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「海ゆかば」と「奈良の大仏」

文部省編『高等科音楽』第1女子用,文部省,昭和19.

 「海ゆかば」を作曲したのは、慶應義塾の塾歌を作曲したことでも知られる、信時潔である。この歌は戦時中までは準国家のような位置付けであり、戦時中に大本営発表において玉砕を報じる際の冒頭曲として流れていた。そのため、軍歌としてご存知の方も多いのではないだろうか。しかし、鎮魂歌として歌われる場合もあった。1982年に薬師寺の高田好胤師らが中国で戦没者慰霊法要を行なった際にも、「海ゆかば」を歌っている。

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

 意味はそのままで、訳するほどのものでもないだろうが、一応解説すると、

海に行くのなら水浸しの屍、山を行くのなら草むした屍をさらしても、大君=天皇のそばで死のう。もはや我が身を顧みることはしない。

 誰が読んでも、天皇(大君)に忠誠を誓っているということはすぐにわかる。実はこの「海ゆかば」という歌は、東大寺と非常に縁の深い歌なのである。奈良時代の公卿で、聖武天皇の伊勢行幸にも従駕している、大伴家持おおとものやかもちという人が、陸奥国(東北)から金が産出されたという聖武天皇の詔を読み、それに際して詠んだ長歌で、「海ゆかば」の歌詞は、その一部を抜き出したもの。その前の部分を読めば、どういう経緯で詠まれた歌なのかがわかるだろう。

我が大王の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ
〜中略〜
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ

 意味は下記の通りである。

 わが大君が 人々を仏の道にお導きになり、(大仏建立という)良いことをお始めになって、黄金が果たしてあるのだろうかとお思いになってお心を悩ませておられたところ、(とりがなく)東の国の陸奥国の小田郡にある山に黄金があると奏上してきたので、お心も晴れ晴れとなり、、
そして、
海に行くのなら水浸しの屍、山を行くのなら草むした屍をさらしても、大君=天皇のそばで死のう。もはや我が身を顧みることはしない。と続く。

 では、時代背景も含めてもう少し詳しく説明する。

 時は聖武天皇の治世である。天平5年(733年)、飢饉で人々は飢えに苦しんだ。さらに翌年の天平6年(734年)には大地震が発生。そんななか、天平19年(747年)9月29日の大仏鋳造開始に前後して、地方の有力者や高官らから、多額の寄進が集まりはじめた。ただ、聖武天皇にとって頭の痛い問題があった。

 盧舎那仏とは、重々無尽に交錯する光に荘厳されて,燦爛と現成する世界、この中心にあって、眩いばかりに光り輝いているのである。つまり、燦然と光り輝いていなければならない。ところが当時、日本では鍍金に要する黄金は産出されないとされていた。それでも何としてでも、国内から金を見つけねばならない。聖武天皇は神仏の加護を願い、金鐘寺(東大寺の前身)の僧、良弁に命じて黄金産出を祈らせた。

 そんな矢先、天平20年(748年)4月21日、元正太上天皇が崩御された。さらに翌年の天平21年には、行基も大仏の完成を見ることなく遷化されたのだ。

 こういった心痛のさなか、聖武天皇の暗澹とした気分を一変させる知らせが、はるか遠くの陸奥国から届いた。陸奥守、百済王敬福が駅馬を馳せて、管内の小田郡で黄金を発見した、と知らせてきたのだ。産出量も期待できそうで、使者はその見本も携えていた。聖武天皇の心中は驚きと喜びに満ち溢れていたであろう。天皇に即位してから、天地に見放されたかのような苦難を強いられてきたなかでの、この報告に天皇の歓喜の程は想像に余りある。

 ただ、この知らせに歓喜したのは、何も聖武天皇だけではなかった。歓喜に満ちた聖武天皇は詔を出し、神仏および家臣らに対して感謝の意を表した。家臣らも、相当嬉しかったに違いない。ようやく報われたかのような心境であったろう。この詔を読んだ、家臣の大伴家持も大変感激し、万葉集の中でも3番目に長い長歌を詠んだのである。それが、この「海ゆかば」である。


下の蓮弁部分には、一部、金泥が残っている

 「海ゆかば」が、戦争や戦死を賛美した、ただの軍歌ではないことがお分かりいただけただろうか。このような苦難に満ちた時代に生きた人の計り知れない喜びが詰まった歌なのである。大仏さまの蓮弁には、今も当時の金泥が残っている。東大寺にいらして大仏さまを拝む際には、ぜひこの時の人々の心境を慮りながら拝んでいただきたい。

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