演劇女子部「眠れる森のビヨ」考察録

2021年4月16日(金) ~ 4月25日(日)こくみん共済 coop ホール(全労済ホール)/スペース・ゼロで上演中のBEYOOOOONDS主演舞台、演劇女子部「眠れる森のビヨ」を観劇しました。

先ほど公式Twitterにて、楽日である4月25日(日)が無事開催されることが発表されました。

直前での緊急事態宣言発出もあり、千穐楽まで完走できるか心配されましたが、無事開催が決まったということで、一安心ですね!
ということで、これまでの「眠れる森のビヨ」(以下、森ビヨ)観劇で気付いたことやネタバレありの考察をまとめておこうと思い、noteに初投稿してみました。
基本的に、今までふせったーで伏字にて呟いていたネタバレ考察のまとめになります(一部加筆修正有。ふせったーの考察をまとめて見るならこちら)。

森ビヨは4月24日現在で3公演入っていますが、初見では気付き辛い伏線や考察どころが多い脚本になっているかと思います。
本記事を読んで、2回目以降の観劇時の注目ポイントや気付きの一助となれば幸いです。

また、あくまで一個人の解釈ですので、的外れな部分や解釈違いもあるかと思います。
「へーそういう考えの人もいるんだ」程度で読んでいただければありがたいです。
「私はここ、こう思います!」とか「ここ、違うセリフでしたよ!」等々、ご意見・ご指摘は大歓迎です!皆さんの考察や感想、楽しく読ませていただきます!

では、書いていきます。


■ヒマリの正体

物語の主な舞台となるのはヒカルの夢の世界。
夢の世界での登場人物や出来事は基本的に、ヒカルの現実世界での記憶によって再現された虚像であると考える

おそらく大部分は現実に沿って違和感なく再現されているのだろうが、そこに明らかに現実とは異なる人物がいる。
それが『ヒマリ』。

夢の世界のヒマリは、ヒカルの幼馴染であると紹介され、実際、この説明自体は間違いではない。
ただ、物語終盤で明かされる通り、ヒカルとヒマリは5つも年の離れた兄弟のような関係であり、『ヒカルの同級生の女の子』ではない。これは森ビヨにいくつかあるミスリードの1つであり、観客とヒカルに違和感を与える重要なファクターでもある。

現実世界のヒマリは、物語のラストシーン近くで登場するように、夢の世界のヒカル(=事故当時のヒカル)と同い年の高校2年生17歳の女の子。
この時のヒマリの服装は、夢子らと同じ制服だが、リボンとスカートの色が異なっている。
夢の世界では、1年生の2人は緑のリボンとスカート、2年生は青、3年生は赤のタイをしている。
この制服の色については、実際の学校でも用いられているような学年ごとの色のローテーションが行われてきたとすると、違和感なく受け入れられるだろう。

 cf.) 学年と制服の色の関係を(1年生,2年生,3年生)=(色,色,色)で表すと、
   (緑,青,赤) 事故当時、0年後
   (赤,緑,青) 1年後
   (青,赤,緑) 2年後
   (緑,青,赤) 3年後
   (赤,緑,青) 4年後
   (青,,緑) 5年後、ヒカルが目覚める

こちらに従えば、5年後に2年生となったヒマリは赤の制服となるわけだが、では、なぜ夢の世界のヒマリは青の制服で現れたのだろうか。

私はね、ヒカル。『願い』なの

現実世界でヒカルが目を覚ますのを願い続け、想い続けたヒマリは傍らで眠り続けるヒカルに日々語りかけていたことだろう。

わがままだった私によく付き合ってくれたよね。ごめんね。ありがとう。ありがとう…。


劇中でも、心電図の音と共に語られたヒマリの独白。これは現実世界で眠り続けるヒカルに向けての言葉ではないだろうか。
わがままを言って呼び留めてしまった若い日の自分。それによって引き起こされた悲劇によって眠りについたヒカルを想い、自分を責めながら。

5年間もの間語られてきたヒマリの言葉、これがヒカルの中で結実し、生まれた存在、それが夢の世界で青い制服を着たヒマリだと推測する。

"ようやくわかった本当の姿
ずっと見ないフリ してたから
でももう向き合うって決めたんだ
ご覧よ黒い光が差し込んだ"

そもそも、夢の世界の登場人物はほぼ全員、ヒカルの生み出した動く人形のようなものだと思っていて、飽くまでヒカルの記憶に基づいた行動をとる。
まさしく、ヒカルの夢の世界の住人を演じる演劇部。
(バス事故の記憶に向き合ったシーンでヒカルとツムギ以外の全員がマリオネットような振り付けをするシーンは不気味で不穏で印象的なシーンのひとつ)
それは、演劇部のみんなと幸せな時間を過ごし続けていたい、青春したいというヒカルの深層心理の願いを叶えるため。ヒカルの心の平穏のために行動する。

