ライバルは弱い自分

古のmixi日記からのサルベージ企画。今回は2007年9月に書いた文章を発掘しました。当時はプロレス専門誌『Gスピリッツ』の創刊に関わり、初号が発売された直後。それまでのWEBライター業から脱皮し、ようやく編集者としての一歩目を踏み出した、そんな29歳になる直前に書いた文章です。

「自分で自分に感動したことがない」という話から始まるんですけど、13年半の年月が過ぎ、こういう文章を書いていた昔の自分にちょっと感動してしまいました。若いし、青いし、小っ恥ずかしいけど、その時にしか書けなかった文章、今の自分には書けない文章だったので。今と比べたら、相当忙しかったはずなのに、深夜にこの文章を書かずには入られなかったその時の自分がとてもまぶしく思えます。

基本的な考え方は今も変わらないんですが、当時と比べると、根っこが腐っている気がするので、これを機に改めて「ライバルは弱い自分」なんだと噛みしめてみようかなと。それでははじまりはじまり。

『弱い自分』(2007年09月11日03:42更新)

自慢にも何にもならないけれど、僕は自分自身に感動したことが一度もない。

一応説明しておくが、感動することがまったくないというわけじゃない。ドキュメンタリー番組や映画なんか見ているとしょっちゅう涙ぐんでいるし、それどころか歳を取るごとに涙腺が緩んできている。が、それでも自分自身の行動に心を揺り動かされて、感動した経験は一度たりともないのだ。

学生時代の球技大会で……

例えば学生時代にこんなことがあった。球技大会なんてものがこれを読んでいる皆さんの周りにもあったと思う。舞台は中学最後の球技大会。今思えば優勝したところで何が手に入るわけでもないのに、なぜか闘争心むき出しで他のクラスとぶつかっていた。

男子と言えばやっぱりサッカーがメイン。その時、僕のクラスは決勝戦まで勝ち上がっていた。僕はそれなりに頑張るけど、やはり根が文化系なので活躍するなんてことはない、よくあるその他大勢の位置だったと思う。

試合は決勝らしいシーソーゲームになった。延長でも決着は付かず、試合はPKへ。ここでも激しい接戦が展開された。痛恨のミスショットがあっても、ゴールキーパーが好セーブを見せて試合をイーブンに戻すと、いよいよ最後の5人目に。まずは相手チームが冷静にシュートを決めると、今度は僕のクラスの番。ここで登場したのは、サッカー部員でここまでチームを引っ張ってきたキャプテン。しかし、あまりにも焦ってしまったのか、キーパーの正面にシュートを打ってしまい、ここで我がクラスは敗北となってしまった。

最後の最後で外してしまったとはいえ、彼がいなければここまで勝ち上がってこれなかったわけだし、彼は実際に決勝で得点を挙げていた。PKだけを考えてもミスショットをした人間は何人かいたわけで、決して彼が悪いわけではない。みんなそれは分かっていたのだけれど、当の本人はそうは思ってなかったらしく、うずくまって涙をぽろぽろ流し、クラスメイトに謝り始めた。

当然、僕は「気にすんなよ。お前のおかげでここまで来れたんだから」と彼にいたわりの言葉をかけた気がする。しかし、実は僕の心の中はどん引きしていた。なぜならそこまで思い詰める気持ちがまったく理解できなかったからだ。「なんで泣けるの?ただの遊びなのに……」とにかくビックリしたのを今でも覚えている。

学生時代の文化祭で……

こんなこともあった。これも学生時代のこと。僕のクラスは担任の独断により、半ば強引に文化祭で劇をやることになった。みんな明らかにやる気がなかったのだが、そこはまだ反抗期を迎える前の学生たち。やり始めたら意外とのめり込んでいき、それなりの形になった。

僕は学級委員だったので、自分の役柄だけでなく、脚本作りや照明の指示、さらに練習日程の作成など1人で3役、4役の働きをした。自分なりにクラスをまとめられたという手応えもあった。

