小説:歩きタマゴ④

 その日、ぼくはそのまま自分の家へ向かった。エフのバカさ加減を朝に堪能したためか、今日は何がなんでも歩きタマゴを見てやりたいと思ったのに、母に電話すると今日は帰ってきなさいとのことだったので大人しく従うことにした。基本的に子の道徳に絶対的不干渉であるこの親が、ぼくの自由を束縛することは尚も珍しかったので、何事かがあったのだろう。エフの後ろをつけるのとはまた別の緊張感が、家に近づくに従って増してくる。
 果たして、エフのお母さんがリビングで母と談笑していたのだった。
「驚いた?」とエフの母が言った。「あなたのご母堂様にお呼ばれしたのよ」
「それ、私死んでるわよ」母が乾いたツッコミを入れた。
「え? あら、そうなの? おほほほほ」
「でもどうして」ぼくが母に聞く。
「いや、どうしてもなにも、あんたがあんなにこの方にお世話になってんだから、呼ばなきゃ失礼じゃないのよ!」
「毎月一万円くらい、きっと彼にご馳走してるわね」そう言ってエフの母はテーブルの上のローストビーフをむしゃむしゃと食らっていた。なるほど、一万円のご馳走か。
「お小遣いから天引きかしらね」母は言った。
「冗談じゃない!」
「いいのよ、めぐみくんにはうちのミズキがお世話になってるから。彼女は無事、公立高校に進むことができたわ、それで家計がなんぼか浮いたんだから、トントンよ」
「でも、だからってこんな家に呼ばなくたって――」
「こんな家って何よ」母は憤然として言った。「賃貸アパートの何が悪いっていうの? 考えてみなさいよ、アパートの方が家賃がずっと安いんだから。住むだけでかかるお金なんて馬鹿げてると思わない? もし仮に三階建ての一軒家でローンを組むとしたら、これから何十年も月十五万円は払わなければならないわ」
「それ、うちと条件一緒ね!」エフの母は嬉しそうに言った。
「たいして、うちは家賃六万円。しかも維持費もなんもかんも大家が払ってくれるんだから楽だと思わない? 固定資産税も無駄に払わなくていいし。はっきり言って持ち家はバカのすることよ」
「え?」エフの母はぼくの母を見、目を丸くした。
「全く、少しは私の節約術に敬意を払って欲しいわよね。あんたのお小遣いだって、そうやって捻出してんだから感謝しな!」
「月三千円の小遣いでよくそんなに威張れるな!?」ぼくは叫んだ。
「バカ……」エフの母がぼそりとつぶやく。
「だいたい」ぼくは言った。「あんたが単身赴任で頑張っている父のお金を着服して世界一周旅行に毎年行っていること自体知ってんだからな? あの金こそ無駄だろ!」
「無駄じゃないわよ! 大胆な行動は常に新しい自分に生まれ変わるチャンスになるんだから!」
「この場合、持ち家をねだった私がバカなのかな、それとも最終的に意思決定をした旦那がバカ……」
「気持ち悪いな、自分の母が自己啓発にハマっている息子の気持ち考えてみろよ!」
「うるさい、あんただってエフエフいつも言ってんの、相当キモイわよ! なによエフって、あんた、自分の好きな子の名前くらい聞きなさいよ!」
「え、誰なの、エフって」
 エフの母は、今度はぼくを見た。「めぐみくんって、ミズキのことが好きなんじゃないの?」
「好きだけど?」ぼくは反射的に答えた。
「違うわ」母はぼくの言葉を遮って言った。「エフってのは、あなたのとこのお姉さんの方よ」
「え、もしかして――」
 そのとき、外から大きな爆発音が飛び込んできた。今までに聞いたことのない音だ。三人は声を合わせて叫んだ。
「え、なに? どうした?」
 母は慌てて外へ駆け出ると、玄関口で鶏ののどを絞ったような声で叫んだ。
「ちょっとめぐみ、きて! ありえない、やばい、やばい」
「は?」
 尋常じゃない母の様子に、ぼくも慌てて外に出る。その光景に、ぼくは思わず声を漏らした。
「嘘だろ……」
 見ると、ぼくたちのアパートの前に人だかりができていた。その半分くらいがスマートフォンでぼくのアパートを撮影していた。遠くで救急車、それに消防車のサイレンが聞こえる。今日は驚くほど夕焼けがきれいだった。ぼくは一階の方を廊下の窓から覗き込む。すると紫色の乗用車がぐしゃぐしゃに大破しているのが見えた。そうか、アパートの一階に車が突っ込んだのか。ぼくは驚くほど冷静に判断した。そしてここにいちゃいけないことも理解した。理解するなり、ぼくは叫んでいた。
「母さんたち、逃げよう!」
 言うや否や、ぼくの母は一目散にぼくの指示した非常口を駆けて降りていった。事態を把握していないのか、エフの母はのんびりと玄関を出てきた。ぼくは彼女の手首を摑み、一生懸命引っ張って非常口を降りた。彼女はずしりと重かった。まるで逃げるのを拒むような意志。すかさずぼくは彼女を見る。彼女は痴呆のようにローストビーフを食っていた。
「そうか、エフって呼んでるのね……」
 唇からはみ出たローストビーフの隙間から聞き取ったそのセリフに、ぼくは幾許の罪悪感を覚えた。が、今はそんなことを考えている場合ではない。ぼくは、エフの母を膝や背中から抱えて駆け降りた。多分、一歩踏み外していたら死んでいたと思う、そんなことを省みられないくらいにぼくは急いだ。
 地上に降りて、乗用車から距離を取ると、ぐしゃぐしゃになったアパートの全貌を眺めることができた。一階は、無惨にもめちゃくちゃになっていた。後ろ半身しか残していない紫色のボディの隙間から破れたコートや下着が散乱している。本を読むお宅だったのか、ページの開かれた本があちこちに山を作り、テレビやソファの下敷きになっている。野次馬から聞こえた情報で、信頼性は不確かだが、どうやら住民は出かけていたらしい。知り合いの一人が電話をかけたら、冗談だろうと笑っていたそうだ。ぼくは時々見かけていた、朗らかなお婆さんの笑顔をふと思い出した。しばらく経ってその顔が歪むことになるのだと思うと、ぼくはゾッとした。そんなことを考えていると果たして救急車が到着した。紫色の乗用車はあっという間に隊員に囲まれ、黄色いテープが野次馬を退けた。怒号があちこちを駆け巡っているところから判断すると、恐らく運転手が救出されているのだろう。程なくして遠くでしゃがれた叫び声が聞こえた。多分、野次馬を見て、現実を悟ったのだろう。ぼくは母に「引っ越しをしよう」と無意識に呟いていた。
「でも、どこに……」母は所在なげに返事をした。こんなに憔悴しきった母を見るのは久しぶりだった。すると、近くでローストビーフをしゃぶっていたエフの母が、
「うーん、私にいい考えがあるんだけど」と言った。「でもねえ」
「あの、すみません」母は真っ青な顔で彼女を見て、「なんでもしますから教えてください、もうバカなんて言わないから」
「なんでもするですって?」
「はい」母は土下座した。「なんでも……」
「じゃあ引っ越しが終わったら、一緒に世界一周旅行に連れてって」
 母は二つ返事で承諾した。

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