出会った。岸野と手塚はその1年前くらいに8ミリのイベントで知り合っていて、すでに友達だった。
雑誌のバンドメンバー募集ページで、連絡を取ってみた5歳年上のOLの女性、アカネさんがベーシストとして参加することになる。(後に川勝さんの奥様になられ、後に離婚されましたが。。)
中嶋のお姉さんの友達だったエンジニア志望のOくんという人がギターで参加することになり、スタジオ練習が始まり、手塚眞がPVを撮ってくれた。まだライブもやってないうちから!
バンド名を何十個も考えた中に、東京タワーズて名前があって、しかし高木完ちゃんの東京ブラボーに似た感じがバレバレかな〜と思ったけど「ま、エンケンの「東京ワッショイ」や近田さんの「電撃的東京」もあったし、今は東京をキーワードにするのが、わかりやすくていいんじゃない」と川勝さんに言われて、決めることにした。
しかしメンバーになってくれると思った岸野は最初「ぼくはまあ、アドバイザー的な立場で離れた位置で見させてもらうよ」と言って加わらないのだ。
スタジオに行くとマルコム・マクラレン気取りな川勝さんと、ブライアン・イーノ気取りの岸野がふたり並んで腕組みで見つめてるキビシイ中で練習しないといけないのだった。
ビブラのライブに通ってたら、いつの間にか「右側のギターの人」(窪田晴男さん)がいなくなっていた。あの人のほうが左の人(陽ちゃん)よりうまかったのに、やめちゃったのかな? さびしいなあ、とぼくが言うと
中嶋は「まあ〜、あの人、いつもつまならなそうな顔して弾いてたから、やっぱ合わなかったんじゃない? やめて正解だったと思うよ」とアッサリ言うのだった。
様々な出会いの中、近田さんと共演する!
東京タワーズを結成して5ヶ月めくらいの夏、お客として通っていた渋谷のカフェバー、ナイロン100%でデビューワンマンライブができた。けっこうお客も入って思ったよりウケた。
ぼくはビブラのライブで見た、パーカッション兼サブボーカルのエンちゃんの姿もお手本にして、特に革のベルトをつけた小さなクラッシュシンバルを両手に持って、キメどころでガシャ〜ンと叩くのがカッコよく、同じようなのをイシバシで買ってきて、マネにして叩いていた。生まれて初めて買った楽器。
そしたらナイロンでよく会う加納という太った男から声をかけられ「今度おれの企画したイベントに出てよ。たくさんバンド呼ぶし、近田さんにも出てもらう予定」とか言うのだ。いきなり? 年もぼくらと同じくらいなのに、ふてぶてしい、実行力だけはありそうな男だった。
「東京フリークス」というタイトルのイベントで、チラシを見ると確かに近田春夫とビブラトーンズや、東京ブラボーや、久保田慎吾の新しいバンドやS−KENの名前まで入っている。
このチラシを渡され、クロコダイルのハルメンズのライブを見に行ったときにお客さんに配ってると、出口のとこでチラシを配ってたやつに声をかけられ「そのライブ、うちらも出る予定だよ」と言ったのが有頂天のケラだった。有頂天はその前に音楽雑誌に載ってたのを見て、なんとなく出会いそうな予感もあった。
その後、タワーズはOくんの代わりに、やはりビブラのライブで知り合った清水と、アカネさんを通じて知り合った伏黒を加え、何度かのライブを経て、82年11月「東京フリークス」の最初の出番で舞台に立つ。ここでやっと岸野も初めて一緒にメンバーとして出てくれた。この日もかなりウケたし、出演者みんな素晴らしく、トリはもちろんビブラトーンズが締めて大盛況であった。客席にいた手塚眞も完ちゃんやシンゴを見て、すでに星くずにつながる何かが生まれていた日だった。打ち上げで近田さんに「ぼくらずーっとビブラを見に行ってたんですよ」と言うと「知ってるよ!」と言われ、すごくうれしかったのだった。最初に客席で見てわずか1年で共演を果たしたのだから川勝さんも感無量であったろう。
近田さんがプロデュースしたアルバム「鬼ヶ島」を出していた平山みきさんのライブを見に行くとバックはあのビブラをやめた右のギターの人のバンドだった! そして「やあ、前にビブラのライブでよく会ったよね」と声をかけられた。中嶋は「やっぱり、あの人いい人だった!」と言った。その数週間後には、もう窪田晴男さんのアパートに泊まりに行くまでの仲になるのである。
Macoto Tezka より
補足:岸野くんはぼくの8mm映画『MOMENT』にスタッフで応募してきて、犬童一心さんなんかとエキストラ出演もしてくれた。
押上で撮影したのは『Shelly』という実験映画。もうずっと上映してないな。
タワーズのPVは雑誌「ビックリハウス」の依頼で撮影したもので、おそらくぼくの初PV。
絶好なチャンスを逃したものの・・
1982年11月、イベント「東京フリークス」で東京タワーズは近田春夫とビブラトーンズと初共演を果たしました。
ビブラトーンズはセカンドアルバム「バイブラロック」をリリースし、窪田晴男さん在籍時のファーストの曲はライブでは減っていき、最初はスーツで演奏とかしてたのが、どんどんラフな衣装になり、近田さんの髪型はモヒカンになり、サウンドも緻密さより、パワーを強調して先鋭化してった。
その年の暮れ、第2回「東京フリークス」があり「ハルメンズの伝説」にも出演させてもらい、
明けて1983年、第3回「東京フリークス」があって、ずっと大好きだったバンドと共演し続けて幸せだった。他にもいろんなライブに出ていた。
ちょっとライブやりすぎたので、休もうか、というタイミングで、なんとエッグマンでビブラのワンマンの前座をやらないか、という話しをいただいたのだった。今で言うツーマンみたいなの。
これは千載一遇な光栄、とも思ったけど、たくさんバンドの出るイベントならともかく、恐れ多いというか、ちょっと荷が重い、、と丁重にお断りさせてもらったのだ。なんて、もったいない!
