憲法審査会 2023年4月20日 議事録

各会派代表の発言

新藤義孝(自由民主党・無所属の会)
自由民主党の新藤義孝です。本日は憲法9条について、これまでの審査会で各会派から出された意見に関し、論点を絞って意見を申し上げたいと思います。先週の審査会では、国民民主党の玉木委員より、「自民党のたたき台素案の説明は、憲法学者が違憲だと言っている。教科書に意見論がある。共産党さんだと思うが国民政党が違憲だと言ってる、など自衛隊違憲論の解消が主たるものとなっているが、そのような消極的な目的は、憲法改正を主張する理由としては弱く、また自衛権の行使の範囲を解釈にゆだねている以上、戦力不保持を定めた9条2項との永遠の解釈論争を改正後も引きずるのではないか」このようなご指摘を頂きました。そしてつまり、ものすごい政治的労力を経て改正しても、違憲論に終止符を打つことができず、労多くして益少なしの改正になってしまうのでは、とご指摘頂いた訳であります。
まず私達の説明している自衛隊違憲論の解消は、憲法改正による効果を述べているものであります。9条の目的は、この憲法という国家の基本法に、国防規定を創設し、それを担う「自衛隊」を明記することによって独立した主権国家としての憲法及び法律の体型を完成させるというところにあります。我が国は憲法9条1項・2項の下でいかなる主権国家も保持している自衛権を行使するために、その実力組織として自衛隊を保持しています。自衛隊は1954年の創設以来、日々の国防、災害時の活動等における献身的な活躍で、国民の強い信頼を得ており、その合憲性に全く揺らぎはないと考えているわけです。この点、先週、立憲民主党の中川筆頭より、「現状の自衛隊は合憲。その役割と必要性については、国民に充分理解されている」との発言がありました。この点に関しましては、認識を我々と十分に共有できると、このように思っているわけであります。その上で現行の9条は、日本国憲法で唯一の安全保証に関する規定であり、1項で「戦争放棄」、2項で「戦力不保持」と「交戦権否認」が定められています。
しかしこれは、平和主義の原理と、自衛権行使のあり方に関する規定であって、安全保障の根幹である「誰がどのように国を守るか」という国防規定は置かれていないわけであります。本来であれば、まず国防規定と、その担い手である自衛隊を定めた上で、現行9条1項・2項のようなその実力行使のあり方を規定するのが、論理的であり、かつ最高法規としてのあるべき姿ではないでしょうか。日本国憲法が国の土台となるべき国防規定と、その担い手に関する規定を置いていないのは、占領下という、独立と主権を失い、武装解除により国防を担う実力組織を持っていない状態で制定されたという特殊な経緯があったからに他なりません。
私たちのたたき台素案の第一義的な目的は、わが国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つという国防規定と、その担い手としての実力組織である自衛隊を憲法に明記し、日本国憲制定以来の欠落部分を補うことにより、憲法を頂点とする我が国の法体系を完成させることにあります。この事は、憲法改正を考える十分な立法事実と考えております。自衛隊違憲論の解消という私達の説明はその思いと効果を、国民の皆様に分かりやすく伝えるためのものであることをご理解いただきたいと思います。
もう一点。これも玉木委員から、「9条2項をめぐる自衛権の行使の範囲、いわゆる必要最小限度の概念をめぐる、永遠の解釈論争に終止符を打つべし」とこのような意見をいただきました。憲法9条の下で認められる武力行使の3要件を憲法に明記すべきとの意見であります。現在の政府解釈による武力行使の3要件とは、第一に、「わが国に対する武力攻撃が発生し、又はわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生して、これによりわが国の存在が脅かされ、国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。第二に、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと。第三に、必要最小限度の実力行使にとどまるべきことであります。これは2015年に整備された、平和安全法制にも明記されています。しかし公明党の浜地委員が指摘されるように、憲法9条のもとで許容される自衛権行使の要件は、長年、国会審議を通じた政府答弁によって確立してきたものであって、それを過不足なく、憲法に規定する事は困難ではないかと考えます。どのように規定したとしても、解釈の余地は常に生じる可能性があり、最も議論となり得る「必要最小限度」の具体的な範囲も、結局は、わが国に対する脅威の内容や程度によって、相対的に判断しなければならず、その時点での解釈に委ねられることになると思います。
次に、これまで複数の委員から「戦力不保持を定めた9条2項を残したままでいいのか」「自衛隊は軍隊として位置づけるべきではないのか」といった意見も出されています。9条改正を議論するにあたり、私は日本国憲法の三大原理である平和主義を堅持する、ということを大前提にすべきだと考えています。9条1項の「戦争放棄」と2項の「戦力不保持」「交戦権否認」は、いずれも徹底した平和主義の精神、すなわち専守防衛を端的に表したものであり、多くの国民がこの堅持を望んでいるのではないでしょうか。
戦後77年が経過しても、国のために尊い犠牲となられた海外戦没者の御遺骨は、未だ半数近くが故郷に帰還しておらず、戦争による深い悲しみと傷は、時が経っても決して癒えることはなく、私たちの心の中に刻まれています。
二度と不幸な戦争を行わないという誓いは、国家運営の礎であり、平和主義の規定の取り扱いについては、慎重な議論が必要と考えております。
最後に、シビリアンコントロールに関し、公明党の浜地委員より「第2章の『戦争放棄』ではなく、第5章の『内閣』の章に自衛隊の規定を設けることも考えられるのではないか」とこのような意見をいただきました。私たちが示しておりますたたき台素案においても、9条の2として、「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする」との政府部内における統制と、「国会の承認、その他の統制に服する」との、国会による民主的統制に関する規定を設けており、シビリアンコントロール規定の整備の必要性については、認識を共有できると考えております。
私としては、シビリアンコントロールの規定は、国防を担う究極の実力組織である自衛隊を、いかに民主的統制の下に置くかという観点で整備するものであり、現行の9条1項・2項に加え、9条の2として、新たに整備する国防規定の一環として、同じ条文の中に規定することが望ましいと考えているわけです。この点、72 条や73条の「内閣の職務として自衛隊を明記する」という考えは、行政組織の管理・運営・統制といった組織的側面に着目した整理と思いますが、そもそも自衛隊は国防という究極の実力行使を担う特別な機関であり、国防という機能的な側面と、民主的統制という組織的な側面は、密接、不可分なものであり、同じ条文に位置付けることが自然ではないかと、このように考えております。
また、自衛隊の任務にある国防規定も含めて、72 条や73条に想定した場合には、国防という根幹的な規定と、自衛権行使のあり方を定める現行9条が切り離されることになってしまいます。国防及びその担い手である自衛隊に関する規定は、9条の一環として、第2章「戦争の放棄」に位置づけることが望ましいのではないかと考えているわけであります。
本日申し上げましたいくつかの論点につきましては、今後ぜひ、各会派の委員なりのご意見をお聞かせいただき、作業を深めていきたいと思います。今朝の幹事会におきましては、来週の定例日にも審査会を開催し、討議を継続することを提案いたしました。今後も憲法審査会が安定的に開催され、充実かつ深い議論が行われるよう、委員各位のご理解とご協力をお願いし、私の発言といたします。

