長編小説:歩きタマゴ⑩

 塾の近くのマクドナルドで、ぼくとエリは参考書を広げ合っていた。エリはプレミアムコーヒーをひとつだけ買って、勉強モードへと完全に移行していた。学校帰りの勉強というシチュエーションに慣れないぼくは、がっつりセットメニューを購入してしまう。手渡されたお盆が、二人用の小さなテーブルのおよそ半分ほどを占めてしまっていた。
「でもさあ」コーヒーの飲み口をふうと口で冷ましながら、エリは言った。「勉強を教えるって言っても、私たちの通う塾は個別指導なんだから、もうできないならできないなりになんもかんもわかりませえんって感じで講師に投げ出しちゃえばいいんだよ。きっと親身になってくれるはずだから。何を勉強すればいいかとかもちゃんと考えてくれるし」
 いい講師がついてくれればだけど――とエリは付け足す。
「めぐみってさ、大学でどんなことをやりたいとか決まってんの?」
「それ、塾の人にも聞かれたな……」
「そりゃあそうだよ。だって、それがなきゃ受験する意味なんてないじゃん」
 エリにそう言われて、ぼくは彼女の顔を見た。多分、呆けた顔でもしていたのではないか。受験に意味があるとかないとか。そんなこと、考えたこともなかった。
「え、ほんとに何もないの?」
「ないな……穏便に済めば、どこでもいいっていうか……」
「なるほど」
 そう言って、エリは開いていた教科書とノートを全て閉じた。「確かに、これは塾に行く前に集まっておいてよかったかもしれない」と、コーヒーを一口飲み、カバンから別の雑記帳を取り出して開いた。「とりあえず、受験っていう活動において自分が何を望んでるのか、そこらへんからはっきりさせておかない?」
「それって必要なの?」
「必要に決まってるじゃん!」エリは大声で言ってから、周囲の目線に気づき、照れ笑いした。「だって、これから塾に通うんだよ? せっかく受験をサポートしてもらうのに、なんにも決まってないんじゃあ先生も困っちゃうよ」
「学校の先生と全然違うんだな」
「そりゃあね。学校は将来のことを何も考えてませんって子も教え導く必要がある。主体性を持たせるのだって教育の一部だから。でも塾は違う。塾は受験専門なの。塾は、生徒の持っている夢を叶えるお手伝いをしてもらう場所なんだよ。だから厳密には教育とは違う。むしろサービス業に近いんじゃないかな」
 エリは見取り図を雑記帳に書きながら、丁寧に教えてくれた。なんだかしっかりしていると僕は思った。同級生と、こんなに真面目な話は今までしたことがなかった。エリは本当にまともな人間だ。
 ヒットアンドアウェイ戦法などと考えていた自分を恥じた。僕は恐らく、エリに対していかなる戦法で立ち向かおうとも、必ず返り討ちに遭うだろう。彼女はあまりにもちゃんとしている。ぼくやエフなんか比較にならないほどに。もしかしたら平均的な高校三年生はみんなこうなのかもしれないな。目標に向かって行動し、卒業に備える。それは、ぼくらの年代においては普通のことだったのかもしれない。ぼくには、準拠できる同級生が今までエフしかいなかったから気が付かなかったのだろう。はっきり言ってエフはバカだから。自分よりも遥か下方を低空飛行している。エフはマジでバカだ。茹で卵を食べることくらいしか取り柄がないアホだ。この世のどんな社会システムにおいても村八分を喰らってしかるべきバカだ。そのそばにい続けたぼくまでバカになるのは当たり前の話だ。
「エリっていつもこんなこと考えて生きてんのか」ぼくは訊いた。
「いつもって訳じゃないけど、でも、そうだね。この高校にしか入れなかったときから、私、大学はもっと上を目指そうって考えてたの。がむしゃらに上を目指して……それで頑張って学年でトップを走り続けた。二年間、本当に頑張ったよ。だから私にとって高三の今はむしろ、折り返し地点っていうか。後十ヶ月で終わりなんだなあって思うと、本当に嬉しい」