文化祭当日は予想以上の盛り上がりを見せ、大きな大きな拍手をいただいた。クラスの中も今までにないぐらいの結束が生まれ、誰かの提案でみんなで写真を撮ることになった。僕もそれなりの達成感を覚えながら集合したのだけれど、そこである女の子が感動のあまり泣いているのを見て、またまた引いてしまった。「そこまでのことじゃないだろう!?」と。しかし、それを見た周りの人間も感動して、目を真っ赤にし始めていた。

もちろん直接そんなことは言わなかったし、クラスメイトの前では自分も感化されたふりをしていたが、そこまでの気持ちはまったくと言っていいほどわき上がってこなかった。ハッキリ言って、どう考えても一番頑張っていたのは自分なのにも関わらず……。

まあ、こうやって一歩引いてしまうのは自分の習性みたいなもんだから仕方がない気もする。このあたりは母子家庭(父は1歳の時に他界)で3人兄弟の末っ子という育ちが影響しているようにも思う。あんまり感情的にならないし、冷静に物事を見すぎてしまうのは僕の悪いところだが、かと言って良いところだと思っている自分もいるのだ。

周りに認められたり、高く評価されたりするのは確かに嬉しいことだけれど、何事にも冷めてしまっている僕は、どうしても自分に対する嘲笑や苦笑いが先行してしまう。仮に他人に100点をもらっても、自分では本当は大して頑張ってないことが分かってしまうからだ。

世の中には2種類の人間しかいない

自分自身に感動できる人を羨ましくも思うが、逆を言えば、そうやって自分を冷静に見て、自分の心の底にある本心と向き合うことが大事なんじゃないかと最近は考えるようになった。

僕は具体的なビジョンが自分の中で描ける歳になるまでは、将来の夢なんてものを持ったことはなかった。だが、ひとつだけ、なんとなく漠然とだけれど、僕は自分で何かを作り出す人間にはなれないんだろうなとは思っていた。

世の中には自らなにかを成し遂げる人間と、それを見守る人間の2種類しかいない。僕の中で浮かび上がるイメージは、マラソンランナーと沿道で応援する人たちだ。

勘違いしてほしくないのは、ランナーが良くて、応援している人たちが悪いなんていう単純なことではないことだ。ランナーにはランナーなりの苦悩もあるし、それこそ1位になれば栄光を掴むことが出来るけれど、結果が出せなければ切り捨てられてしまう立場にある。反対に沿道にいなければ見えない景色、感じることのできない感情もある。

そんな中で、自分は見守る立場だと感じたことは間違っていなかったし、それが今の仕事にもつながってきていると思う。

「自分の納得」と「他人が納得」の違い

話が少しそれた。とにかく何が言いたかったかというと、「自分の中で納得すること」と「他人が納得すること」は、同じ“納得”でもまったく別のものだということだ。

よく「お天道様は全てを見ている」とか「神様はちゃんと全部分かっている」なんて言葉を使うけれど、僕が思うに「自分は全てを見ている」し、「自分は全部分かっている」と言い換えてもいいんではないだろうか。

例えば、なにかとんでもない失敗をしたとする。どんなにうまく隠せても、どんなにうまく取り繕えても、その事実が誰にもばれなかったとしても、当の本人である自分自身は失敗した事実を知っているわけだ。「誰も知らないから問題ない」とも言えるけど、「自分が知っている時点でなにも解決になっていない」とも言える。

逆に周りがどんなに評価してくれても、それが努力の結果なのか、ただの偶然なのか、本人が一番分かっている。ただ、人間というのはえてしてそこで勘違いをしてしまい(正確に言うと、勘違いをしたくなってしまい)、“本当”から目を背けてしまう。

誰だってなにも問題にならないんだったら楽をしたい。努力を重ねてもうまくいかないことが多い。それなら、誰にも文句を言われず、迷惑もかけず、さらにうまくいくんだったら、気楽な道を選びたい。僕にだってそういう気持ちがあるし、実際にそういう行動を取ったことも何度もある。でも、それこそが“弱さ”なんじゃないか。いつも最終的にはそう考える。

