長編小説;トパーズ色の海で ②

「夏衛、珍しいじゃないか」
 文芸部の扉を開くと、むわりと籠った本の匂いの中で、三人がテーブルを囲んで小説を書いていた。話しかけてきたのは部長の北川先輩。このクソみたいな馴れ合い部活の中でも、まあ少し書けなくもない人だ。他二人は――モブだな。
「本当は来たくなかったんだが、春美のやつが来いって」
「お前、あいつのこと好きだもんな」
「は? てめえ、喧嘩売ってんのか? ぶっ殺すぞ」
「まあまあ――」
 後ろで声がしたので振り返ると、春美が照れたフリをしながら入ってきた。
「そんな、私のために喧嘩しないで」
 ぼくはムカついて、頬に平手を決めようとした。
 しかし、すんでのところで止められてしまった。
「ちっ――」
「それで」春美は何もなかったかのように、空いている席に座り、パソコンを開いた。「先輩、今度の文学フリマに参加しませんか?」
「え?」北川先輩の反応につられて、モブ二人も顔を上げる。「文学フリマって、あの文フリ?」
「そうです、そうです。実は先日、大阪の文フリに行ってきたんですよ。そしたら、楽しかったのなんのって。ほら」
 そういって春美は、バッグから大きさのバラバラな冊子をテーブルに積み上げた。恐らく、十冊は超えているだろう。
「これ、戦利品です。ほらほら、とっても可愛い本ばっかりでしょう?」
 バカバカしい――とぼくは心の中で思った。どれもこれも、妙に装丁が凝り過ぎている。表紙がピカピカ無駄に光っていたり、紙の色が読みにくそうな色になっていたり、しおり紐――スピンに謎に文字が入っていたり――
 装丁が凝っている本ほど、中身がショボい。経験からして間違いない。
 小説家は黙って、無地の本を出版しておけば良いんだ。昨今流行っているキャラクターが描かれた表紙などもってのほかだ。読む前から、キャラのアウトフィットが決定されてしまうなんて、小説の醍醐味がなくなるだろう。第一、お前らはどうして小説を読むんだ? 可視化され得ない美しさがそこにあると思うから、文字の芸術に飛び込むのではないか。
 こんなものを買ってくるなんて、春美のやつも腐っちまったな。これだから文芸部ってのは、小説を書くものにとって足枷に過ぎないんだ。
「すごいですよね、本の一冊一冊に、魂が籠っているっていうか。それが、何ブースにも渡って売られているんですよ。私、感激しちゃいました。本当だったら全部欲しかったですもん。お金がなくって、これだけしか買えませんでしたが――」
「俺も昔行ったから、気持ち分かるよ」北川先輩が、青い本を一冊手に取って言った。「小さい頃だったから、まだ小説が何なのかも分かってなかった頃なんだけどさ。ちょうどこんな感じの、キラキラと光った本だったから、宝石みたいだなって手に取ったら、その本を売ってた人が、すごく嬉しそうな顔で『ありがとうございます』って。チビにだよ。本当に嬉しかったんだろうね」
「へえ、そうだったんですか! 今もその本、あります?」
「ああ。汚れるといけないから、ここには持ってきてないけど。――今度、持ってこうか?」
「ぜひ見せていただきたいです!」
 モブ二人も加わって、文芸部がわいわいし始めた。ぼくは、この空気が苦手だった。居心地が悪い。話す暇があったら、小説を書けよと思う。そんなに話題があるんだったら、たくさん書けるじゃないか。なあ、だろ?
 小説家は寡黙であるべきだ。多弁であってはあらない。言いたいことは全て、指先にこめる。それが、ぼくがかっこいいと思う作家だ。
 ぼくは、部室を出ることにした。
 しかし、骨ばった指先がぼくの肩を摑んだ。
「ちょちょっと、どこ行くの、夏衛?」
 ぼくは反射的に、春美の横腹に蹴りを入れようとした。が、彼女の右手の裏拳がそれを阻止する。
「用事が終わったから、帰るんだ」
「いやいや、終わってないけど。一緒に、小説のテーマ決めなきゃ」
「小説のテーマ? なんの?」
「だから、文フリに出す本に書く小説のよ」
「は?」ぼくは、これ以上話しても無駄だと思い、彼女の手を振り切り、部室から走って逃げた。「夏衛!」と彼女の叫ぶ声が聞こえたが、ここで立ち止まっては必ず捕まると思い、振り返らずに突っ走った。通学路の途中の踏み切りで立ち止まってようやく、自分が何も履かずに来てしまったことを自覚した。足の裏が痛い。だが、これ以上春美に振り回されるのは嫌だった。
「――小説を書かなきゃ」