あと、この時期は晴男さんがビブラやめたばかりで、まだ近田さんと気まずい感じな現場を見かけてしまったり、ヒカシューが近田さんの事務所を抜けて、まだ気まずい感じなのを見かけたこともあり、ぼくらが近田さんになついてて問題ないのかな? とか本気で考えたりするくらい純情だったこともあった。まだハタチだし。
そんなこともあったけど、ビブラのワンマンは相変わらず見ていた。屋根裏よりエッグマンがメインになっていた。キーボードにはホッピーさんに交代していた。
そして東京フリークスも4回目以降、方向性が変わってビブラとしては出演しなくなり、エンちゃんカメちゃんは新たに結成したおピンク兄弟として、近田さんはタマちゃんと結成したラウンジユニット、ゲートボールとして出るようになった。タワーズとしても出演は見合わせていたけど、司会とか裏方の手伝いなどで参加する感じになった。第8回くらいまで続いたのかな?
ぼく自身のプライベートでは印刷屋でのバイトをやめ、ニューウェイブディスコの殿堂ツバキハウスでバイトをするようになった。ちょっとでも音楽的な仕事をやってみようと思ってた。
フリークスを見に来てたツバキの店長だった増田さん(先日亡くなられたそうですが。。)が
「おピンク兄弟いいね!」と言って翌月からPINKと名前を変えてツバキでレギュラーでライブをやるようになった。陽ちゃんもスコボンという自分のリーダーユニットでナイロンなどで活動するようになった。
なんとなくBEEFからジューシーフルーツが生まれたように、PINKもビブラから独立するんだろうな、という予感はあったけど、それでも、その勢いがフィードバックするようにビブラのワンマンもまだ盛り上がり続けていた。レコードにはならなそうだけど新曲がたくさんできていた。
ツバキにはたまに顔を出してくれてた川勝さんも社会人として忙しくなり始めていたので、ビブラのライブにも来なくなってたけど、ぼくは相変わらずひとりでも見に行ってたよ。
窪田晴男さんは、ハルメンズを解散したサエキさんとパール兄弟を準備していた。こっちも負けずに兄弟だ、などと言ってた。
83年8月、ぼくはツバキのバイトにもちょっと疲れて、しばらく実家の広島に帰ってたんだけど、パール兄弟結成最初のナイロン100%ライブ(ベース中ちゃんドラム浜田さん「昼下がりのペロリ」はパールが前座で、タワーズは賢崇が田舎に帰ってて岸野メインで行われた。
ぼくが東京に戻ってくると、いろいろあって川勝さんとタワーズの関係もややギクシャクしたものがあったんだけど
ビブラのライブを見に行っても、やはりエンちゃんがPINKに専念したくなってたような、心ここにあらずなものを感じたのだった。
そして暮れくらいには、やっぱビブラ解散かな〜? という噂になり
明けて1984年すぐのライブが最後ということになったのだった。
まあ発展的解散みたいな感じだから、メンバーの顔はそれぞれサバサバしたものでしたが、最後に参加したホッピーがMCで「ぼくが参加したバンドは一昨年が長沢ヒロの「ヒーロー」昨年が「爆風銃」今年がビブラ、と3年連続で解散することになりました!」と自嘲気味に笑わせてたのが印象的だった。近田さんもまた卒業生を送り出す的な感じでメンバーに気を使っていたようだった。
ライブ後、エッグマンの客席でそのまま打ち上げになり、ぼくもビブラ最後なんだなあと思うとさびしくて、ずっと混ぜてもらって、みんなと飲んでいた。ビブラの思い出より、みなさん先の活動の話をされてるようだった。やがてメンバーもひとりずつ帰り出し、それでも最後のひとりになるまでがんばろうと残ってたら、カメちゃんに「ケンソー、もう朝までいないよ、みんな帰るよ!」と諭されて、外に出たのだった。
その数年後、80年代後半〜90年代に、近田さんはソロ活動のプレジデントBPMを経て、ビブラストーンという新しいバンドを始められ、これもまた素晴らしい、名前は似ててもビブラトーンズとはまったくコンセプトの違う、力強さと攻撃性を持って、社会の矛盾を斬りつけるようなカッコよいバンドで、その頃はもう大物ライターとなっていた川勝さんも仕事としてバックアップされてましたね!
しかし、あれから、さらに時代も2周りくらいして、年を取ったぼくにも、都会の哀愁や若者の弱さにも寄り添うようなビブラトーンズの歌の世界が、令和の世こそ、グっと来るものがあるんじゃないのかなって気がしてます!
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