 エリは深く深呼吸をした。ぼくはようやくハンバーガーを食べ終わったところだった。お盆を片付け、またテーブルに戻るとエリは勉強を始めていた。「かといってもっと努力しなきゃいけないけど」とエリは言った。
「エリ先生に見習わないとな」
 ぼくの冗談に、エリは「やめてよお」と照れ笑いした。その瞬間、ぼくは目頭のあたりがこそばゆい気分になった。なんとなくエリが、好ましく思えたのだった。
「エリ――」
「それはそうと」エリは思い出したかのように言った。「一年生の主席の、ミズキちゃん――だっけ? 勉強教えてたって言ってたけど、知り合いなの? 確か、お姉ちゃんが私たちの同級生なんだよね、名前は確か――」
「エフ」
「え?」エリはきょとんとした顔でこちらを見た。「それ本名なの?」
「いや、ミドルネームだ」ぼくは嘘をついた。「だからエフと呼んでいる」
「ハーフとかクォーターなのかな? 確かにあの子、すんごく美人さんだもんねえ」
「美少女」ぼくは言った。
「え、なんだって? 美少女?」
「ああ、彼女は美少女なんだ。決して美人ではない」
 エリはもっと詳しく聞きたがっていたが、ぼくは慌てて話を変えた。
「それでミズキがどうかしたのか」
「あ、そうそう! その、お願いなんだけど、私も良ければ、ミズキちゃんとお近づきになれたらなあって思って。なんか、見るからに頭良さそうって言うか、勉強の話とかできたらなあって思ってるんだけど……どうかな?」
 照れながらも、エリはまっすぐ僕に期待の目を向けていた。本当に真面目な子だと思った。――なんとかして力になりたい。
「アニメ好きだけど、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫! 最近は勉強になるアニメもたくさんあるから!」
 何が大丈夫なのだろうと思わなくもなかったが、裏表もない彼女の屈託のない笑顔に、ぼくは二つ返事で了承した。

 塾での初の授業が終わって帰り道、エリはぼくの家に泊まるため、離れたところで彼女の母に電話をかけていた。田舎の千葉県といってもここら辺は少し東京寄りで、夜なのに店の電気やら電灯やらでとても明るい。街路樹が点々と植っていて、緑も多いが、春先なのに虫一匹も居ないのが少し不気味なくらいだ。ぼくは、こういう若干都会の田舎を「とかいなか」と言って軽蔑している。せめてどちらかならいいのに、中途半端なのが一番嫌だ。
 しかし、授業は予想以上に大変だった。女の講師だったが、エリ以上に色々と聞いてくる。やりたいことはあるかだの、参考書は何使っているかだの、興味のある学部だの何だの、知る訳ないじゃないか。大体、塾に通ってわかったけれど、ぼくは受験について何も分かっていない。というか、なんか分かろうという気もだんだん失せてきた。何でもいいから誰か代わりに全部決めてくれ。適当なところに入学してあげるから……
「でさあ――」
「うわあ!」
 エリに横から突然声をかけられ、ぼくは反射的にのけぞった。カッカッカ――とエリは悪役のように笑う。
「そんなに驚かないでよ。――で、初めての授業はどうだったの?」
「疲れた、マジ無理」
「ははは、ま、すぐ慣れてくるでしょ。ほら、あの講師さん、美人だったじゃん」
「お前、女なら誰でも美人って言うんだな……」
「そんなことないよ」エリは笑いながら否定した。「私はブスだし」
「それこそ、そんなことないだろ……ああ、もうすぐ家に着くよ」
 そう言うと、エリは楽しみだなあと辺りをキョロキョロし始めた。ミズキは今、家でのんびりくつろいでいるらしい。果たして、エリとミズキは性格が合うのだろうか。ぼくはそればかりが心配でならなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?