そうして、物語の始まりからブロック大会当日までの時間を繰り返してきたのだろう。ヒカルにとって一番大事で、幸せだった時間のループ。

一方で、こうした解釈に当てはまらない人物もいる。ヒカルの記憶にはいない偽りの人物。夢の世界の住人ではない人物。
それは、『ツムギ』と『ヒマリ』。
ツムギが、夢の世界を存続させ続け、眠りについたまま覚めさせまいとする『ヒカルの無意識化の集合体』またはそこから派生した存在であるとするならば、ヒマリは、夢から覚めなければならない、目覚めてほしいという『願い』であったのだろう。

厳密にはヒマリではないので、現実世界のヒマリは夢の世界のヒマリを認知していない。
同様に、現在の姿である赤制服でも現れない。
違和感なくヒカルの学校生活に溶け込むために同級生という立場をとるべく、ヒカルと同じ学年の青制服で現れたのではないか。

なお、夢の世界のヒマリの存在は夢から覚められたループで初登場だとするのが自然だが、ループを繰り返す中で何度も登場し、夢の中のヒカルにヒマリの存在を刷り込んでいった可能性も捨てきれない。
その場合、ツムギからの接触は初めて、となるわけだが、これまでのループでは然程ヒカルに影響がなかったのが、最後のループで遂に顕在化したため直接止めに入った、というのも考え得る。
心の平穏を保つ役割のツムギにとっては、直接的な攻撃的行動はヒカルに見られたら一発でアウトのハイリスクな行動であり、最終手段であったと推測される。基本的には傍観と誘導でヒマリの影響を躱していたであろうツムギにとって、そこまでさせるほどの変化がヒカルにあったということの証左でもある。



■ツムギの正体

ツムギの存在は劇中でもかなり謎に包まれている。
この物語自体、夢の世界の出来事だと言及されるのは中盤以降で、最後まで現実世界の詳細は語られない部分がある。

演劇部のメンバーにしても、ヒマリから演劇部メンバーが全員亡くなったという事実は語られるが、何人が亡くなったのかは語られない。

勿論、夢の世界の演劇部メンバーがそのまま全員亡くなったのだからわざわざ言及する必要がないともいえる。
だが、そこにあえて語らない意味があるとするなら。こう考えることはできないだろうか。

夢の中の住人は皆、おそらくはヒカルの記憶に沿って動いている。
演劇部が登場するシーンでヒカルの存在しない場面がないのが根拠となる。
(例えば、ノゾミが空気を悪くして浜田先輩が外に連れ出すシーンで2人の会話は描かれない。何故なら、ヒカルがその場面を観測していないから)
(同様に、おそらくは別行動で衣装を作っていたと思われる新入生ペアは、ヒカルの見ていないところで衣装を作っていたため、詳細は描かれない)

これは逆説的に、『ヒカルの登場しないシーンで動いているキャラクターはヒカルの記憶にいない人物である』、という仮説に繋がる。
その人物こそ、『ツムギ』である。

ツムギは、終盤のブロック大会当日の朝のシーンにて、説得に応じず去っていったヒカルが舞台から捌けた後も舞台に残り、ヒマリと対話している。
そこではアラビヨのシャハリヤール王よろしくヒマリを石化……もとい動けなくさせていた。

ここでは、明らかにツムギがヒカルの意識化にない行動をとっているのである。この様子から、ツムギを『ヒカルが夢の世界で違和感なく幸せに暮らす為の友人』として夢の世界で産み出されたキャラクターだと仮定すると、ツジツマが合う。

おそらく現実世界では起きていない舞台道具の破壊工作等のイベントでヒカルと演劇部の絆を強め、依存ともいえる夢の中の幸せへの執着を構築する。そして、遠くへ引っ越すという都合の良いイベントからは『今が永遠に続くと良い』と思わせる。そんな存在として生まれたキャラクターではないか。

奇しくも、ツムギが眠れる森の美女で演じていた役柄は、姫を永遠の眠りに誘う暗黒の妖精の使い魔であり、ヒマリにしたのと同様に王子の息の根を止めたカラスである。

夢関連の命名則の2年生メンバーのうち、少し外れた命名則のツムギは、その名の通り『物語を紡ぐ』役割と『ヒカルを眠りへいざなう紡ぎ針』としての役割を担っているのかもしれない。
劇中劇で演じたカラスがツムギの正体を暗示しているとするなら、正体は『八咫烏』だろうか。
カラスは、八咫烏としては『導きの神』、『霊魂を運ぶ霊鳥』とされるが、暗黒の妖精カラボスの使い魔など、魔女に纏わる話では『不吉』の象徴としても扱われる。
このことから、ツムギは『永遠の眠りへとヒカルの魂を誘う死の具現』ではないかと予想する。