中川正春(立憲民主党・無所属)
立憲民主党の中川正春です。今日は、緊急事態条項について改めて、取り上げていきたいというふうに思います。
私たちは、緊急事態条項を憲法に規定することについては、否定的な議論をしてきました。もう少し詳しくこの意図をお話ししたいというふうに思います。
現状でも緊急事態の形態に応じて国の対処は、法律で規定し、緊急事態宣言を総理大臣が発することで、総理大臣を中心とする政府に対して、緊急事態に対処する権能を拡大する、このことを可能にしています。私はこうした法律体系で、個々の緊急事態の状況に応じた形で、総理大臣や政府の権能を規定することが実態に則した危機に対応できるということになると考えています。
もう少し具体的な事象を示します。緊急事態としては、戦争・国内紛争・大災害やパンデミックなどの事象が想定されていますが、例えば戦争への対処については、大きく2つの目的が想定されます。緊急事態を認定した時点で、総理大臣は海外から侵入する敵に対して、自衛隊の武力行使を前提とした出動命令を出すことから始まります。
国民を守るために敵と戦うという指揮権であります。一方で、敵の攻撃から逃れるために、国民の避難命令など基本的人権の制限などを含めた、国民自らを対象に権力行使する機能というのがあります。具体的には、国民保護法の中で、特に国家よりも知事や市町村長にこの権能が特別に規定されていると理解をしています。
大災害やパンデミックで緊急事態を想定する場合は、災害対策基本法や新型インフルエンザ対策特措法などの危機対応法制がありますが、現実の事象が起きた中で、これがうまく機能したかどうか、検証が続いています。
その中で共通した問題意識は、特に災害の起きた数日間の発災時点で、1人でも多くの人命を救済すること、そして一時的に避難した人々の生活が、持続可能な基本的条件を整えて維持するための救命と復旧活動であります。
この状況での消防・警察・自衛隊などの具体的な指揮権は、危機対応ではどこに権力の周知をして、危機対応組織の動員を促し、より多くの命を救済することになるのかということを考えることが必要であります。それは必ずしも総理大臣一極への権力集中ではないという事は、これまでの経験の中で明らかであります。事態が発生する初期段階では、現場の情報は現場の指揮官に集中します。現場の指揮官が通常の法律権限を超えた強い指揮権を与えられて、緊急的な対処ができる事前の制度が必要なことが、東日本大震災の教訓だったと思います。
またその指揮官の対応を公益的な連携を調整して、しっかりとバックアップしていくという体制、これが総理大臣を中心とする国の組織であることが期待をされたということであります。
一義的には、市町村長や知事の権限拡大や、自由財源を獲得することができる権限保障の方が、総理大臣の緊急権限よりも優先的に考えることだということが指摘されております。緊急事態時の権限集中は必要です。しかし緊急事態の形態により、その権限の拡大を誰にどのような形で付与するかは、想定する緊急事態によって異なっていくべきものであります。さらに言えば国内の紛争騒乱を想定した場合は、自衛隊の治安出動や警察の緊急事態布告などにおいて総理大臣の権力の乱用をどのように民主的なプロセスの中でコントロールするかという仕組みを法律に組み込むことが出来るかが、大事なテーマになってきます。そうした観点から考えると、憲法で一律に規定するよりも、各緊急事態の形態に応じた現状の法律による対応が、望ましいと言えます。同時にそれぞれの法律はより効果のある対応を実現するために不断の見直しをしていくということも必要であると考えます。一方でこうした前提の中、今話題になっている「議員任期の延長」は、どのように整理するかが課題となります。議論の前提として、どのような状況であれ、できる限りの国会機能の維持は必要だという考えには賛同します。したがって事の想定は、一般的に任期が切れた状況で選挙をすることが困難な状態が生じた時、どのように対応するかということ。言い換えれば、選挙困難事態への対応であります。災害の想定だけではなく、例えば国の財政破綻で金融市場の大混乱が起き、人々が尋常でない心理状態に陥ったり、反体制運動が激化して選挙のボイコット運動が蔓延したりなど、さまざまに社会の混乱は想定しておくべきであります。そうした前提のもとで、議論の整理をすれば、まず第一に、この選挙困難事態の定義が必要であります。特に100%の公平性を前提にした選挙の環境を言うのか、それとも多少の公平性は犠牲にしても、選挙を可能とみなすのであれば、それが具体的にどの程度のことを言うのか。期間・公益性・事態の深刻度等について決めておかねばならないと思うのであります。
選挙困難事態の定義です。
次の課題は、参議院の緊急集会が事前の策として使えるのかどうかということであります。
私たちは、第一に、解散時以外の任期満了時にも類推適用ができないか、この問題。第二に、70日の期限限定を少しでも緩和する解釈ができないか、三番目に、審議ができる案件が、内閣提出の案件及びこれに関連する案件に限られたとする限定を緩和できないか、等の諸点について検討が必要と考えていますが、参議院での議論や、憲法学者の見解も踏まえて憲法解釈に結論を見いだすべきであります。ここで出てくる結論によっては、憲法の今の規定に、選挙困難事態における議員任期の特例を設ける必要が出てくる可能性もあり得ると思います。
もう一つ大事な議論があります。権力者にとっては、自分に都合の良い理屈を付けながらこのような制度を利用して恣意的に選挙を先延ばししたり、選挙自体を避けることもできる可能性が出てきます。これを避けるためには、選挙困難事態の政治部門による認定をチェックする仕組み、これは司法の関与などということでありますが、これについて工夫することも大切な議論になってくるのではないかというふうに思っております。
以上、整理をしましたが、これからさらに議論を深めていきたいというふうに思いますし、ここの議論だけではなくて、国民的な意識の喚起ということを求めていくためにも参考に、あるいはそれぞれの場所で参議院も含めて議論を広めていく、拡大をしていくということが大切だというふうに思っております。以上です。

小野泰輔(日本維新の会)
本日数え年で50歳となりました日本維新の会の小野泰輔です。ありがとうございます。私が生を受けて半世紀もの間、憲法が1度も改正されなかった事は、それぞれのお立場により、感じ方が異なると思いますが、私は時代とともに憲法も必要に応じて適切に見直していくことが大切だと考えております。
さて先週は、各会派から憲法9条改正に関する意見表明が多くなされました。公明党の浜地委員からは、「自衛隊の明記に関しては、行政各部を指揮監督する対象として、憲法第5章の『内閣』の中の憲法72条に書き込む案や、73条の『内閣の事務』に自衛隊の指揮権を明記すること」などのご提案がありました。自衛隊を国防の担い手としての組織的側面、及び文民統制の側面から規定するやり方として、有力なアイディアではあると思いますが、以下申し上げる理由で、9条に書き加える自民党や我が党の案の方が自然かつ適切なのではないかと考えます。
憲法72条や73条は内閣のあり方について規定したものであり、指揮監督する対象としては、行政各部を等しく扱っており、特定の官主を挙げておりません。仮にこれらの条文に自衛隊を明記してするとすれば、自衛隊だけではなぜ行政各部の中で特出しされているのか、その理由がよくわからないことになるのではないかと思います。
やはり、先週、自民党の複数の委員の皆様が言及されていた通り、自衛のための実力組織という特殊性・独自性に鑑み、わが国の平和の維持を定めた憲法9条に、「自衛隊」を書き加えることが適切であると考えます。その上で、わが党の憲法改正原案では、自衛隊は防衛を担う実力組織ではあるものの、あくまで行政各部の1つであって、各行政機関と同格であり、内閣総理大臣の指揮監督権に服することも9条で明確に規定しております。
自衛隊を明記するのであれば、『内閣』の章ではなく9条で行うのは相応しいと考えております。この点、立憲民主党の中川幹事からは、憲法への「自衛隊」の明記は必要ないとのご意見がありました。しかし先週の議論で玉木委員が赤嶺委員に水を向けられましたが、共産党として自衛隊を合憲と認めるというような玉木委員がおっしゃる「双方ハッピーになる答弁」は残念ながら、赤嶺委員からはありませんでしたので、引き続き「自衛隊は違憲」との疑義を唱える政党が国会に議席を有されているといえ、憲法に自衛隊を明記するべき憲法改正事実が依然として存するものと考えます。ただ、先週、玉木委員から、「たとえ憲法9条に自衛隊を書き込んだとしても、自衛権の範囲が解釈に委ねられている限り、結局のところ当該解釈は憲法9条を逸脱しているのではないかという論争が、永遠に続くのではないか、そのためには9条の解釈の内容、例えば新三要件をある程度書き込むなどすべきではないか」とのご発言もありました。しかし、まず憲法改正手続き上、新三要件のような、現在の政府が編み出した解釈が、国会でのコンセンサスつまり衆参各議員の総議員の3分の2以上の賛成を得られる見込みが乏しい事は、事実上重い問題であると思います。立憲民主党や共産党はもちろん反対されていますし、公明党は憲法9条に「自衛隊」を書き込むことにも慎重な立場を取っておられます。
自民党と同じく、限定的な集団的自衛権を認める立場である私ども日本維新の会も、新三要件を議論していた当時、政府の存立危機事態については、要件が曖昧かつ広すぎ、純粋な他国防衛にまで関与してしまう恐れがあるとし、米軍等防護事態という政府の要件をより絞り込んだ提案を行いました。そのように、各政党や国民の間で、かなり考えに幅のある自衛権の範囲について、憲法改正の手続きを経て具体的に書き込む事は可能なのかという問題があると思います。さらに仮に書き込むことが可能として、自衛権の範囲について新三要件のような具体的な項目を、憲法に書き込むことが適切かという問題もあるのではないかと思います。わが国の安全保障環境は、世界や東アジアなど国外の政治・軍事情勢に大きく左右されます。改正が難しい法制憲法である日本国憲法において、一度、具体的な自衛権の範囲を規定してしまうと、迅速で現実的な対応が事実上困難になってしまうという問題もあるのではないかと考えます。
そういう意味では、憲法上、自衛権の中身を明確に規定せず、その時の安全保障環境に応じて、解釈に委ねる現在のあり方は、現行憲法の諸制約の中で、現実に適応する方法としては苦しいながらも一定程度妥当だったと言えるのではないかと思います。
そのようなことから、日本維新の会も9条に関して現状維持し、解釈によって自衛権の範囲を伸縮させる考えを是認した上で、自衛隊を明記する改正案を提示しています。
ここから先は頭の体操のような話になります。
先週、玉木委員からは「9条2項をそのまま残しておいて良いのかという議論を行うべき」とのご発言がありました。
9条2項を削除して、「戦力の不保持」の問題を解消し、他国同様、軍隊を持てるようにし、その上で普通の国のごとくフルスペックの集団的自衛権まで憲法上許されるのだということにすれば、考えとしてはシンプルにまとまっているため、その政治的ハードルはかなり高いにしても、国会の各会派の考えがそこに収斂し、憲法改正発議に漕ぎ着けることは理屈の上では可能かもしれません。そしてそのように憲法上はフルスペックの集団的自衛権まで認め得るとした上で、具体的な制限については、憲法の平和主義の原則を踏まえた上で、その時代のわが国周辺の安全保障環境や同盟国との関係等の状況に応じて、法律できめ細かく決めていくといったいったほうがより実効的かもしれません。
これに対して、そんなことをしたら政府の暴走を憲法で止めることができないんではないか、との非難もあろうかと思います。しかしながら、最高裁判所は砂川事件判決で、「憲法9条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と述べるに止め、その後も自衛隊の合憲性の問題に直接答えることを控えてきました。
このような中では、実際に政府が行う自衛権の範囲の解釈について、どれだけ裁判所に違憲を訴えても、これまで同様司法による判断が下される可能性は少ないと思います。むしろ自衛隊の範囲をどこまでにするのかを憲法上明記せず、9条2項を削除することで、フルスペックの集団的自衛権から検討をスタートさせ、それを法律で制約するプロセスとして政治の側で激しく論戦しながら適切な自衛権の形を模索していく。下される可能性の乏しい裁判所の違憲判断を期待しながらジリジリと政府の解釈が広がっていくよりも、立法府において自衛権の範囲を制限する方向で議論を徹底し法律を創造していく方が、効果的に適切な歯止めをかけられるかもしれません。
そのような議論が国会で繰り広げられることで、政権交代や政界再編のダイナミズムがもたらされるものと思います。それでも心配で仕方なければ、私どもの提案してるように、憲法裁判所に違憲審査を必ずさせる仕組みにするのも1案だと思います。頭の体操はこれで終わりにしたいと思います。
ふと我に返ると、私の傍には共産党そして立憲民主党の議員さんもおられます。玉木委員がおっしゃった意欲的な改正目標は私も魅力を感じますが、現実的な憲法改正はどのあたりなのかを考えることも重要だと思っています。
一方で、タブーなく議論することの重要性も認識しております。委員間でそのような姿勢で憲法論議していけば、さらに良い憲法を我々で作ることができると考えます。来週も自由闊達で建設的な憲法論議が展開されることを大いに期待致しまして私の発言を終わります。

