「エスカレーター」

 ごはんを一緒に食べたあとに、なんか、一緒に帰ろう的なことを言われたんだけれど、振り切って帰ることにしたの。どうせまた家に呼んで、なんやらかんやらやりたいんだよ、でも、あたしだって疲れてるんだから、彼の家暖房なくって寒いし、はあ、どうにも、彼氏の面倒を見るのは疲れる。でも別れたくないんだよね、これ以上付き合いたくないって気持ちもあるけど、度合い的に別れたくない気持ちの方が強い。多分、3くらいは強い、今は辛抱しなくちゃ、どうせ結婚なんか向こうも考えてないでしょ、うちのこと、とりあえずダッチワイフくらいにしか考えてなさそう、なんかだって頭悪いもんなんか。教養がないっていうのかな、いわゆるヘンサチってのは高いらしいんだけど、受験とか経験したことないあたしにはあんまり関係ないし、とにかく喋ってて、あたしの気持ちにまで頭が回ってないっていうか、自分のことで精一杯なんだなあって思う。それにしても、今日のごはん、なににしよう。大変な思いをして、ようやくつかみ取ったひとりごはんなんだから、ちょっと手のこんだ料理を作ってもいいかも。じゃあ、カレーとかにしちゃう? ナスとかにんじんとか、わたしの好きな物たくさん入れて、わたしだけのカレーを作る。うん、そうしよ、なんて考えていると、いつのまに有楽町についていた。相変わらず、人がたくさんいるなあ――って、あたしもその一人か。でも、うちみたいに彼氏の誘いを断ってここにいる人なんていないんだろうなあって思う、だってデートって普通これからでしょ? ファミリーマートのちょっとした空間に、アタマに大きなリボンをのっけた女の子が三人くらい、スマートフォンを無心に見つめながら誰かを待っている。わたしも本来なら、あっちがわの人間だったはずなのに、どうしてこうなった。一方で、警察署の前ではのんだくれがビール缶をビニールに入れて彷徨っていた。きっと、飲み場を探しているんだろう。もしかしたらこっち側だったのかもしれないと、わたしは思い直した。どっちがわだっていいよね、とりあえず帰ろう。帰ってカレーを作ろう。
 人が様々な方向を目指して拡散していた駅前の広場とうって変わって、有楽町駅の構内に入ると、人間の波はなんとなく統一感を持ち始める。私は、その波に流されるように従って、定期券を取り出し、改札を通った。波の先に現れるのはエスカレーター――と階段。私は、エスカレーターに形作られた人波を掻き分けて脱出し、真上に伸びる階段を見つめたのだった。
 健康習慣でメタボ脱出――かあ。
 私はいつしか、この言葉に惹かれて階段を昇るようにしたのだった。この習慣を始めてから、エスカレーターしかない場所でも、それに乗るとなんだか身体がむずむずしてきて、上の階へ昇るエネルギーをなんとしてでもカロリーに変えたい、そういう気持ちが自然と湧くようになっていた。事実、階段に昇っている最中は幸福そのものだった。一歩一歩踏みしめるたびに、私の下半身に力が入って、盛り上がる太ももをさすりながら、一心不乱に昇りきる。昇った後で、エスカレーターを退屈そうに乗っている人間の顔を振り返りながら、あたしはあんたたちなんかより、健康なんだからね、このメタボども!
 ――なんて叫んでいた。
 けど、どうかしてる。こんなことが、本当に健康だっていうの? 健康な習慣っていうのは、なんていうか、そうやって悪口を言うこととは違うんじゃないの? ――痛っ!
「何をぼさっと突っ立ってんだ!」
 私は声をした方を振り向いて、叫んだと思われる男を見つけた。しかし男は既に階段を昇っていて、私のことなどもう気にも留めていなかった。あれが、健康な人間の姿なの? 健康っていったい――
 私は頭に、別れ際の彼の顔を思い浮かべた。
 気がつけば、私はエスカレーターの列に並び直していた。どうやら今、私の後ろにいるサラリーマン風の男性が、列の中にいれてくれたらしい。優しいなあ――私は、ゆっくりと進む列の中で、そう思った。優しいなあ、優しい人もいるもんだなあ。温かいなあ。うちは、だめだなあ。
 それから、私はエスカレーターに足を乗せた。エスカレーターは優しく、私の足を受け入れてくれた。歩く速度よりも少しだけゆっくりと動いてくれる彼に、私はじんわりと温かいものを胸に感じた。そうして、全身を彼に預ける。彼は、ゆっくりと上に昇ってくれる。心底気持ちがいい、と思った。隣で、階段を一生懸命昇っている女性を見た。彼女は今、健康を感じているに違いないと思った。しかしそんなことは、今の私には関係がなかった。足から伝わる細かな振動に、私は全身を集中させた。
 立ちどころに、私は自らのセックスを初めて認識した。
 乗り終わって、プラットフォームに辿り着くと、私は自らの足にいくばくかの物足りなさを感じていた。同時に、この気持ちを正しく言い当てられない自分の教養の低さを恥じていた。初めて、大学に行けばよかったと後悔した。たくさん勉強して、色々なものを吸収して、言葉の豊かな生活に、身を置いてみたかった。そう思うと、私の頬から一筋の生暖かいしずくが流れ落ちた。ねえあたし、今から大学受験頑張ってみてもいいかな、気づくと私は彼にそうラインしていた。これからどうしよう――吹き付ける初冬の風に、私はそっと息を吐いたのだった。

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