ヒカルを死に導く存在であるから、対となるヒマリとは敵対している。そう考えると、案外しっくりこないだろうか。



■劇中劇と夢の世界のリンク

モチーフと思われる原作は3つ。
・グリム童話「茨姫」
・ディズニーアニメ版「眠れる森の美女」
・バレエ版「眠れる森の美女」

ちなみに、原題「茨姫」の詳細はこちら。
https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/ibara_hime

今回の「眠れる森のビヨ」の下敷きになっていると思われるディズニーアニメ版の「眠れる森の美女」はwikiでも参照してください。ちなみに、いっちゃん演じる暗黒の妖精カラボスの名前はバレエ版「眠れる森の美女」からきているようです。

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劇中劇の大筋としては、ディズニー版に準拠していると思われる。
子宝に恵まれなかったある王と王妃に待望の子供が誕生する。
王は娘に「夜明けの光」を意味する「オーロラ」と名付け、誕生を祝う式典を催すことに決める。
式典に招かれた民衆はオーロラ姫の誕生を祝福し、3人の妖精も祝福と贈り物を授けるべく王宮を訪れる。
残すところ3人目の妖精からの贈り物だけとなったその時、暴風と共に現れたのが悪名高き魔法使い「マレフィセント」=「カラボス」。
彼女は式典に招待されなかった腹いせに、オーロラ姫に呪いをかけます。
その内容は『16歳の誕生日の日没までに糸車の針で指を刺して死ぬ』というものでした。
これを受けて3人目の妖精は、呪いを打ち消すことは出来ないが、少しでも和らげるため『その時がきても死ぬのではなく永遠の眠りにつき、真実の愛のキスで目覚める』という祝福を授けるのでした。
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ここで重要なのは、魔女がかけた呪いの内容。
原作で死を定められた期限は『16歳』。一方、今回の劇中劇では『17歳』。
(ちなみに「茨姫」では『15歳』、バレエ版では『16歳』となっており、やはり森ビヨ版の『17歳』はオリジナルのようです)

ここで、ヒカルが『17歳』であることと、オーロラ姫にかけられた呪いの期限が『17歳』であることは、『ヒカルが17歳で眠りについた(=事故に遭った)』という暗示と見て間違いないでしょう。
あの劇中劇はヒカルの夢の中の話なので、当然、無意識下でのヒカルの記憶の影響を受けていると考えられます。

そしてもう1つ、アニメ版では永遠の眠りにつくというところが森ビヨだと100年の眠りとなっていますが、これは「茨姫」とバレエ版に共通する設定となっています。数字に大きな意味はなく、単純に長い年月の経過を表すと考えるのが自然かと思います。
(劇中のヒカルのセリフにもある通り、100年後の世界で目を覚ましたとして、自分だけ時の流れについていけていないウラシマ状態で生きることは、果たして幸せなのだろうか、という問いかけのための設定と言えるでしょう)

劇中劇としてかなりしっかり内容が描かれた「眠れる森の美女」。
当然、森ビヨのストーリーとリンクしているのが自然だろう。

夢の中で100年経ってるってことは現実でも100年経ってるってことでしょ?ウラシマ状態だよ。僕なら耐えられない。

ヒカルとツムギが結末について語るシーンでのこのセリフは、ヒカルの心情を端的に表したものだといえる。この時点では、ヒカルの深層心理として変化(=夢からの目覚め)を恐れているということを表しているということだろう。
(だからこそ、直後のシーンでツムギは吹き出してしまった。夢の世界への依存に安心して)

ところで、劇中劇「眠れる森の美女」とヒカルの夢世界では意図的に対照的、あるいは相似的に描かれているシーンがいくつかある。
①オーロラ姫のパーティーで皆が眠りにつくシーンと演劇部の事故シーン
②オーロラ姫とヒカルの決断

①オーロラ姫のパーティーで皆が眠りにつくシーンと演劇部の事故シーン
どちらも登場人物全員が倒れている印象的なシーンだが、一方は呪いが解けたことで生存し、一方はファンタジーなご都合主義などなく死亡する。
メタ的には、「眠れる森の美女」の同様のシーンから事故シーンを連想し、くみ上げていったものと思われるが、後述の決断の差にも影響していると思われるシーンでもある。