“世界一性格の悪い男"への共感

プロレス界に“世界一性格の悪い男”と呼ばれている鈴木みのるというレスラーがいる。歯に衣を着せぬ爆弾発言を連発し、毒舌で対戦相手を一刀両断。常にふてぶてしい態度で相手をにらみつけ、態度そのままに叩きつぶす。絶対に負けを認めないし、自分が最高で、最強で、唯一無二の存在だと言い切る。自信に満ちあふれた男だ。

何度も取材した経験があるが、ICレコーダーにコメントの収録を任せ、ノートにメモを取らずになんとなく顔を眺めながら話を聞いていると、いきなり眼光鋭い目と目があってしまい、「なんだよ、文句あるか」とすごまれたことがある。気が小さい僕は、その後、彼のコメントを取る際にはかならずノートにメモを取っているふりをするようにしている。

そんな男に2年前にインタビューをしたことがある。喫茶店の中で2人きり。ビビってたじろいでいる僕は、それでも必死に質問をぶつけていったが、どんな言葉をぶつけても必ず最初に「あん!?」「なに!?」とにらみつけてくる。逃げ出したくなる気持ちを抑えて、やっと空気に慣れてきたところで、僕はこのインタビューで一番聞きたかったことをぶつけてみた。

「いつも選手名鑑のライバルの欄に“弱い部分の自分”と書いていますけど、なんでですか?」

彼は一瞬驚いたような表情を見せると、すぐに鋭い目つきに戻ったが、それまでとはまったく違う穏やかなテンションで話し始めた。選手が素になった、心の中に踏み込むことができた、そう感じるこんな瞬間がインタビューをしていく中で一番ゾクゾクする。
 
いつもなにかに怒り、誰かにそれをぶつけている鈴木みのる。しかし、本人の中では「ああ、俺はまた屁理屈を言っている」「また言い訳を言っている」と感じているという。そんな弱い自分が大嫌いで、でもすぐに同じことを繰り返そうとする自分がそこにいて、そんな弱い自分がライバルなんだ、そう語った彼に対して、僕は初めてシンパシーを感じることができた。ああ、表面的に怖かったり、他人を威嚇していても、根っこの部分では僕と同じなんだと。

(僕は忙しかったため、この時のインタビューの構成・編集を他人に任せてしまい、結果的に読者にこのインタビューの本当の意味をちゃんと伝えることができなかったことを今でも後悔している)

大事なのは自分の弱さを戦い続けること

あれから2年、その間に僕もいろんな人間と出会い、いろんなことを感じてきた。ふと立ち止まるたび、「ライバルは弱い自分」という言葉を思い出す。

世の中を見渡せば、「自分が悪いと分かっていても、周りにばれなきゃそれでいい」なんて考えているヤツが沢山いる。いや、それどころか「自分でも悪いと思っているし、周りにもそう思われているけど、なんか文句ありますか?他人は知らないでしょ?」と開き直っているどうしようもないヤツがしたり顔でにやついていたりする。

正直、ヘドが出そうになるが、まあ、そんなことを言っていてもしょうがない。そんなふうに考えているヤツは結局自分で自分の首を絞めているだけで、自ら行き止まりしかない迷路に迷い込んでいるようなもんだ。ご愁傷さま、と心の中で手を合わせておけばいい。

ただ、僕にとって一番やっかいなのは、そんな風に横目でながめながら、「俺は違うけどね」と開き直ろうとしている自分の弱さだ。

ここ数年を振り返り「結局なにもできなかったじゃないか」と“自分で自分にむかついている”自分がいる。しかし、じゃあ他人に「お前はなにもできてねえな」と言われたら、一瞬にしてキレるだろう自分もいる。

他人に文句を言わせないぐらいは頑張ってきたけれど、どこかのマラソンランナーみたいに「自分で自分を誉めてあげたい」なんて気持ちはまったくない。どんだけあまのじゃくなんだと失笑されてしまいそうだけど、これが僕のリアルな気持ちだ。

十代の頃は弱い自分、駄目な自分を受け入れたことで成長できたんじゃないかと思うけれど、今はいつまでも決着の付かないライバルとして、自分の弱さと対峙していきたい。そうすれば、一生に一回ぐらい自分に感動できるんじゃないか。いや、たとえできなくても、最後の最後で自分自身に納得ができるんじゃないだろうか。

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