北側一雄(公明党)
公明党の北側一雄です。今日は、私も憲法と安全保障との関係について意見を述べます。平和安全法制は、2015年5月に法案が国会に提出され、同年9月に成立し翌2016年3月に施行されました。
平和安全法制には、安全保障に関わる様々な関連の法整備が含まれていますが、その肝となるのが、憲法9条のもとで許容される自衛の措置の限界を明確化したことです。いわゆる武力の行使の新三要件です。
その基本的な考え方は、法案提出の前年である2014年1月1日の閣議決定で示されています。
私はこの1月1日の閣議決定に至るまでの、自公の与党協議、さらにはこれに基づく関連法案の策定、法案成立に至るまで与党の実務者として関わりました。憲法9条のもとで許容される自衛の措置について、これまでの政府見解の根幹、基本的な論理は何か、改めて確認したいと思います。
それは、内閣法制局が1972年昭和47年ですが、1972年10月14日の参議院決算委員会に提出した『集団的自衛権と憲法との関係』で明確に示されています。その考え方は1959年12月のいわゆる砂川事件の最高裁判決とも機を一にしています。72年見解は、憲法前文の「平和的生存権」13条の「幸福追求権」の憲法規定を根拠に、「憲法9条はわが国が自らの存立を全うし、国民が平和のうちに生存することまでも放棄していない事は明らかであって、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは到底解されない」と述べ、さらに「だからといって平和主義を基本原則とする憲法が自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それはあくまでも外国の武力攻撃によって、国民の生命・自由及び幸福追求の権利が、根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認される」と述べています。
以上の72年見解を踏まえ、2014年1月1日の閣議決定は、この基本的な論理は憲法9条の下では今後とも維持されなければならないとした上で、わが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、わが国の存立を脅かす事は現実に起こりうるとして、武力の行使の新三要件の内容を示し、「これは従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として憲法上許容される」としました。また「憲法上はあくまで、わが国の存立を全うし、国民を守るため、すなわちわが国を防衛するための、やむを得ない自衛の措置として初めて許容される」として、許されるのは自国防衛の措置であって、もっぱら他国防衛を目的とした武力行使は禁止されることを明らかにしています。
例えば、日本海の公海上で、わが国防衛のため警戒監視活動している米艦船に対し、外部から武力攻撃があった場合に、自衛隊はこれを排除するため、武力の行使ができることになります。これによってわが国の防衛の基軸である日米同盟の信頼性と抑止力が強化されたことは言うまでもありません。
以上、この1月1日閣議決定と、その後の平和安全法制に明示された新三要件は、憲法9条の下で許容される自衛の措置の限界を明確化し、解釈として自然に確立されているもので、今後とも堅持しなければなりません。
仮に、これを変更し、自衛の措置を拡大しようとするのであれば、憲法改正をしなければなりませんが、これは日本国憲法の平和主義の基本理念に劣るものであって、私どもは賛成することができません。
次に、先週の新藤議員の意見に対する若干のコメントを申し上げます。
新藤議員は「これまでの9条の政府解釈は堅持した上で、9条の2を設け、国防規定とその担い手である自衛隊を明記すべし」と主張されています。まず、本日も新藤議員からは、日本国憲法の平和主義をこれからも堅持されなければならない」と、また「これまでの9条の政府解釈を維持する」とされていることについては、高く評価したいと思います。しかしながら、次の点についてはやや疑問があります。
第一に、自民党のたたき台案では、9条の2の1項で「前条の規定は必要な自衛の措置をとることは妨げず」とあります。「妨げず」は例外規定ではなく、あくまで9条の2項の範囲内にあることを確認する規定と述べられています。
しかしながら、例えば民法256条の「共有物の分割請求」の規定では、各共有者は、いつでも共有物の分割を請求することができる。ただし5年を超えない期間内は、分割をしない旨の契約をすることを妨げない」とあります。
ここでの「妨げない」は例外規定で、その他「妨げず」との文言を例外規定として使用する法律規定は数多くあります。「妨げず」の表現は、9条2項の例外規定と呼ばれる余地を残すことになり、賛成できません。
第二に、自衛隊という組織を憲法上明記することによって、憲法上の国家機関とされないのか、また憲法72条で、行政各部の1つとして位置づけられている防衛省の上位機関とみなされないのかと言うことです。そのような誤解を与えないためにどのように表現すべきなのか、またその意味でも憲法のどこに位置づけるのが良いのか、さらに検討が必要と思います。
第三に憲法上の位置付けです。これは先週の玉木議員の発言でも指摘されていますが、9条の政府解釈、すなわち「自衛の措置の限界」は堅持した上で、国防規定と、その担い手である自衛隊を明記する、さらにはシビリアンコントロールを明確化する、そうした目的であれば、日本国憲法第5章『内閣』の章の、72条・73条の『内閣総理大臣・内閣の職務権限規定』について追加規定を設けた方が、その目的に合致すると考えます。
自衛隊は日本最大の実力組織です。これに対する民主的な統制を、憲法上書き込んでいくのは、国民主権の理念からも、憲法価値を高めるものとして意義があるもので、さらに検討を進めて参りたいと思います。
ちなみに、海外の憲法例でも、私の知る限り、軍は大統領もしくは内閣の権能に関連して規定されています。
なお先週、玉木委員からは、平和安全法制の制定により、9条の実体的な改正の必要性は消失しているとの話がありましたが、私も結果としてそのように考えています。昨年末に安全保障三文書が閣議決定され、現在も国会で論議されているところです。安全保障環境が一段と厳しさと複雑さを増す中で、平和安全法制のもと、国民の命と平和を守るため、外交、そして安全保障に係る政策をいかに実行していくのかが、今まさに問われていると思います。以上です。

