小説:歩きタマゴ③

 エフをストーカーし続けてから一年で、新たに気が付いたことがある。それは、エフの姿勢が他の人間よりも伸びているということだ。気付いた今となっては、どうしてもっと早く気がつかなかったのかとも思うが、どうやらぼくはあの姿勢が普通だと思ってしまっていたらしい。ぼくがエフ以外の人間を知る機会があるとすれば、それはマンガやアニメか、あるいはテレビに映る芸能人か。彼らは皆、背筋が伸びている。底辺オタクですら、デブ以外が猫背になっているのを見たことがない。あるいはたとい猫背でも、それは「猫背」キャラとして背を曲げているに過ぎない、簡単に言えば猫背はバッドステータスなのだ。しかし、ぼくの観測上、道端に歩いている人間の九割は猫背である。あるいは腰が曲がっている。レストランを眺めてみよ! 何人が背中をちゃんと伸ばして座っている? ぼくはエフほど、スラリとした姿勢で座っている人間を見たことがない。
「――曲がってますね」
 リビングのソファに座るぼくの背中をまじまじと見て、ミズキは言った。
「本当か? 結構伸ばしてるつもりなんだけどな」
「いや、曲がってますよ。ほらここ」ミズキはぼくの腰をぐっと押し込んだ。ぼくは反射的に力を入れる。
「これがまっすぐです。――あ、今度は反対に曲がってる」
「難しいな……」
 しばらく悪戦苦闘したが、ミズキのお眼鏡に叶う姿勢を維持することはできなかった。それからとうとうミズキも挑戦し始めたが、一向に感覚が摑めない。
「本当に曲がってんだな」ぼくはミズキの細い腰を見て言った。
「あんまりジロジロ見ないでください」
「不公平だ」
「それはそうですよ。今までに男女平等が実現したことなんて一度でもありましたか」
「実現して欲しいとは思うけど」
「どの口が言うんだか……でもそうですね、最初の一歩としては悪くなさそうです」
「は?」
 彼女はぼくの顔をじっと見つめた。茶色がかった瞳に、ぼくの輪郭がぼやけて見える。それから彼女は口を開いて、
「腰、確認してみてください」
 そう言って彼女は両腕を高く上げた。ぼくは恐る恐る彼女の腰に手を伸ばす。触れた途端、ブラウスの上からでも分かる、ろうそくのような独特な弾力が指先から伝わってきた。彼女は見た目以上に細かった。それは、ぼくの手のひらに驚くほど馴染んだ。気づけばぼくは表面をさすっていた。いつのまにか力を入れて摑んでしまっていたようで、
「ちょっと、何やってんですか」
 ミズキは慌ててソファから飛び退いた。それからじっとぼくを睨んで、
「何か感想はないんですか」と言った。
「……やっぱり曲がってたな」ぼくはそう言うしかなかった。

 翌日、ぼくはミズキの腰の弾力が忘れられずにいた。定期試験も全て終わって、残り滓のような午前授業を受けている間も、ぼくはあの腰のことを考えていた。試しにロウソクを買って指先で撫でていたが、実際腰はロウソクなんかよりもずっと柔らかかった。しかもロウはなんか少しベタベタする。ムカついたので、ぼくはロウソクを食べてしまった。ポリポリといい音が頭蓋骨に伝わってきた。
「ねえ」
「ぎゃあ」
 驚いて振り向くと、後ろにエフが立っていた。驚かすなよとぼくが告げると、エフはムッとなって、「古事記」と呟いた。
「は?」
「だから古事記が古いんだってば。日本で一番古いの」
「ああ、その話か」
「……かっこいいかな?」
「え?」
「かっこいいかって聞いてんの!」
 ぼくはしばらくエフの顔を見つめた。エフは腕を組んで、目を細めてこちらをみている。美少女だろ――と言いかけて、ぼくは慌てて口を噤んだ。これだけは言ってはならない――ぼくは本能的にそう考えていた。だから代わりに、
「そういうのはさ、パッと言えるからかっこいいんだよ。調べてきたのがわかった時点でダメ」と答えた。
「なんだし。じゃあ、めぐみは知ってたってわけ?」
「知らなかった」
「じゃあいいじゃん、有益な情報だったでしょ?」
「確かに……」ぼくは怒るエフの顔を愛おしく見上げた。「確かに……有益な情報だ」
 美少女は素直で、まっすぐでなければならない――ぼくは頭のメモにしっかりと書き刻んだのだった。

 修了式をもってぼくの平凡な高校二年生は終わった。春休みが明ければ、いよいよぼくは受験生となる。ぼくは、昨今では偏差値に高い大学の方が美少女がたくさんいるという情報をキャッチし、若干だが受験に興味を持ち始めていた。実際、偏差値の高い学校から順番に大学に赴いてみてはいるが、ぼくには違いがよく分からなかった。しかし、傾向としてどんな大学にもバカはいる、ということがなんとなく了解できてきた。そしてそのバカの中に美少女が多いのではないか、という仮説を立てたのだった。なぜなら、美少女の要件はバカであること、これがぼくの長年観察してきたところの比較的堅い方の結論だからである。エフを見給え、あの子は本当にバカなのだった。今朝なんて――
「ねえ」彼女はいつものように後ろから話しかける。エフに話しかけられるようになってから半年以上経つが、いまだに慣れない。ぼくはびっくりして振り返ると、にこやかな顔でエフがぼくを見ていた。
「ミズキから聞いた?」
「いや、なんにも。四月から楽しみですね、ってことは何度も聞いているけど」
「じゃなくて、首席だったんだって」エフはそっけない様子で言った。
「首席?」
 ぼくは少しムッとした。何も聞いていない。昨日だって会ったというのにどうして教えてくれなかったんだろう。
「入試の得点が全て合わせて一番だったみたいよ」
「それは分かるわ」
「それで、めぐみには内緒にして来月の入学式で入学生のあいさつをしたらどんな反応になるかなあなんてことを言ってた。だから黙ってなきゃなって思ってたんだけど――」
「……」
 静かな教室に、窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。ぼくはしばらくエフの頭を見つめた。
「しまった……」
 エフは本気で落ち込んだ様子で、その場からとぼとぼと去った。入学式、本当にぼくはどんな顔で出席しなければならないのか。

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