小説:歩きタマゴ②

 冬休みが終わって、学校が始まってから最初の夜、ぼくはまたエフの家にいた。いつものように母に電話をかけると、たまにはエフも家へ呼べと怒られた。しかしそれは、ぼくにとっては何の意味もないことであった。そう、ぼくがこの家に赴くのでなければ――エフの美少女性を堪能することは叶わない。母には悪いが、今日もこの家でグラタンをご馳走になることをぼくは選択する。
「めぐみさん――いや、今からもうめぐみ先輩って呼んだ方がいいですかね?」
「合格者最低点を上回ったくらいで調子に乗るな」
 ぼくとエフの妹――ミズキは三階の部屋で勉強をしていた。エフの家族の中では、ぼくがミズキに受験勉強を教えるという名目になっていたが、ミズキは基本的に自分で目標を立て、勉強ができる子だったから、三つか四つ質問を受けるくらいで、あとは自習時間となっていた。ぼくはぼくで来年に迫り来る大学受験のために勉強しなくてはならなかったから、この時間はとてもありがたかった。ミズキは時々、高校範囲の学習に興味があったのか、ぼくのノートを盗み見ては、「早く高校の勉強がしたいなあ」などと呟いていた。そんな彼女の受験本番まですでに二ヶ月をきっていた。彼女はぼくとエフの学校を受けようとしていたのである。
「しかし」ぼくは呟いた。「よくあれだけアニメ見てて、これだけの点数が取れるようになったな」
「それ以外はちゃんと勉強してるから」
「マジかよ――でもまあ、確かにこれだけ点数が取れていればそうか」
「そうだよ、そうだよ! 私、めぐみさんと同じ学校通うの夢だったし! ……お姉ちゃんはどうでもいいけど」
「ふうん、でも俺、来年には卒業しちゃうぜ?」
「そのときはまた同じ大学を目指すだけだし!」めぐみは躊躇することなくそう言った。ぼくは屈託のないその笑顔に、なぜこの子はぼくのことをこんなに慕うのだろうかと疑念が湧いた。思えば、ミズキがぼくに懐き始めたのは、一年ほど前一緒にアニメを観ていたときに美少女フェチが暴露したときだった。ミズキは執拗に、その性癖について質問してきた。何で美少女が好きなのか、どのような美少女が好きなのか、そして美少女とは何か――初めは羞恥心からぎこちない返答しかできないぼくだったが、徐々にミズキが、単純なゴシップ的興味から質問していたのではなく、哲学的好奇心から未知の現象への邂逅に純粋に感動していたのだということを知り、ぼくは真面目に答えるようになったのだった。いまだに憶えているのは、あるときミズキが、
「美少女といつか結婚したいって思う?」
 と聞いてきたときだった。ぼくはそれまでひたすら盲目的に美少女を追ってきただけだったから、美少女とどうなりたいとかそういうことは考えたことがなかった。ぼくはそのとき、無念ながら答えることができなかった。するとミズキは笑って、
「付き合うのはいいとしても、結婚ってなると難しいよね」とだけ言って話題を逸らしたのだった。ついでに言えば、そのときに見ていたミートレスハンバーガーの大冒険というアニメの最終回はぼくらのお気に入りだ。11話でとうとうハンバーガー君が肉を得るのか――と引きで終わったのに対して、まさかの肉を得ずに敵を倒すという、王道を外れたとんでもないラストを迎えたことで、ぼくらの興奮は絶頂に達した。普通、そんなときに結婚の話なんか出すか? とも思わなくもないが、きっと肉なしで頑張るハンバーガー君を見て、彼女はなにかを感じたのだろう。
 ミズキはもう一年分の過去問も解き終わったらしく、採点をぼくに頼んできた。ぼくが受け取り赤ペンのキャップを取ると、彼女はぼくを見て、「高校生になったら大人の仲間入りできるかな?」とか言い出した。ぼくは「高校生だってまだ子供だ」と言い返した。すると彼女は「じゃあまだまだお預けだね」と意味慎重なことを呟いた。
 その年度分の過去問で、ミズキは過去最高点をとった。

 空虚な学年末試験が終わった。もう、三月になる。ミズキの合格発表が明日に控えてはいるが、本人は合格の自信があるらしく、直前の過去問演習においても文句なく高得点を取っていたので心配していない。それどころか、こんな学校よりももっといいところが狙えたんじゃないかとさえ感じる。もっとも、それを提案したとき、ミズキはいつになく不機嫌になって、ぼくは一週間語尾に、ミートレスハンバーガーくんに準えて「べゅ」をつけて過ごす刑に処された。多分ミズキはぼくのことが好きなんだと思う。それどころか、年齢に似合わず愛してさえいる気がする。ぼくも恐らく、この子が好きだと思う。しかし、ミズキはエフに似ず、美少女ではない。ぼくは美少女でない女の扱い方がわからない。正直持て余しているとは思う。ぼくはぼくなりにものを考え、必死に生きているつもりだが、世の中に分からないことがたくさんある。だからぼくはこれ以上の提案はしなかった。彼女がぼくの後輩になり、高校生活にまた違った彩りが加わる。歩きタマゴに準ずる何かが生まれたって構わない。
「ねえ」
 後ろからエフが話しかけてきて、ぼくは思わず震えてしまった。こいつはいつも後ろから話しかけてくる、本当にやめて欲しいと思う、思うが多分それこそが美少女の要件なんだろう、ぼくは振り返って、
「なんか用?」と聞いた。
「用ってほどでもないんだけどさ」エフは淡々と続ける。「これから受験勉強をしなきゃいけないんだなって思うと気が滅入っちゃって、実際どんな勉強をすればいいかもわかんないし、過去問とか解いてみたんだけれどさ、何がわかんないのかも分かんないわけ、何がわかればこの問題が解けるのかとかさ、それが分かるにはどんな勉強が必要なのかとか、なんか分かりやすい目標とかがあればいいんだけど、実際なくない? なんか全ての参考書が嘘に見える、全ての塾が嘘の提案をしてくるし、そもそも大学が出題する問題だって全て本当は嘘なんじゃないかってなんかそんな感じがしてさ、全部嘘だって思うと途端に虚しくなっちゃって、私たちは実際これから何をしなくちゃいけないわけ? なんで大学で研究するために、全く関係のない教科を勉強しなくちゃならないのかな」
「真っ当な疑問だな……」ぼくはそう答えるより仕方がなかった。
「なんかガキだよね」エフは言ってのけた。「おもしろ半分で作られた問題に正解できたかどうかで一喜一憂しちゃってさ。何が楽しいんだろう? 古事記や日本書紀が、どっちが先にできたかどうかなんてどうでもいいじゃん、それが分かって何が楽しいのかな」
「え、実際どっちが早いの?」
 聞くと、エフは少し面食らった顔をして、
「……分かんない」
「今のが即答できたら」ぼくはエフから顔を逸らす。「かっこよかったと思うな」
 エフは何も言わず、ぼくの前から去っていった。後ろ姿を見ながら、ぼくは小さくガッツポーズをした。
 美少女はやっぱこうでなくっちゃいけない。

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