小説:歩きタマゴ

 何度も通ってきたはずの、高校への通学路でぼくはいやに緊張していた。心臓がクラブハウスのステレオみたいに激しく胸の裏を打つ、所在のない両手は電信柱を撫でたり擦ったり、あるいはそれをズボンで拭いたりしていた。夏の暑さも去って久しく、落ち葉に気の狂った黄色が目立ち始める。深呼吸をしようにも、肺はその冷たい空気を吸うばかり。ああ――雲の上の神よ、ぼくを今、見下ろしているのならいっそ隣へ来てほしい。隣へ来て、ぼくの肋骨を強く押して、溜まりに溜まって澱んだ劣情を無理矢理にでも吐き出させてほしい。ぼくは、米粒のように遠い女の子を注視していた。彼女は商店街のど真ん中でゆで卵を食べていた。つるつるに剥かれたゆで卵を美味しそうに頬張っていた。ちょうど、ひと口を多く見積りすぎて噎せているところだった。案外、卵の直径は太いもので、調子に乗って飲み込もうとすると噎せる。しかし、ぼくはそれが良いのだと思った。世間には、あまりに円柱の食べ物が増えすぎた、と思う。食べやすいのかなんなのか知らないが、スティックパン、かにかま、バーニャカウダ、全てが円柱形だ。ぼくは、円柱に幾ばくかの味気なさを感じる。その点、ゆで卵はいい、ゆで卵は生まれてから茹でられるまでずっと楕円型だ、実に食べにくい! 元々は遠くへ転がらないために、ニワトリはあのような形の卵を産むようになったなんて俗説を聞いたことがあるが、無精卵の今となってはなんと意味のないフォルムだろうか。実にくだらない、本当にくだらない、しかし――その取り合わせがいいんだ。あの、宇宙一美少女なエフ――恥ずかしながらぼくは彼女の名前を知らない――があのフォルムを歩きながら頬張っているという取り合わせが、ぼくは頗る好きなのだ。分かるかね、このオーセンティックな価値観が君たちに?
 そんなことを考えながら後をつけていると、エフは家に入ってしまった。千葉県の小都市には珍しくない、三階建ての一軒家。ぼくは当然ながら、何度かこの家に入ったことがある。幾度かの検証から、監視カメラが玄関と勝手口についていることは分かっている。今回も用心して侵入すれば事は容易いだろう。そうと決まれば作戦開始だ。ぼくはお母さんに電話した。遅くなるから帰る――と伝えると、彼女はご飯はいらないのねとだけ言って電話を切った。フッ――さすがは我が母だ。察しがいい。その通りだマイマザー、ぼくはこれからジハードへと赴かなければならないのだ。
 ぼくが玄関の前で待っていると、家からエフのお母さんが出てきた。
「あら、メグミくん。娘に用事かしら」
 お母さんは満面の笑みをぼくに向ける。ぼくは、その造形の美しさに後退りしつつも、
「あの、ぷ、プリント……」
 と声を振り絞った。
 それからぼくはクリアファイルにちょうど挟まっていたB5の白紙を差し出すと、お母さんは「あらあら、これは愛されたもののみが読めるラブレターなのね」と嬉しそうに受け取った。
「上がってく?」
「い、いいんですか?」
「何よ、いつもそうしてるじゃない」
「毎回お邪魔かなと思って……」
 お母さんはフフとだけ笑って、玄関の扉を開けた。促されるままぼくは玄関を潜り抜ける。あ、ゆで卵の匂い――ぼくの中のクラブハウスはサビに達し、浮ついた足取りで廊下を歩いたのだった。
 リビングへのガラス扉を開けると、ダイニングテーブルには制服姿のままのエフとエフの父が向かい合って座っていた。ぼくが来るまで何か話し込んでいたようで、テーブルにはレジュメのような何かが散乱していた。真っ白な壁と真っ白な冷蔵庫にオーブン、そこへダークブラウンの木目が美しいテーブルがオシャレに映える。リビングではエフの妹が緑色の大きなソファに寝そべりながら、最近流行りのアニメを見ていた。テレビは恐らく45インチだろう。世帯年収は、共働きと聞いているから恐らく一千万円くらいか。するとエフは月に一万円くらい、お小遣いを貰っているんだろうな。ちなみにぼくは月三千円だ。元々はもっと貰っていたのだが、昆虫カフェで推しのカブトムシに奉納していたらバレて減額を食らった。だから少しくらいこの家にお金を無心したって、バチは当たるまい。
「また来たの」リビングに上がったぼくをチラリと見て、エフはそっけない感じで言った。「めぐみって本当、私の妹が好きだよね」
「そういうわけじゃない。ミズキとはただちょっと話が合うだけだ」
「後輩になるかもしれないから、そうなったらめぐみくん、よろしくね」エフのお父さんが和やかに言った。うちの父と違い、エフのお父さんは真面目そうな方だ。ぼくは「はい」と答えると、エフが「受かればね」などと言って笑った。
「めぐみさん! 早くこっち来てくださいよ」ソファから起き上がって、ミズキが大声で呼ぶ。ぼくは、はいはいと彼女の隣に座って一緒にアニメを見始めたのだった。