玉木雄一郎(国民民主党・無所属クラブ)
国民民主党の玉木雄一郎です。大変良い議論が行われていると思います。
こういう議員間の議論が本当の国会の議論だと思いますので、立場がいろいろあるにせよ、こうして開いてこういった議論ができることは本当に価値のあることだと思っています。
まず、冒頭、緊急事態の議員任期の延長について述べたいと思います。
先週、立憲民主党の篠原委員に対して、「任期満了を迎えた前議員に議員並みの特別な身分を付与することが立法措置でできるのか、できるとしてどのような立法が可能なのか」今日は回答いただきたいと思ったのですが、敬愛する篠原先生がいらっしゃらないので、次に回したいと思います。
ただ私は、やはりそういった立法は違憲立法にならざるを得ないのではないかという事と、中川先生から、今日はかなり整理されてご発言がありましたけれども、緊急集会の一時的・臨時的・限界的な射程が、まず期間として70日を超えるとして、どこまで超えるのか、内閣が求めた以外のものも扱えるとして、どこまでそれがいけるのか、フルスペックに条約とか本予算とかを全部できるのか、というのはさすがに全部は難しいのかなと。その間のグラデーションがどこなのかという議論をそろそろ具体的にやっていければ良いのかなと。
奥野さんも言ったように、解釈と法律でできないなら、そろそろ、立憲民主党の皆さんとも、具体的な憲法改正の条文案の議論を始めさせていただきたいと思います。
次に9条改正について述べたいと思いますが、これはまずですね、今日は9条の議論をしてるんですが、せっかく議員任期の延長についての、かなり正案が得られてきているので、まずはここに集中して議論して、ある程度固まる前に9条に行くと、議論が拡散するので、生煮えで次のテーマに行くのはできるだけ抑えてやったほうがいいなと、そのことを申し上げて9条について申し上げます。
前回申し上げた通り、私は改正するんだったらいい改正をぜひやるべきだと、あそこもやっといたらよかったなとか後で悔いが残るような改正にすべきじゃないというふうに思ってます。やはり9条という事を改正するんであれば、国家国民を守るため、国家という国家権力にいかなる軍事的公権力の行使を認めるのか、本質的な議論が必要だと思いますので、新藤先生が示した組織的側面と、シビリアンコントロールは当然なんですが、行動的側面ということです。自衛権をどうするのかということを、避けてはいけないと思っています。
今日は、各党からいろんな意見を聞いて思うのは、今やろうとしている案というのは結局、憲法改正案を議論してるのに、その中身は全部解釈ですということなので、結局、自衛のために必要な措置は閣議決定と閣法で定めるということを決めようとしてるんですよ。決定の枠組みを決めようとしてるんです。その中身がどうかというのは結局、いろんな時代状況も変わるので、最後は閣議決定、内閣が決めたり、あるいは法律、特に閣法で決めましょうということを決めようとしてるんです。私はそれも1つの、小野さんが言ったように、「現実的に共産党さんが座って居られて」って話もしてましたけど、どこまで現実的に言ってますか。もちろんそうなんですが、立法府なので、筋論としての論理的・法的な議論は一回ちゃんとやっといて、妥協が必要だったらそこから妥協の議論をして、最初から妥協に__かけてやるようなのは、私は最高法規の議論ではないと思っています。
自民党案の9条2項の解釈を維持しています、と北側先生から「妨げず」ははみ出るんじゃないかとの懸念も示されたが、依然として維持すると言う事なんですが、維持するのは結局、明明フルいっぱいに広げた新三要件ですよね。
ただ維新の小野さんが言ったように、維新も同じように解釈に委ねるんだけど、その解釈は、新三要件では無いんですよ。
当時の維新の案はちょっと狭いんです。ある程度わが国のために防衛してる、例えばアメリカであったりとかあるいは地理的な限界も当時あったと思います。個別的自衛権で何とか読める範囲に工夫されてあの時は良い案だったと思うんですけど、同じく解釈に委ねるとしても、2項の解釈の範囲ですよと言っても、その解釈は、例えば同じ改憲を目指している自民党と維新でも同じじゃないんです。
赤嶺先生に改めて聞くと、なんで自衛隊が違憲なんだと言うと、「9条2項に戦力を保持したらだめだと書いてるからだ」と。シンプルですよね。その戦力を持っちゃダメというところが、できるだけ戦後に広げてきて、最初、吉田茂の時には、個別的自衛権だって駄目だったわけですから。それから広がって広がって今日にきて、一部集団的自衛権まで認めて来ていると。我々が、自民党案にしても維新案にしても、改正しようとする中身は、結局ときの解釈に委ねますよという改正をしようとしてるんです。それは憲法改正の議論として果たして意味があるのかと。
私も国防規定は必要だと思うんです。ただその国防規定は、時の政権が誰が持つのか、その時の政治勢力や政治的な考え方によって、考えが変わってくるし、9条2項という戦力を持っちゃだめというのが生きてるので、その関係の中で規定されるので、いつまで経っても違憲論は消えないんです。つまり、違憲論を伴う国防規定ほど情けないものはないとおもいます。国防規定を設けるのであれば、組織としても、その組織が行使する自衛権についても、違憲論が出ないような国防規定にしないと、前線で命をかけて戦っている自衛隊の皆さんに申し訳ないと思うんです。いつまでたっても違憲論をまとうような、そんな国防規定は、私は改正で作るべきではないと思います。
ただ一定の柔軟性が必要だということがよくわかるので、どのようにある程度書くのかと言うのはこれから議論したらいいと思うんですが、ただ少なくとも9条2項との関係での違憲論をなくさねば。
1番シンプルなのは、9条2項、いろんな情緒論は置いて、戦後はあれだけの惨禍を経験したという、9条に対する思いはあるものの、法律論なんで情緒論は置いておくとして、論理的帰着として、9条2項の削除は議論すべきだと思います。仮に削除しない場合であっても、新藤先生がおっしゃるような、解釈を維持する、あるいは維新の案が言うような範囲内ということではなくて、9条2項を残した上で、「前項の例外として、これこれができる」と書くべきだと思います。その9条2項の範囲でどうかするとなると、赤嶺先生はやっぱり手を上げざるえなくなると思うんですよ。だから9条2項を残すにしても、「前項の規定にかかわらず」とか例外として何らかの自衛権の範囲を規定するような書き方で、9条を残すというやり方でないと、世界に誇るべき国防規定はできないのではないかというふうに私は思いますし、わが党は思います。
自衛権をどう書き込んでいくのかというのは、非常に難しいので、これをまさに議論したらいいと思いますが、北側先生がおっしゃったように、あの中で何とか平和憲法の一番広げた範囲が新三要件であってそれがゆるぎないんであれば新三要件を書けばいいと思います。そこまで細かく書くのが規律密度が低い日本国憲法に合わないというのであれば、ぼやかし方を工夫したらいいと思うんですが、あれが全てであったなら、新三要件を書いたとしても、その最後に書いてる三番目の「必要最小限」の解釈は残り続けるんですよ。そこをまた解釈がどうだこうだっていう話があるんで、新三要件を書いても、新三要件の1部のワーディングについては、解釈がいっぱい残りますから、あれだけ苦労して新三要件を決めたんだったら、新三要件を書くのは一案です。
もう一つわが党が示しているのは、急迫不正の1つ目の要件です。これは旧三要件を少し変えて、「我が国に対する急迫不正の侵害」というのを「我が国にとっての急迫不正の侵害」ということで一部集団的自衛権、かつ結果として我が国に影響が及ぶもの、を読めるような条文の書き方はできないのかなということも考えておりますので、いずれにしても国防規定を設けるのであれば、やはり組織にしても行為にしても、違憲論が残らないようなものにするべきだと思います。お父さんが勤める自衛隊についての違憲論は消えても、お父さんがやってることについての違憲論が残り続けると、やっぱり誇りを持って働けないのではないかというシンプルな疑問です。
最後に、ネット広告規定について一言申し上げます。何らかの規制を私も必要だと思うんですが、これは国民投票法だけじゃなく、広告という範囲を超えて、もっと幅広く議論する必要が出てきていると思います。特にチャットGPTのような生成A lについての規制のあり方については、現在全く、国際的にも手付かずです。あるいは手探りです。
例えば「憲法9条は改正したほうがいいんですか」ということをチャットGPTに聞いたときに、どう答えるか、結構重要なんですよ。その答えは正確性・公平性をどのように担保するのかということも、考えなきゃいけないと思うんです。AIに学習させる情報や主張によっても、解答が変わってくるので、人間のみならず、品先生が仰ったAI自身もバランスの取れた情報について学習する環境整備が必要なのではないのかなと思います。その意味で、私たちが適切に、憲法19条に規定する思想・良心の自由を形成できるように、チャットGPTのような生成AIも含めた幅広い規制のあり方を議論することを提案したいと思います。以上です。

