小説:歩きタマゴ⑤

 ――そういうわけで、母はエフの母を連れて世界一周旅行に行ってしまった。二人分の旅行費を家計から出すのは流石に厳しかったらしく、単身赴任の父に予算を打診したそうだが、そもそも度々世界旅行に出かけていたこと自体打ち明けていなかったようで、相当ブチギレられたみたいだ。特に、アパートのことはしこたま怒られていた。ちゃんとしたところに住まず、なぜ旅行などする余裕がある? ノマド気取りもいい加減にしろ! このセリフは電話口からも聞こえてきた。父の声を聞くのは何年振りだっただろう、彼はベンチャー企業の重役として、傾きかけた会社の経営を一身に担い、海外に飛び回っている。ぼくはそんな父を尊敬していた。責任の重い業務に関わり続けるなんて心労が絶えないに違いない。しかしそんな父にも理解不能な一面があった。
 それは彼が、母のことを大好きだと言うことだ。
「それでダーリン」母は言った。「どうしたら許してくれるのかしら」
「このノマドブスが! この後に及んでまだ許されると思ってんのか」
「それで、今どこにいるの」
「は? い、今はイスラエルだが……」
「うん、わかった」
 母は甘ったるい声で答えた。電話口で父は黙っている。
「……今回だけだぞ」
「分かった、じゃあ切るわね」
 スマートフォンを置いた母は、声を弾ませながらイスラエル直行便を予約した。そうして彼女とエフの母は、お互いの家を向こう三ヶ月空けることになった。子供が受験生だというのに。
「まあ、いない方が楽か」
 ぼくは、カブトムシの咀嚼音を聞こうと、母からお詫びにもらった百万円のスピーカーに電源をつけた。ユーチューブに保存したぼくだけのマイリスト。震える指で、カブトムシの顔マクロ接写されたサムネイルを押す。すると、高さ一メートルもある箱の中から、木の葉のざわめき一つ逃さない繊細な音の密集体が微かに聞こえてきた。ああ、このゴムとヨダレの中間音のような、耳をくすぐる音、ああ――カブトムシのあのふさふさの口に鼓膜を直接撫でられているよう――ああ、あ――

