小説:歩きタマゴ⑦

 カレーとは不思議な食べ物だ。野菜を切ったり、それを湯に入れて煮たりしていたらいつの間にかサマになっている食べ物である。ぼくはこの、煮るという作業が好きだ。焼いたり炒めたりしたときはなんとなく野菜を傷つけ、変形し、加工している感覚があるのだが、煮るは違う。どこかの哲学者の言ったことの受け売りだが、煮ると言うのは食材をよく腐らせることであり、良き水を野菜に透し、深奥に隠された本質的な部分を滲ませる。具のゴテゴテとしたカレーは特に美味だ、実際なんの味なんだか、よく分からなくなる、なのに美味しい、それにこうやって弱火でぐつぐつとレードルを回しているときは、いやに考え事が頭に浮かぶ。
 リビングから家族の笑い声が聞こえた。ミズキや、先ほど帰宅していたエフの父の声も混ざって聞こえる。ぼくがいないときのエフの家族の様子を知るのはもしかしたら初めてかもしれない。奥まった場所にあるこのキッチンは、家族の喧騒から一時的に隔離された気分になる。ぼくは自分の父のことを思い出していた。父は、仕事のときを除けば普通の父だった――と思う。家族思いで、休日はいつもぼくを遊びに連れていってくれた。しかし、今思えば「つなぐ」ということに若干のこだわりを、すでにぼくに見せていただけなのかもしれない。よく考えてみると、普通の父って一体なんだろうか。目の前で混ぜられていくこのカレーを、ぼくは普通に作っているつもりだが……しかし、どこか普通じゃないかもしれないと聞かれたら多分答えられないに違いない。父も、このカレーみたいに体の中は臓器が水で煮られているのかもしれない。ぐずぐずに腐ったタンパク質の塊が空を飛び回って人間を接着する光景が描き出される。今、あいつらはどこにいるのだろうか。父は、長期の単身赴任になってから、ぼくに一度も連絡をよこさなかった。
「ねえ」
「ぎゃあ!」
 急に後ろから声をかけられて、ぼくはレードルを落としてしまった。カレーの中にすっぽりと入ってしまい、火を止めて、菜箸でそれを取り除かねばならなかった。
「な、なんだよ」ぼくはカレー漬けのレードルをシンクで洗いながらエフに言った。
「結局さ――」
「分かった、分かったってば。父の仕事内容だろ? 知らないんだよ俺だって!」
 ぼくはついイライラして声を荒げてしまう。しかし彼女は平然とした声で、
「違う違う、私ね、自分なりに考察してみたんだけど」
「は?」
 レードルを洗っていた手を止め、ぼくは彼女を見た。彼女はいつになく真剣な表情をしていた。レードルを濯ぎ終わったところで、また鍋を火にかけなければならない。ぼくは再び静かにカレーをかき混ぜ始めた。
「多分ね」彼女はぼくの後ろで喋り始めた。「めぐみのお父さんは、なんかのボランティアをやっているのよ」
「なに、ボランティアだって?」僕はまた彼女の顔をちらと見た。彼女は、なにかしたり顔をしていた。
「人と人とをつなぐ職業なんて、ボランティアしかないじゃん」
 ぼくは彼女の言葉を遮って、
「そんなわけないだろ、ぼくは半分はお父さんのお金で暮らしているんだ」と反論した。
「そんなわけないってどういうこと?」
「どういうことって――え?」
「だから、ボランティアでお金を稼いでるんじゃないの?」エフは真顔で言った。なるほど、そういうことか。
 以前エフはぼくに、「ボランティアに就職してもいいなあ」とかなんとか言ったことがある。そのときはよく意味が分からなかったが、これで合点が言った。
 ぼくはまた振り返って、
「ボランティアは職業じゃないよ」と忠告した。するとエフが首を傾げながら、
「でも、知り合いがボランティアで稼いでるって――」
「おいやめろ」
 ぼくは慌ててエフの言葉を止めた。その話題はあまりにセンシティヴが過ぎる気がする。ぼくはすかさず言葉を続ける。
「ボランティアというのは、見返りに給金を求めないからボランティアって言うんだ。ほら、自発的なって訳があてられてるだろ?」
「そんな、じゃあ他人を紹介するだけで稼げる商売なんてないってこと?」
「ない」
「そうだったのか……」
 エフは明らかにがっかりした声を出していた。ぼくはまた、いつの間にか止まっていた手を動かし、カレーをかき混ぜる。――ちょっとそこが焦げついた気がする。
「どうりで、ボランティアに強い大学を調べても見つからないわけだ……」
 どっから突っ込めばいいか分からないので放置していると、エフはいつの間にかキッチンから消えていた。ぼくは、エフのしょげた顔を想像しながら、とあるイタズラを思いついていた。
 落ち込んだエフに、ゆで卵を食べさせたらどうだろう。
 そう考えるや否や、ぼくは一旦鍋の火を止め、もう一方のコンロでお湯を沸かし始める。その企みに胸を躍らせながら、ぷつぷつと浮いてくる泡をゆっくりと眺め始めたのだった。

 リビングに入ると、家族が各々自分の好きなことをして楽しんでいた。ミズキは大画面でアニメを視聴していて、エフは美少女らしくスマートフォンにひたすら話しかけていた。一方エフの父は、エフの「いつも生活を支えてくれてありがとう」という言葉を後ろからこっそり録音し、ノートパソコンに取り込んでアプリ化していた。「これでいつでも再生することができる」と満足げに頷いていたところで、ぼくは彼に話しかけた。
「カレー、できましたよ」
「ほんとか!?」エフの父は目を輝かせ、「あ、そうそう、これを聞いてくれ」と言ってアプリを再生した。ぼくは、メッセージの内容に返答すればいいのか、それともエフの声に言及すればいいのか、アプリの出来具合を褒めればいいのか、即座に判断することができず、「すごいですね」という他なかった。この世代の男性のボケってそういうとこあるよな、なんてことをぼくは父の顔を思い浮かべなから考えていた。
「めぐみさんのカレー、とても楽しみです」ミズキがパッと顔を上げながら言った。この家族の中で、会話できるのは実際この子だけだと思った。エフはダイニングテーブルに座って、足をバタバタさせていた。その横で、ミズキが「何か手伝うことはありますか」と聞いてきた。
「じゃあぼくがカレーをよそうから、ミズキにはご飯を盛ってもらおうかな」
「盛り付け方にこだわりあります?」
「じゃあ、片側に寄せて」
 レードルで装い始めると、案の定底の方が少し固まっていた。全くエフのせいだ、焦げた塊でも入れてやろうか、なんてことを考えたが、罪悪感に駆られてやめた。その代わりに、ぼくはぼくの目の前でゆで卵を食べさせてやるのだと思った。ミズキの盛ってくれたご飯の横にカレーを流し込み、ダイニングキッチンに4皿並べた。それからエフの前に一つ、剥いたゆで卵をおいてやった。
「なにこれ」エフがすかさず言う。ぼくは、
「ゆで卵だ。サービスだよ」と答えた。
「誰へのサービスなんだか……」不服ながらも、エフはゆで卵をひょいと持ち上げ、つるりとした白い表面に噛み付いた。
 ぼくは、歯形のついたゆで卵を恍惚として見ていたのだった。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?