赤嶺政賢(日本共産党)
日本共産党の赤嶺政賢です。今日は憲法9条の意義について意見を述べます。憲法9条は、絶対に戦争を起こさないこと、国家間の争い事は徹底した外交努力によって解決することを求めています。この9条の精神は、悲惨な沖縄戦を体験した私たち沖縄県民の「ぬちどぅたから(命こそ宝)」という強い思いと重なるものです。先の大戦で、沖縄は本土決戦を遅らせるための捨石とされ、住民を巻き込んだ地上戦の場となりました。日本軍は、「軍・官・民、共生共死の一体化」という方針のもと住民を根こそぎ動員していきました。鉄血勤皇隊や、ひめゆり学徒隊など、中学生の年齢の少年・少女達まで動員し、男子学徒は戦闘の最前線へ、女子学徒は負傷兵の看護を担わせました。
さらに日本軍は、砲弾が飛び交う中で、軍の弾薬や食料を運搬させたのです。沖縄戦の縮図と言われている伊江島では、乳飲み子をおぶった母親にまで、米軍陣地に切り込むことを強制いたしました。
石垣島では、マラリア生息地への移動を命じ、宮古島でも餓死や病死で犠牲になる住民や兵士が相次ぎました。
住民を守るどころか、沖縄の方言をしゃべっただけでスパイとみなし虐殺していったのです。國體護持を至上命題としていた第32軍は、首里城の地下に構築した司令部が陥落するのを目前にして、多くの住民が避難していた本島南部へ撤退しながら、持久戦を継続することを決めました。狭い地域に住民と兵士が混在する極限状態のもとで、住民は米軍の攻撃だけでなく、日本軍からも砲弾の雨の中を、壕から追い出され、口封じのために赤ちゃんに手をかけることを強要されました。負傷兵には青酸カリが配られ、自決を強要されました。まさにこの世のありったけの地獄を集めたのが沖縄戦でした。決して情緒論では片付けられるものではありません。
戦場では軍事合理性が優先されます。沖縄県糸満市の摩文仁の丘にある平和記念資料館の展示室に、次のような結びの言葉が掲げられています。沖縄戦の実相に触れるたびに、戦争というものはこれほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。この生々しい体験の前では、いかなる人でも戦争を肯定し美化する事はできないはずです。戦争を起こすのは確かに人間です。しかしそれ以上に、戦争を許さない努力をできるのも私たち人間ではないでしょうか。
戦後このかた、私たちはあらゆる戦争を憎み、平和な島を建設せねばと思い続けてきました。これがあまりにも大きすぎる代償を払っていた、譲ることができない私たちの心情なのです。これは沖縄だけでなく戦前の日本があらゆるものを軍事に動員して、侵略戦争に突き進み、アジア太平洋地域で約2千万人、日本国民約310万人もの犠牲者を出したことへの痛苦の教訓であります。
だからこそ日本国憲法は政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し、9条で「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」を定め、戦争に繋がる一切のものを排除することを求めているのです。
今、沖縄県では岸田政権が南西諸島を軍事要塞化し、再び戦場にしようとする動きに反対し、対話によって戦争を回避する努力が始まっています。様々な市民団体が、中国や台湾の有識者を招いた集会やシンポジウムの取り組みを進めています。石垣島や与那国島では自衛隊の誘致に賛成した住民からも、ミサイルの配備に反対する声が上がっています。石垣市議会は意見書で、「平和発信の島」「平和を希求する島」との決意のもと、議会活動しており自ら戦争状態を引き起こすような反撃能力を持つ長射程ミサイルを石垣島に配備することを、到底、容認することができないと批判しています。沖縄県議会は、政府に外交と対話による平和の構築に積極的な役割を果たすことを求める意見書を可決しました。玉城デニー知事も、議会の所信表明で、ロシアのウクライナ侵略や、米中対立の顕在化を上げながら、このような状況だからこそ外交の知恵が求められており、アジア太平洋地域における関係国等による平和的な外交対話による緊張緩和と信頼醸成、そしてそれを支える県民・国民の理解と行動がこれまで以上に必要になると強調し、地域の平和構築に貢献する地域外交を展開すると表明しています。
憲法9条を持つ日本政府こそ、東アジアに平和と対話の枠組みを発展させることに全力を尽くすべきです。そのことを改めて申し上げ発言にいたします。

北神圭朗(有志の会)
有志の会の北神圭朗です。今日も憲法9条の話をせざるを得ないというふうに思いますが、私も玉木委員の話にあった問題意識を一部共有しています。ただ2つだけちょっと私の考えを申しあげたいと思いますが、1つ、チャットGPTというのは、あんまりあてにする必要はないと思います。「北神圭朗」と書き込んだらですね、「推理小説家」とか、英語で書いたら「プロ野球選手」になっているそうでありますので。もう一つはね、今真面目な話で、自衛隊の自衛権の範囲について、自民党さんとかは、今の解釈で行くと、新三要件で行くと。玉木委員はそれについて、本当にそれでいいのかと、違う範囲の設定というものも、法律とかあるいは場合によっては憲法で定めるべきだという話なんですが。私はもう一つ違う視点で、そもそも自衛権っていうのは狭める必要があるのかと、もっと正確に言うと自衛権っていうのは法律とか憲法で狭めるものなのか、ということを国際比較をしながら、申し上げたいと思います。
この自衛権の範囲については、これに関連すれば、自衛隊というのは軍隊なのかどうかという事について、政府から平成27年に、今里衆議院議員の質問指示書に対する答弁があります。これはちょっと難しいのでゆっくり読みますけど、これは政府の答弁です。「自衛隊は憲法上、自衛のための必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものであると考えているが、わが国を防衛することを主たる任務とし、憲法第9条のもとで許容される武力の行使の要件に該当する場合の自衛の措置としての武力の行使を行う組織であることから、国際法上、一般的には軍隊として取り扱われるものと考えられる」という答弁です。
先週、「憲法とは国民にとってわかりやすいものであるべきだ」という誰しもうなずく発言がありましたが、今の説明はわかりやすいでしょうか?軍隊かどうかということすら普通に答えられないのが今の憲法第9条です。
「自衛隊」を憲法に明記すればこの答弁は変わるのでしょうか?実際、自衛隊と諸外国の軍隊の権限のあり方を比較してみたいと思います。軍隊の権限を縛るのは、世界的には、前回私が申し上げた「均衡性・必要性」の基準を前提に、国際法の武力紛争法や、国際人道法等の国際法だけです。これら以外は何でもできるというのがネガリスト方式というものでありまして、これが採用されているのが普通の国です。一方、わが国の防衛法制は、ポジティブリスト方式で、武力行使を原則禁止としつつ、できることを限定的に定められているものであります。
この違いは、自衛隊が警察の性格を備えているところから生じているのだと私は思っています。本来、警察と軍隊の目的というのは全然違います。前者は、国内の治安維持や犯罪の防止などが任務です。そのために国民に対し、国民に対して命令し必要に応じて実力を行使します。したがって警察法というのは、国民を対象として行使される警察権を縛るものであり、その権利義務に直接関係するため、国内法で厳格な縛りをかけることが求められます。
規定方式としてはポジティブリスト方式になります。一方、世界の軍隊は、外国からの武力行使等から、国民・国家を守るために実力を行使するのが任務です。その実力の対象は、基本的には脅威となる外国であります。
したがって軍隊は、主権国家の絶対性・平等性を確保するための、国際法を守ることが当然義務付けられます。
また国際社会と言うのは、利益も価値観も文化文明も異なる主権国家がしのぎを削る世界でありますから、断然国内の治安維持に比べて流動的で不確定で予測不能であり極めて柔軟な対応が求められます。
こうしたことから軍隊は、国際法で禁止されている行為以外は何でもできるというのが当たり前となっています。
もちろん国際法に加えて、軍隊用の交戦規則いわゆるROEを策定している国も多く存在します。
これは国家の政策目標に、軍事力の使用を合わせるために、戦闘を行うべき事態及びその方法の細部を定めるもので公表されるものではありません。法律ではありません。最後はこれが守られているかどうかというのは事後的に軍法会議で裁かれることになります。加えて、軍隊の最高指揮権は文民に限っていますし、国会の承認制度等で民主的な文民統制というのが図られているというのが普通の軍隊であります。要は軍隊の任務を効果的に、遂行する自由度を残しながら国際法や文民統制によって制約されるのが、国際標準というか民主国家における軍隊の普通のあり方であります。
つまり、対内的な権限を行使する警察と、対外的な権限を行使する軍隊は、その性格の違いから制約のあり方もおのずと異なるわけであります。
ところがわが国の防衛法制は、軍隊と警察の概念が混在しているため、警察法的なポジティブリスト方式となっています。そのため、何が問題なのかとおっしゃる方もいるかもしれませんが、そのため時として柔軟性が損われる面もあります。例えば自衛隊は防衛出動の命令が下されない限りは、警察権しか行使できません。しかし現代はハイブリット船に代表されるように、戦時に、戦争に至らない灰色領域での、つば迫り合いというのが殆どです。元空将の織田邦雄氏によると、2016年に東シナ海の領空で、わが国の戦闘機が中国の戦闘機からミサイルの標的としてレーザー照射され、撃墜されかねない事態が起こりました。普通の軍隊であれば、逆に相手にレーザー照射をするのが通常の対応ですが、ひたすら日本の航空自衛隊は逃げるしかなかったと。なぜなら防衛出動の命令がない平時においては、自衛隊というのは警察権しかないわけです。こういった場合に、どういう行為が認められるのか、定めた規定が存在しないわけであります。このようなことで、中国の忍び足侵略によって、我々の領空主権が日々少しずつ犯されることを止められるのでしょうか。真剣に考える必要があります。戦前の軍隊の行動を反省して、自衛隊をがんじがらめにするんだ、という考えもあるのでしょう。
しかし現在の国際法は戦前と違って、武力行使も原則禁止とされていますし、わが国の文民統制は徹底されていると思います。民主主義もそれなりに機能しているというふうに思います。
正規の軍隊を持つドイツ人やイタリア人ができることが、我々日本人にできないのでしょうか。
我々の遺伝子あるいは政治文化に、軍隊を民主的に運用する能力が何か欠けているのでしょうか。己の手足を縛るあまり、中国などに傍に人が無きが如く、漬け込まれる日本の姿は、実に情けないという思いでいっぱいであります。
そういう情けない思いを伝えて、私の意見表明といたします。