 母が出かけてから数日が経って、浄土教の念仏をバックグラウンドミュージックにキリスト教迫害の歴史を勉強しているとチャイムが鳴った。通話ボタンを押すと、画面にエフとミズキが現れた。
「きたよお!」ミズキが元気いっぱいに言った。「開けてよお!」
「あー、ちょっと待ってな」
 しかし、ぼくは慣れない操作に手こずる。一人になってから最初の訪問客だったからだ。
「クソ、どこのボタンだこれ……」
 すると、スピーカーから「フフ……」とエフの笑う声が聞こえてきた。
「プライド云々かんぬん言っていた男がこれじゃあねえ」
「ほら、開けたから早く来い」
 終了のボタンを押して画面を切った。ぼくは部屋の中を見回す。父から送られてきた家具は、日本の洋風家屋には全く似合わないエキゾチック趣味のものばかりだった。特にダイニングテーブルには我慢ならなかった。孔雀の羽のような色のテーブルで一体何を食べろというんだ?
 少し経ってまたチャイムが鳴った。ええいめんどうくさいな、マンションってのは! もう通したんだからスパッと入ってこいよ、スパッと! ぼくは玄関扉のチェーンを外し、鍵を回し、扉を開けた。その瞬間ぼくの脇の下をするりとくぐって、ミズキが部屋の中に入っていった。
「あ、こらミズキ、靴をちゃんと揃えなさい!」
 エフは言うと、お姉ちゃん揃えといてーとリビングから聞こえてきた。わーと妹が歓声を上げている中、エフは済ました顔でぼくを見ていた。
「無事に引っ越しできたみたいね」エフはフッと鼻で笑った。ぼくはミズキの靴を揃えるべく屈む。
 と、ぼくはエフが左右で違った色の靴を履いてきていたことに気がついた。
「おい……なんだこれ……」ぼくはエフを見上げて言った。
「なに? レディを見上げるなんて失礼じゃない?」
「いやレディ……揃ってないのは君もなんだけど……」
「あ……」
 ぼくは何も言わず扉を閉めた。
 ぼくらの間に、気まずい空気が流れた。
 靴脱ぎ場をつい振り返って見ようとすると、エフがぼくの肩を思い切り平手打ちした。
「いったいな!」
「み、見ないでよ」
 そう言ってエフはスタスタと先へ行ってしまう。ここはぼくの家なのに……。
 リビングではすでにミズキが寛いでいた。
「めぐみさんの家、すっごいですねえ。家具がなんか……アフリカって感じ?」
「お父さんが送ってよこしたんだ。海外からわざわざ注文して」
「へえ」エフがダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。エフはどうやらこちらでも椅子がお気に入りらしい。「お父さん、海外で仕事してんだっけ?」
「ああ、どうやら今、正念場らしい」
「へえ、なんの仕事なんですか?」と、ミズキ。
「人と人とを繋げる仕事――らしいけど」
「え?」
 エフが怪訝な目をこちらに向けた。
「それは、その、マッチングアプリとかそういう類の運営とかですか?」ミズキが興味津々に聞く。
「いや」ぼくは、父の言葉を思い出しながら答えた。「そういうのとも違うらしい。ほら、マッチングアプリってのは人を適当に出会わせてはい終わり、って感じだろ? けど、それとはちょっと違うんだよ、なんて言うのかな、正確に言えば人の持ってる信念同士を繋げるっていうか、もっと深いところの話なんだな」
「なんの話してんの?」
「つまりね」ぼくは父を憑依させて職を語った。「ぼくが言いたいことはこういうことなんです。人は、一人じゃ生きていけないんだってこと。普通の人間ははいはいそうですかってね、そんなこと言われなくても分かってますよ、みたいな、そういう感じで終わらせちゃうんですけども、ぼくは違ってですね、それを、商売にできるう思うたんですよね、そんならね、やっぱりうまくいくんですわ。するするうて商売がうまくいくんです。人と人を繋げるいうんは簡単に見えましても、奥が深いんですわ」
「え、なに?」
「ぼくらのビジネスは、よく人からどんな仕事なんだとか、そういう風なことをよく聞かれるんですけど、それはぼくらもよく分からないんですよね。だって人と人を繋げるとかいうのは、ほら、目に見えないでしょう? ぼくらもね、目の前のことに必死なんですね、これが、目の前の問題を解決解決解決うてやっていけば、人と人が繋がってるというわけですわ、仕事っていうのはやっぱりこういうことなんすねえ」
 言い終わると、二人は口を開けてぼくを見ていた。自分の部屋でつけっぱなしになっていたスピーカーから流れるお経が壁越しに聞こえてきていた。僧侶の、一文字の重い鎮魂を聞くと普段は心が洗われるようだが、このときばかりは焦燥感が急き立てられた。お父さん、やっぱりキモいんだなって思った。つい、勢いで初めて、外部の人間に自分の父の家業の話をしたが、ぼくが初めて聞いたときもドン引きしたのだ、身内以外の人間には流石に悲惨な内容にすぎる。
「し、新居はやっぱりいいですねえ」ミズキが気まずさに耐えかねたように言った。「ところで、私オススメのアニメがあるんですけど」
「それならぼくの部屋に、いいスピーカーを仕入れたから、それで見ないか?」
 と言うと、ミズキは喜んだ様子で立ち上がった。
「それで、結局なんの仕事なの?」
 エフの言葉に、せっかく和み出した空気にまた電撃が走る。ミズキはものすごい形相でエフを睨んだ。
「おねえちゃ――」
 ぼくはミズキの言葉を遮った。
「いや、いいんだ、ミズキ。俺も本当はちょっと変だと思っていたんだ。尊敬する父だけど、彼の言葉がちっとも頭に入ってこないんだよ。今日、他人に喋ってみて初めて分かった。やっぱお父さんの仕事は気が狂っているんだって」
「でも――」
「でもな」ぼくは続けた。「ぼくは彼のおかげでこんなにいい住居と、こんなにいいスピーカーに出会えたんだ。それだけでも幸せじゃないか。多分、そういうことをお父さんは言いたかったんだと思う。な、今日はぼくに免じて、父さんのギフトで、アニメを聞こうじゃないか」
「めぐみさんがいいなら……」
 ぼくはミズキを自分の部屋にうながした。ミズキは微妙な顔で部屋に入っていったが、パソコンの横に鎮座していたスピーカーを見て興奮し始めたので少しホッとした。リビングから「結局なんの仕事……」と呟くのが聞こえたが、ぼくは無視した。

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