②オーロラ姫とヒカルの決断
オーロラ姫と王子(王子の転生体)、ヒカルとヒマリは対となる存在として描かれているのが自然。王や王妃、妖精たち含め親しい人たちが皆眠りについていただけで生存しており、さらなる幸せを選んだオーロラ姫と、親しい人・大事なひとをすべて亡くし、夢の中の幸せに縋るしかなかったヒカル。バスの残骸の傍らで動けなくなった友人たちを見て、これは夢だと思い込み、見ないフリをし、夢の世界へと逃げるために。
対照的な存在として描かれ、対照的な結末を選ぶ。

ちなみに、劇中劇があの脚本になったのは夢の世界のヒカルが無意識下で夢から覚めるのを拒んだ結果の産物だからであって、現実世界では違う脚本だったと思う。

私はあの脚本、キライだな。


ヒマリが脚本を否定するのはもっと単純に、夢から覚めないことを肯定する脚本を他ならぬヒカルが書いたことで、夢から覚める(=意識不明状態から回復する)可能性が遠退くのを憂いてのことだとするのが自然か。
ヒカルが夢子とキスする展開が嫌だったから、というのは小学生のヒマリならあり得そうだけど…。もしそうなら可愛いね。



■ツムギとヒマリの神話的側面からの考察

『オーロラ姫』という名前と『ヒカル』『ヒマリ』の命名則に意味を見出だすなら、ヒカルとヒマリ、お互いにとってそれぞれが『夜明けの光』を象徴する存在であると言えるかもしれない。

『オーロラ』の語源はローマ神話で曙の女神『アウロラ』、ギリシア神話の暁の女神『エオス』である。
暁や曙は明け方のことであり、夜が明けて差し込む光を象徴している。

"永久になればいいな
夜が明けなきゃいいな"

つまり『オーロラ』とは、『夢』の象徴たる『夜』の対になる希望の光と言える。
夢の中のヒカルにとって、事故で意識不明になった状態から目覚めるための光はヒマリだし、ヒマリにとって、自分のせいで事故を引き起こしてしまったという自責の念に捕らわれた状態での唯一の生き残りであるヒカルの目覚めはまさしく希望の光であったのではないだろうか。

ツムギの存在についても、ただ単純にヒカルの『夢から覚めたくない』『演劇部のみんなと幸せな夢を見ていたい』という望みを叶える為のシステムのような存在なのか。
それとも、カラボスの呪いのように、眠りの世界にヒカルを閉じ込め、最終的には死に至らせる死の化身、『夜明けの光』を表すオーロラ(=曙の女神アウロラ)の対比としての『夜の闇』を表すノックス(=夜の女神ニュクス)を暗示する存在なのかは解釈が分かれるところである。
ちなみに、ギリシア神話で夜の女神ニュクスの子には、死の神タナトス、眠りの神ヒュプノス、夢の神オネイロス、苦悩の神オイジュスがいるとされ、題材にぴったりではある

キービジュアルにある通り、この物語の真の『オーロラ姫』はヒマリであるとすると、ヒマリを選んだことでオーロラの名の由来である『夜明けの光』にたどり着く物語であるといえる。



■結末の解釈

"夜になれば星は輝き
静かな街と深夜のテレビ
眠れず僕はいつものように
瞼を閉じて君らを想う"
"やっと気付いた
僕は今生きてる
僕は今生きてる
ひとり 君らの分を"

病院で目を覚まし、ヒマリとの再会、そして演劇部での活躍を聴き、微笑むヒカル。演劇部の仲間たちがもういないという事実を受け入れ、失った5年間を取り戻す決意をヒマリに語ります。

また、明日。

そういって別れるヒカルとヒマリ。
その言葉は、永遠の別れとなったブロック大会前日に夢子と交わした言葉。

"あのさ 今日夢を見たんだ
そこではみんな笑ってた
軽やかに歌い出すんだ"
"どこまでも夢の中で続く
どこまでも夢の中で続く……"

ヒマリの真の愛によって目を覚ましたヒカル。
だけど、この世界には彼らは居ない。
だから、これは夢。そう自覚したヒカルが選ぶのはーーー。

この最後の夢の世界には今まで登場していないドレス姿のヒマリがいる。
今まで見ていた夢の世界ではないことが示唆されているのだ。
オーロラ姫と同じように夢の世界に戻るのなら、これまで過ごした夢の世界と同じ夢のはず。
だから、これは、夢だと自覚したうえで浸る、束の間の泡沫の世界。
だって、これからヒカルは生きなければならない。
失った自分自身の5年を取り戻すために。
手を差し伸べてくれたヒマリのために。
大切なみんなのために。
メリットだけじゃない、辛いことも多い、この世界で。

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