委員各位による発言


務台俊介(自由民主党・無所属の会)
発言の機会をありがとうございます。このところの憲法審査会の与野党のやりとりを聞いていて、他の委員会と異なる憲法審査会の特徴がにじみ出ている。玉木先生が先ほどおっしゃった通りの状況を感じます。政府を交えずに、国会議員同士がお互いの所見を述べ合い議論するという特徴は、国権の最高機関たる国会にふさわしい議論の場のように思われます。先週の北神委員による、防衛力に関する必要最小限の概念が生まれた経緯の説明は、非常に興味をそそられました。大島委員からは、党議拘束をかけるべきでないという議論も伺いまして、議論の多様性を感じさせていただきました。同じく先週の玉木委員の意見の中で、9条に係る憲法解釈の立法事実に関し、仮に共産党が自衛隊違憲論を引っ込めたら、憲法改正の立法事実がなくなるので、憲法改正に反対する共産党さんとしては、自衛隊合憲を認めればいいんじゃないかという、そういうお話がありまして、玉木委員の横に座っている共産党の赤嶺委員が、怒るのかと思って見てましたら、思わずのけぞって笑われていた姿が非常に印象的でした。
もちろんそのその後の発言で、赤嶺委員は共産党のスタンスは変わらないという意見陳述を続けられておりました。
この点に関して、私がかねてから抱いていた疑問を、この際改めて赤嶺委員にお伺いしたいと思います。
前にも少し言いかけましたが、赤嶺委員が離席されていたものですから、中途半端になってしまいました。
共産党の赤嶺委員の意見は、護憲の立場で一貫し、悲惨な歴史という背景があって護憲を主張されることにある意味で共感を覚えるところもあります。
その一方で、私の理解では、現憲法に対する対応を最も激しく変えたのは、ほかならぬ共産党であったのではないかという思いもあります。
現行憲法制定時に唯一政党として反対したのは共産党でした。
1946年8月24日の衆議院本会議で、野坂参三代議士は、「現在の日本にとって9条は一個の空文に過ぎない。わが国の自衛権を放棄して、民族の独立を危うくする危険がある。それ故、わが党は民族独立のために、この憲法に反対しなければならない」という演説をされました。私は地元で、時々憲法セミナーを開催するのですが、こうした話を地元の有権者の皆様にすると、ほとんどの皆さんがそのことを知りません。共産党は一貫した護憲政党だと思っていた、との反応がほとんどで、びっくりされます。
そこで憲法審査会委員の赤嶺委員に、自衛隊法規の条文の存在ゆえに現行憲法の制定時に反対した政党が、180度党の方針をひっくり返して、護憲の立場を取った経緯、これをぜひともうかがわせていただきたいと思います。
核武装を放棄し、大幅軍縮を実現したあげくロシアの侵略を招いたウクライナ戦争の始終を目の当たりにする中で、77年前の野坂参三代議士の指摘は、今日的観点から見て、実は慧眼のようにも思われます。
だからこそ、共産党の考え方の転換の背景を理解させていただく事は、今後の憲法審査会の噛み合った憲法議論の土台になると思います。
先ほど中川幹事がおっしゃるように、国民意識を喚起する観点からも、国民の注目を集める論点だというふうに私は思います。私も知り合いの歴史家にこの点について取材しました。そしたら、一昔前の共産党は、自衛のための軍隊を持つ事は国家にとって当然の権利だと考えていたけれども、東西冷戦の中で、米国が共産主義の脅威に対して、日本を極東における共産防波堤とすべく、自衛隊をその実力組織として位置づける中で、当時の共産党は、自衛隊の存在は日本における共産主義革命の支障となると考え、その存在を違憲無効と位置づけるに至った経緯がある、という説明を受けました。
それが果たして正しい理解なのか、それこそ当事者である共産党の見解をしっかり伺いたく存じます。安全保障面で国連が機能しないことが、白日のもとに晒された今日、ひょっとしたら共産党が再度180度解釈を翻し、自衛隊合憲論に移行することもなきにしもあらずかなと、玉木委員の話を聞いて思った次第でございます。
最後に、憲法改正に関しては、自民党のほかに日本維新の会、国民民主党、立憲民主党が憲法改正の提言等を表し各党は昨年の参議院選挙の際にも憲法改正に言及しています。
憲法のあり方に関して国民意識がここまで高まっている今だからこそ、国民の期待に応えるべく、昨年来の精力的な憲法議論を踏まえ、具体的な検討の段階に立ち至っていると考えます。ぜひとも次のステージに移行する調整を、各党間でお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

赤嶺政賢(日本共産党)
務台委員の質問ありがとうございます。ただ、間違った理解、誤った情報で日本共産党の見解をおっしゃっているなと思って、大変残念であります。私たちが今の憲法の採択にあたり、反対の立場を表明をいたしました。
私たちは戦後の日本の憲法の議論が起きたときに、日本共産党自身が国民主権や平和主義の憲法案を提案しております。現行憲法の9条のもとで、解釈を変えたのは当時の吉田茂内閣、今の自民党であります。
私たちは解釈は変えていません。それは、先ほど玉木先生から、当時の吉田首相は9条でさえ自衛権を認めていなかったとおっしゃっていましたよね?で、私たちは独立国家であれば自衛権は明記すべきだと、9条に自衛権はないとする政府の解釈は間違っているということで反対をしたのであります。
その後、自民党の方が180度立場を変えて、自衛権を9条で認めていると、しかしその上に常備軍を持つことさえ合憲にするというような立場になりましたので、私たちはもちろん常備軍を持ってやるというようなことには、戦力の不保持の立場から言ってもそれは反対であるという経過がありましたので、立場を大きく変えたのは、当時の政権と、皆さんの先輩方であるということを、よく先生の支持者の方々にも、自衛権を最初から主張してたのは日本共産党。そうそう、日本共産党が言う通りになったんですよ。自衛権がね。ただ皆さんは、「軍隊は保持しない」というような事まで踏みにじって、やってきていることに我々は「それは違う」と、憲法9条の大事さが、それを踏みにじるものだということであります。
国家間の対立よりも、やっぱり2つの戦争を経て再び戦争を起こさないとした国連憲章、こういうものについてしっかり国際社会が一致団結して守っていけるような、そういう社会を作りたいと思っております。なお、自衛隊が独立国家に必要な軍隊だというようにしておりますが、今の日本の国は、憲法の上に安保条約があり、国会の上に地位協定があるわけですよ。アメリカ言いなりのそういう体制、軍事の面でもそうであります。
こういう状態を置いてていいのかという事が、今日本の政治家には問われているということも申し上げておきたいと思います。以上です。