 ぼくは美少女が好きだ。アニメに、美少女が混入しているとついつい目で追ってしまう。反対に、何らかの理由でアニメに美少女が出てこないことが発覚するや否や、ぼくは視聴をやめてしまう。ぼくの人生は基本的に美少女を中心に回っていた。唯一、美少女が絡まなかったことと言えば、昆虫カフェのカブトムシ子ちゃんなのだが、しかし冷静になって考えてみるとあの時のぼくはカブトムシ子ちゃんを美少女だと思っていたんだから、結局美少女である。そして、今のぼくの関心はエフだった。エフはとても美少女だった。学校での評判は知らないが、源氏物語が好きな国語教師が、平均して月に1ポイントほど多くエフを当てていたから、客観的に彼女は美少女なんだと思う。ぼくは特に、エフの登下校をストーカーすることにハマっていた。彼女の登下校は見ていて本当におもしろい。彼女が歩きタマゴをする姿は、さながら全世界の男を嫉妬させるアフロディーテのようだ。そして、このひどく高尚なこの趣味は、一切金がかからない、それどころか妹のミズキとアニメを見ながら、晩御飯のご馳走まであるわけだから、ぼくの月三千円の安いお小遣いでも十分お釣りが来るほどだ。そのお釣りで、ぼくは一ヶ月前の秋に亡くなったカブトムシ子ちゃんのお墓にお布施していたのだった。

「――めぐみ」
 ロッカー室で理科の移動教室の準備をしていると、エフに後ろから声をかけられた。「今日は私の家に来るの?」
「今日も行って大丈夫なのか?」ぼくは振り返って答えた。
「ミズキが、一緒に見たいアニメがあるんだって」
「あの子、受験大丈夫?」
「大丈夫でしょ、あんたに勉強も教えてもらってんだから。っていうかさ――」エフはじっとこちらを睨んで言った。「来るんならさ、一緒に行こうよ。なんで少し後ろを歩いてこようとするの。そんなに見たいの? ゆで卵を食べている私なんて――」
「恥ずかしいんだ」ぼくはきっぱりと言った。「恥ずかしいんだよ、ぼくは、君が卵を食べているところを見ている自分を見られるのがさ」
 エフはふうんと首を傾げた。
「だから是非とも、後ろを歩かせて欲しい。これは、ぼくなりのプライドなんだ。ぼくは君に――少しでも高潔な人間だと思われたいんだ。分かるだろう?」
「うーん」エフは唸った。「そういう難しい話はミズキにしてよ。きっとあの子は喜ぶと思う」
「そうか――」
 そのとき、授業開始を知らせるチャイムが校舎に鳴り響いたのだった。

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