長編小説:歩きタマゴ⑨

「――それでさあ、ミズキ」
 その日の夜はミズキが家に来ていた。エフは、エフの父と洋食屋に出かけるらしく、ミズキはその誘いを断ってこちらに来たらしい。入学式での一件の関係でしばらくは不機嫌だったが、エフがバラしたのだと分かると、諦めの気持ちからか、すぐに納得してくれた。それからミズキはリビングでアニメを一通り見た後、今は参考書で勉強し始めている。彼女が言うには、もうすぐ高校範囲の勉強が終わるらしい。ぼくはすでに追い抜かれていた。ほんと、この子はぼくのことが好きという部分以外に取り柄がない。
 やることがなくて暇だったぼくは、とりあえずミズキに相手してもらおうと話しかけたのだった。
「そもそもさあ、俺、正規の方法で人と仲良くなったことがないんだよ」
「正規の方法?」
「いわゆるヒットアンドアウェイ戦法みたいなさ、何回か話しかけて、ちょっと距離をとってまた話しかけて――ってするやつ」
「そういう言い方もあるんですね」
「でさあ、ほら、ミズキはなんか突然仲良くなったじゃん?」
「突然……」
「エフは仲良いのかよく分かんないし、あと俺には友達と呼べる友達がいまいいちいないんだよね。だから、どうせなら一人でも正規ルートの友達が欲しいと思って。受験も近いし」
「受験問題に友達が必要な問題なんてありませんでしたけど」
「どうすればいいと思う?」
 と言うと、ミズキはちょっと考えるフリをしてから、
「無理じゃないですか?」と言った。
「え?」
「多分無理だと思いますよ。だってめぐみさん、他人を成績証明書くらいにしか思っていないでしょう」
「成績……」
「めぐみさんにとって、友達はアチーブメントの解放なんです。トロフィーと言ってもいいですね。お姉ちゃんと友達になったとき、めぐみさんの頭には「美少女」とインデックスが出たはずです。いや、そうとしか出なかった。だから――」
「それ、いいな」
 ぼくが言うと、ミズキは首を捻った。「どういうことですか」
「いや、なんか友達作ろうってなったとき、頭がスッキリしてなかったんだよ。でも今わかったわ。トロフィーを貰えばいいんだ。そうか、そうか……」

 ミズキが帰ってから、ぼくは引っ越しの後で持て余していたダンボールでトロフィーを二つ作る。そこに、エフ、ミズキの名前を書いた。エフの下には美少女と書き加える。しかし、ミズキの下に書くべき文字は何も思い浮かばなかった。今まであまり考えてこなかったが、ぼくにとって彼女はいったいどんな人間なのだろうか。美少女の妹とでも書こうと思ったが、それはなんか違う気がしたのだった。
「俺はさ、自分自身に行動の指針が欲しいんだ。何が正しくて何が間違っているのか、そういうのが明確にわかっているんだったら、とても楽だろう? でも実際は、そんなことにはならない。一個ずつ教えてもらっても、また新たな謎が俺を襲う。人生ってのはこれまでも、そしてこれからもこの繰り返しなんだろうと思うと、なんだか萎えるわ。思えば、解決という所作自体が、新たな問題の創出を意味するのかもしれない。もし人生がそういう意味での解決が重なってできているのだとしたら、盤石な行動の指針というものを望むことはほとんど無意味なのかもしれない。行動の指針という解決方法そのものが、新たな問題を呼び込むのだから。そうなるともう訳がわからない。俺は一体次に何をすればいいんだろう? それを教えてくれるはずの参考書も謎だというなら、俺にできることなんかないじゃないか――」

 数日が経って、高校三年生という身分に少しずつ慣れてきた頃、桜の花はゆっくりと散り始めて、新緑の葉が鮮やかな光を発し始めていた。昼休みになって、ご飯を食べ終わった後、ぼくは参考書を眺め、今日の夜に控える塾の授業の対策をしていた。
 するとエリが横から肩をポンと叩いて、話しかけてきた。
「私の教科書とおんなじじゃん!」
「え、そうなの? だってこれ塾専用の――」
「ふっふん」エリは得意げな顔をした。「つまり、めぐみと同じ塾にいるってわけ」
「え――」
 言いかけて、ぼくははたと考えた。
 今こそ、ヒットアンドアウェイ戦法のチャンスなんじゃなかろうか。
 ぼくは気合いを入れ直し、エリに真っ直ぐ向き合った。
「エリと同じ塾なら心強い。勉強を教えてくれないか?」
「いいよ!」エリは笑顔で言った。「じゃあ学校終わったら、塾の時間までマックにでも行く?」
 ぼくが頷くと、彼女は「そいじゃ」と言って教室を出ていった。ぼくは再び教科書を見つめながら、突然出てきた友達候補に胸を躍らせた。

 午後の授業で、先生に隠れてスマートフォンを触っていると、ミズキからメッセージが来ていたのに気がついた。何気なしに開くと、「お姉ちゃんの件で……」との文字が見えた。ぼくはその言葉に、反射的に身構えてしまった。受験に集中するため、学校の中ではエフ関連の用事の全てを、一生懸命暗示をかけて抑制していたのだった。ぼくはミズキのメッセージを無視した。せっかくクラスも離れたというのに、このまままたずるずると茹で卵の誘惑に負けるのではダメだ。それに、このメッセージが一旦誘惑へのトリガーとなってしまっては、もうミズキとメッセージを送り合うことが難しくなってしまう。それだけはいやだ。
 ぼくは決意すると、スマートフォンをポケットにしまい、前を向いた。
 前には、教師が立っていた。こちらを物凄い形相で睨んでいる。
「聞いてたか?」教師は言った。
「はい、聞いてました」
「じゃあ、正解は?」
「正解?」
 ぼくは深く考え込んだ。正解とは一体なんだろうか。
 この世に正解などというものがあるのなら、教えて欲しい。
 正解とは。
「ありません」ぼくははっきり答えた。「正解なんてものは、ありません」
「あるわ」教師は背を向けて言った。「ほら、葛。正解を教えてやれ」
「サンエックスです」エリは即座に答えた。
「正解、めぐみ、廊下に立っとれ」
 ぼくは廊下に立ちながら考えていた。正解とは、サンエックスなのか。

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