 次の日、ぼくは社会科準備室に用事があって、学校に早く着いた。明日から始まる定期テストの範囲について、質問があったからだ。通常は、定期テスト一週間前は公平性を保つために職員室等、講師のいる部屋に立ち入ることは禁止となっていたが、夏休みが明けてすぐの中間試験では、特例的に許可されていた。ぼくは、平生から成績はきちんととりたいと考えていた。学校の勉強はできなかったけれど小説の才能はありました――なんてダサすぎる。小説界の未来を考えれば、真面目なやつが小説を書いた方がいい。そうだろう? 物書きがみんなバカだと思われたら、そのジャンルは腐る。
 特に、春美みたいなやつなんかに――
「あ、夏衛!」
 嫌な予感がしたと思ったんだ。ぼくは、彼女の顔に右フックをしかけた。
「おいおい、夏衛。私の前で暴力はやめろ」
 鋭い声で言われて、ぼくは慌てて止まった。春美が舌を出して、ぼくを挑発している。ちきしょう、なんだってこんなやつがこんなところに。
「少しは、歴史に学べ、夏衛」と、社会科教師――若山牧子は言った。若山先生は、今年新卒でこの学校に赴任してきた若手の女教師だった。ショートカットにまとまったクールなヘアスタイルと、パンツスーツのよく似合うスラリとした背格好は、この学校の男子のハートを次々と射抜いた。しかし、そんな彼女は大の歴史オタクである。男勝りの性格も災いしてか、学校では常に一人で過ごしていた。
 ぼくは、そんな彼女の唯我独尊的なライフスタイルをとても気に入っていた。高校に入学して、社会科の教科書を熟読するようになったのだが、それは彼女に質問をするという口実を作りたかったからだ。未知のことを発見するたびに、ぼくの胸は躍った。今日も彼女の歴史の講釈が聞ける――今日も、そういう思いでいっぱいだった。
 ――はずだったんだが。
「歴史はいいぞ。動物の中で人間という種族が際立っている点を挙げるとすれば、それは歴史の参照だ。人間は、歴史を自ら構築し、参照しては反省する。乱数に支配された盤上において、圧倒的な効率性を求められるのは人間だけだ。人間は存在の進化を遥かに凌駕し、文明を発展させてきた。発展とは歴史の産物である。歴史に従事するということは、人間の発展に寄与することに他ならない」
 いつもは楽しい気持ちできける若山先生の講釈も、春美の前だと気分が落ち込んでしまう。彼女はいつも、ぼくの邪魔をするんだ。ぼくは震える拳を握った。
「赤点、どうにか回避できませんかあ」春美が先生に泣きついている。「赤点が回避できれば、歴史なんてどーでもいいんですけどお」
「佐藤、逆だ。歴史を参照しないから、赤点が回避できないのだ。ほら、これをやるから」
 そう言って、若山先生は春美にプリントの束を渡した。後ろから覗き込むと、ぼくは衝撃を受けた。それは、全教科の中間テストの過去問題だったのだ。
「ちょっと、先生いいんですか?」ぼくは思わず言った。「これ渡してるなんてバレたら、懲戒免職ものですよ」
「大義の前には、私の懲戒免職など瑣事に過ぎない。歴史の参照が、人間の進歩を支える。それさえ証明できれば、私は己の生涯の職務を全うできる。春美、そのアイテムでもって、明日からの定期テストに臨んでみよ」
「分かりました、頑張ります!」
 そう言って、春美は嬉しそうに教室を出て行った。ぼくは、勢い良く閉じられた扉をただ茫然と見ているだけだった。
「そういえば、何か用事だったんじゃないか? 夏衛。なんでも相談に乗ろう。歴史の証人としてな」
「ええ、その――ひとついいですか。明治政府が教育勅語を発布したときのことなんですけれど――……」
 質問しながら、ぼくは考えていた。春美を、効率良く消す方法を。

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