階猛(立憲民主党・無所属)
今日はここまで9名の方がご発言されましたけれども、我が党の中川筆頭幹事を除いては、すべて9条に関連する議論でございました。そもそも自由討議ですから、何を発言されるか自由なわけですけれども、何か示し合わせて各党で9条のお話をされてるような気もします。他方、わが党は、これまでの議論の経過を踏まえて、国民投票法の改正に関する議論、そして議員の任期延長に関する議論、これを建設的に行ってきたいと思います。
そこで私の方からは、私が3月2日の当審査会でご紹介した、立憲民主党の国民投票法改正案の背景にある、憲法上の論点について述べたいと思います。配布資料を適宜ご覧いただければと思います。
まず表題ですが、「情報化社会と人権保障分科会 中間報告案」となっておりますが、今では情報化社会というよりもネット社会、あるいはデジタル社会と言う表現の方が、ふさわしいかもしれません。このネット社会やデジタル社会によって、情報の発信・流通・入手は、飛躍的に容易かつ活発になったという事は否めない事実です。
他方で、情報の受け手に与えられている時間には限りがあるため、人々の関心を惹きつけるための刺激的なコンテンツが溢れる、いわゆるアテンションエコノミーが発達しました。
さらにGAFAなどのデジタルプラットフォーム等の情報の送り手が、膨大な個人データをAIなどを駆使して情報分析できるようになった結果、受け手の関心に合わせてコンテンツを配信するマイクロターゲティングが広がり、偏った意見・知識・情報のみに接触するようになるフィルターバブルやエコーチェンバーといった問題が生じています。
その結果、憲法19条の内心の自由が知らぬ間に犯されたり、選挙や国民投票など民主主義の根幹たる制度が影響を受けたり、個人の人格的自律が脅かされたり、ここには書いていませんけれども、外国勢力による主権侵害の恐れが高まるといった重大な憲法問題が生じています。
また誹謗中傷や、フェイクニュースの流通、本人の意思に反した個人情報の拡散など、いわば悪貨が良貨を駆逐する傾向が強まっています。表現の自由市場が想定した世界とは全く異なる状況となっています。こうした状況の下では、信頼できる公の情報を国民に提供するニーズが必然的に高まりますが、公文書管理制度や情報公開制度の不備もあり、行政情報の隠蔽・廃棄・改ざんという言語道断の事件も起きています。そこでこれらの問題を解決するため、私たちは3つの権利を保障するべきだと考えています。
資料をご覧になっていただきたいんですが、第一に「情報コントロール権」これは先ほど述べたデジタルプラットフォームによる行き過ぎた個人データの収集・分析・活用への規制根拠となりうるものです。ただし、適正なデータの利活用を妨げるものではありません。
第ニに「情報アクセス権」これは国家に必要な情報の開示を求める権利です。
知る権利や取材報道の自由、ひいては国民主権に由来し、これを発展させるものであります。
第三に「情報環境権」これは国民がフェイクニュース等への批判的能力を得られるよう、多様な情報に接することができる環境を作ることを国家に求める権利です。
これらの人権の中には、法律で一部補償されているものもあります。しかしより保障を充実強化するために、憲法上の権利として位置づけるかどうか、位置づける場合に解釈上の権利とするか、明文上の権利として位置づけるか、このことを考える必要があります。2週間前、私は衆議院を代表して自民党のお二人の代議士と共に、OECDグローバル議員ネットワーク会合に参加して参りました。
OECDにおいても、誤情報及び偽情報への対処や、外国の不当な影響および干渉に対する強靭化の強化が主要課題とされ、こうした問題の解決が、民主主義の強化にとって、極めて重要であるという認識が、参加者の間で共有されました。先ほど玉木先生がおっしゃった、生成AIの問題についても、議論してる議員がいました。
選挙困難事態という万一の場合に、国会機能を維持するという議論も今申し上げた民主主義の強化にとって必要なテーマだと思います。しかし本日私が取り上げたテーマに関わる問題について、国際社会の関心が大いに高まっていることを踏まえると、当審査会でも優先的にこれを議論すべきではないでしょうか。以上を申し上げまして、私の発言を終わります。



三木圭恵(日本維新の会)
森会長ありがとうございます。日本維新の会の三木圭恵です。発言の機会をいただきましてありがとうございます。
緊急事態条項うち、国会議員の任期延長について、国民民主党、有志の会との三党派で条文案を作成いたしました。現在、緊急事態時におけるその他の国会機能の維持、一般的な緊急事態宣言のあり方、憲法第53条の見直し、憲法裁判所の組織と権限等について、実務者間で話し合いを進めています。日本国憲法制定の過程で、日本側は緊急時には法律・予算に代わる閣令による対応が必要なこと、GHQが主張する英米法のエマージェンシーパワーのような、超憲法的な対応は、弊害が大きいことを主張しました。すなわち日本政府が作成したいわゆる3月2日案では、第76条に「衆議院の解散、その他の事由により、国会を召集すること能わざる場合において、公共の安全を保持するために、特に緊急の必要あるときは、内閣は事後において国会の協賛を得ることを条件として、法律又は予算に代わるべき閣令を制定することを得」となっていました。しかしGHQはこれを認めず、この条文は全文削除されてしまいました。1946年から77年を経た今、真剣にこの衆議院憲法審査会で、緊急事態条項について、議論ができることに改めて意義深いものを感じます。この憲法審査会で、緊急事態時の国会議員の任期延長に関しては、各党、各会派、意見を出し合い、すり合わせを行っていけば、近いうちに正案を得ることが可能ではないかと考えています。
そうしますと次に、緊急事態条項の中でも、意見が分かれるのは、緊急政令・緊急財政処分についてではないでしょうか。緊急政令については、各法律における個別の政令委任で対応可能だという主張と、我々のように憲法上、緊急政令の規定が必要だとする主張が大きく分かれています。実際に武力攻撃事態対処法、警察法、災害対策基本法、感染症予防法等それぞれの分野で、法改正あるいは新たに法律を制定して、対処してきた事は事実であります。
災害対策基本法は、伊勢湾台風を契機とした法制定から、阪神淡路大震災、東日本大震災、平成26年の豪雪、平成28年の熊本地震、令和元年東日本台風などを踏まえて、何度も何度も改正を重ねてきました。あらかじめどのような法律が必要なのかわかっていれば、それを全部作ってしまうこともできるでしょうが、実際には災害が起こり今回はこの法律が必要であった、この法律を改正しなければならなくなった、と言うことが大半であると見受けられます。準備しても準備しても、網から抜けてしまう事はあり得ると考えます。ですからやはり法制定や改正を行う国会が、機能しないような真に緊急な場合に、内閣が緊急政令を発する権限の根拠を憲法に設けることが必要になってくるのではと考えます。
次に、緊急財政処分についてです。日本国憲法で、予算については「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいてこれを行使しなければならない。国費を支出し又は国が債務を負担するには、国会の議決に基づくことを必要とする。内閣は毎会計年度の予算を作成し、国会に提出してその審議を受け議決を経なければならない」とされており、財政民主主義が徹底されていますが、国会が機能しないような緊急事態には、返ってこれが緊急対応の足かせとなってしまいます。予備費で対応できるとのご意見もあります。しかしコロナ禍における予備費の積み上がりは、予備費の本来の主旨を超えているとの指摘もあるところです。
年度途中で緊急事態が発生し、多額の支出が必要となり、国会で予算の議決が間に合わないような事態に備え、緊急財政処分の制度についても用意しておくべきと考えます。
今後も緊急事態条項について、ご意見が各党、各会派より出されると思いますが、より活発な議論をご期待申し上げて、私の意見陳述とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

國重徹(公明党)
公明党の國重徹です。昨年の常会以降、憲法審査会はほぼ毎週開催し、議論を重ねております。両筆頭をはじめ、幹事会メンバーのご努力に敬意を表します。
その上で、一委員として、私は今日申し上げたいことの骨子は、この審査会をより充実したものにするために、一定程度の計画を委員各位があらかじめ共有することが大切ではないかということであります。
この間の議論を振り返ってみますと、昨年の常会では、まず憲法56条1項の「出席の概念」に関する議論を行った上で、衆議院議長に対し、意見の体制について報告を行いました。この報告は全会派一致の意見ではありませんでしたけれども、憲法審査会における議論の1つの成果だと思います。とりわけテーマを決めて、「集中討議」「参考人質疑」「総括討議」と、計画的に議論したプロセスが審査会における議論の充実という観点から、大いに意義のあるものだったと考えております。その後、本日までの憲法審査会で、大きく取り上げられてきたのは、「緊急事態」と「国民投票」でした。そして最近は9条に関する発言が多くなっております。ただ正直に申し上げますと、これまで緊急事態について精力的に議論がなされ、議員任期の延長の必要性があることについては、5会派で共通理解が得られ、詰めるべき論点も集約されつつある中で、突然9条が議論の中心となったことに、やや唐突感を覚えたところであります。ここで誤解して頂きたくないのはですね、私は9条であれ、他のテーマであれ、憲法本体の議論に真摯に取り組んでいく事は重要なことだと考えております。審査会の運営にあたっては、臨機応変さも大切なことだと思っております。他方で、充実した議論のためには、委員それぞれの充実した準備も必要であります。9条の次は、何をテーマに議論するのか、どう議論を進めていくのか、審査会において議論するテーマ等を可能な限り、一定程度、計画的に示していただけるとより深い議論ができるのではないでしょうか。また、憲法本体の議論に、真摯に取り組んでいく一方で、手続法たる国民投票法の議論も必要です。まず国民投票法については、昨年4月に、自民・維新・公明・有志の共同提案により、投票環境整備に関する国民投票法改正案、いわゆる3項目案が提出され、趣旨説明を聴取したところです。しかしその後審査は進んでおりません。公職選挙法で、措置済みのものは国民投票法に反映させる必要性が明らかですので、この3項目案は速やかに整理させるべきであります。
国民投票法についてはもう一つ、放送CMやネット利用のあり方等に関する議論がなされております。これに関し、立憲民主党さんは、当審査会におけるご発言の中で、案をご説明されております。本日はその詳細に触れる事は控えますが、表現の自由や、国民投票運動の自由に対する、過度な規制になるのではないかと、懸念を覚えているところでありまして、放送CMなどの問題は、各会派間で、まだまだ意見の隔たりが大きいように思われます。しかしながらどこかで、落としどころを見つけていかなくてはなりません。そのための議論も深めていく必要があります。
この点を踏まえましても、先ほども申し上げました通り、審査会で議論するテーマについて、一定程度、このテーマ次はこのテーマといったような粗粗の計画を委員各位があらかじめ共有することが大切ではないかと考えております。このような計画を共有するにあたっては、例えば幹事会で整理して頂いた上で、審査会の場で各委員が意見を述べる機会を設けていただくというのも、一案ではないかと思います。審査会の運営が容易なものでないことを承知の上で、会長、両筆頭におかれましては、ご検討いただきますようお願い申し上げまして、私の発言といたします。

辻清人(自由民主党・無所属の会)
自由民主党の辻清人です。ご発言の機会ありがとうございます。國重委員のご発言に、私も賛成ですが、今日示し合わせたわけでは無いのかもしれません、9条について、多数意見が述べられておりますので、私も国際的な観点からちょっとこの9条について、主権を述べさせていただき、議論を深めたいと思います。
わが国の安全保障環境は激変しています。ウクライナ情勢を見るまでもなく、一国で危機に立ち向かう事は困難だと思います。だからこそ、各国との連携が欠かせません。その際には特に自由、民主主義、法の支配、人権といった普遍的な価値について、これを共有する同盟国と協力する形で、危機に立ち向かう姿勢が求められていると思います。例えばその典型が、安倍元総理が提唱して、今岸田総理によって展開されている「自由で開かれたインド太平洋」等の外交戦略だと思います。これらの普遍的な価値の前提となるのは何かというと、個人の価値観の多様性だと思います。個人の価値観の多様性を守るために、国家に課された最大の責務は何かというと、国民を守ることです。
日本国憲法では、前文13条と9条を合わせ読むことによって、解釈で国民を守るために許容される自衛の措置を導き出しています。では、その点、各国の憲法はどのように規定しているかと言うとですね、国民を守ると言う観点からはまず、軍隊の設置規定が思い浮かびますが、多くの国は、軍隊の設置自体の根拠規定は置いてません。
その理由は推測ですけど、20世紀初頭から中庸の戦争違法化の流れの中で、かつては国家が戦争に訴える権利を有していたとされること、そして国連憲章によって、戦争の完全違法化の後も、国家固有の権利として、自衛権を有することを背景に、その担い手の軍隊の保有は国家として当然であるとの認識があるのではないでしょうか。
ただし憲法に、軍隊の設置自体の根拠規定を有する国はあります。それがドイツです。ドイツはわが国と同じ敗戦国として、軍隊が完全に解体されました。その後、冷戦の激化に伴って西側諸国の最前線という地底学的な位置づけから、再軍備に至ります。その際憲法が改正され、軍隊の保有規定が置かれました。
翻って、わが国の憲法には国家の最重要責務たる国防の規定がありません。同じ敗戦国のドイツとは対照的です。
わが国も、本来なら昭和27年の主権回復時や、昭和29年の自衛隊発足時に、必要な規定を憲法に整備するべきだったと思います。そこで例えば自民党案では、わが国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つという国防規定と、その担い手の自衛隊を憲法に明記して、現行憲法制定以来の欠落部分を補って、憲法を頂点とする法体系を完成させることを提案しています。
また多くの国の憲法は、軍隊の保有を当然の前提としつつ、行政による統制である軍隊の最高指揮権の規定と、議会による統制である軍隊の組織編成に関する法定主義の規定を置いているようです。
この点例えばドイツでは、軍隊の指揮権が平時には防衛大臣に、戦時には首相にあることや、軍隊の定員数・組織は予算で明らかにすることなどを定めて、またフランスでは、大統領が軍隊の長であり、政府が軍事力を掌握することや、国防組織の基本原則は法律事項であることなどを定めています。
自民党案では主要国憲法との共通の事項として、国防規定を設けるとともに、シビリアンコントロールに関する規定も設けて、自衛隊について、これに関する事項が法律事項であることのほか、行政権の主体である内閣の指揮権下にあることや、国会による統制に服することの明確化も、提案しています。同僚議員が述べているように、憲法改正によって国の形を整えて、次世代に引き渡す事は、今を生きる私たちの責任であって、国民を守り抜くための国防規定を設ける視点が欠かせません。最後にこのことを指摘して、私の発言とします。ありがとうございます。

吉田はるみ(立憲民主党・無所属)
立憲民主党・無所属の会の吉田はるみです。憲法審査会の進め方に関して、今日はご提案を含め発言させていただきます。
憲法第9条が、3月30日、4月6日、4月13日、そして本日と、憲法審査会で議論されています。「専守防衛」「シビリアンコントロール」「自衛隊の明記」など、非常に重要な論点について、各会派の委員が意見を述べています。
しかし、平和国家のあり方に直結する重要な憲法9条が、憲法審査会で取り上げられていることを、一体どれだけの国民が知っているでしょうか。憲法9条は、イデオロギーを越えた問題です。
この憲法9条の議論が、国民不在でされていることに違和感を持ちます。やはりNHKのテレビ中継をし、広く国民にこの議論を開いていただくべきと考えます。
国会のテレビ中継に関して、G7各国の状況を調べてみました。日本の議会制度はイギリスをお手本にしていると言われていますが、そのイギリスでは、公共放送BBCパーラメントチャンネルがあり、常時放映し、国会の議論が編集されずに、中継されています。またアメリカ、ドイツ、カナダでもテレビ中継がされています。
昨年の5月26日の憲法審査会で、私が同じように憲法審査会のNHK中継を求めたところ、新藤筆頭は、NHKの中継云々は、これは報道機関の判断がございますので、こちらから求めるか否かということも含めて、また幹事間で相談していかなきゃいけないと思いますと、おっしゃってくださいました。また新藤筆頭は、我々が議論をして、それが議事録に残り、そして衆議院のホームページでもどんどんと送られているわけでありますので、いろんなご提案はきちんと受け止めたいと思いますと、おっしゃってくださいました。
しかし現実は、議事録やホームページをご覧いただいている国民は非常に少ないと思われます。仮に改憲発議となれば、現行憲法下ではじめての国民投票になります。
この憲法審査会をNHK中継する位の積極的な姿勢で国民に届けるべきと考えます。
この情報公開、国民的議論を喚起することに積極的でいらっしゃる馬場筆頭にはご賛同いただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?ありがとうございます。賛成をいただきました。NHK中継を改めてお願い致したく、ぜひ幹事各位でご検討ください。森会長よろしくお願いいたします。
さて、この憲法9条の議論の中で、「自衛隊」を明記することへの積極的な発言もありました。しかし「自衛隊」を明記する事は、国内だけの問題にとどまりません。国際的にどう受け止められるでしょうか。
2022年7月13日の産経新聞が、中国の受け止めをこのように報じています。「憲法9条への『自衛隊』明記を行えば、戦後の歴史は平和発展の道を否定する危険な信号を、隣国とアジアに発することになる」と。
外交上の問題は無いでしょうか。書かないこと、問題にしないこと、言わないこと、など絶妙なバランスの上に外交は成り立っていることが多々ございます。これは自民党の先生に教えていただきました。
4月6日の憲法審査会の船田委員のご発言です。
与党は度量をもっと持ち、そして野党はもっと良識を持つ。これはとても重要なご指摘だったと思います。
しかしながら、このところ憲法審査会で、私が感じるのは、自分たちの意見に沿わない発言を冷笑したり、馬鹿にする雰囲気を感じます。私がこの永田町の男性文化に慣れていないのかもしれません。もちろん、厳しいご意見やご指摘そして議論は大歓迎です。しかし互いを軽んじるようなやり方は、この国の最高法規である憲法を論じるこの憲法審査会にはふさわしくないと思います。
ここに集まった委員の方々は皆様、国民に負託を受けた国会議員です。与党であれ野党であれ、民意を背負っています。お互いを尊重し、傾聴する姿勢をご期待し、私の発言を終わります。

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