小説:歩きタマゴ⑧

 入学式になって、ぼくは事前に知らされていたミズキのサプライズに、それ相応のリアクションを取らなければならなかった。「新入生代表」と学年担任が宣言したとき、ぼくは身構えた。そして、ミズキの名前が呼ばれる。全校生徒が揃った体育館は、微かにざわつく。今年の新入生代表は女の子か――なんて言う声も聞こえる。ぼくはそれで思いついた。
「あの子、ぼくが勉強を教えたんだよ、きゃー」と隣のやつの肩を叩いて、少し騒いだ。話したこともない女だったが、その子は何かを察したのか、壇上の女の子がこちらを見ているのに気付いて、「すごいじゃん!」と指差して褒めてくれた。しかし、ミズキは嬉しそうな顔をするどころか少しムッとした顔をしていた。恐らく女子に話しかけたのがまずかったのだろう。後で、全て白状しよう、ぼくはそう観念したのであった。
「でもあの子――の妹よね?」
「え? なんだって?」
 その女の声は、体育館のざわつきに紛れてハッキリしなかった。多分エフの妹であることを確認したかったのだろう。ぼくは適当に肯定しておいた。
「それにしてもよく似てるわ。双子みたい」
「そうかな」
 ぼくが答えると、ミズキが時候の挨拶を述べ始めた。なんだか、別人みたいだと思った。少なくとも、いつも一緒にアニメを見て、高笑いをしている彼女と同一人物には見えなかった。そう考えると少しだけ切なくなる。高校生になっても、これまでのように仲良くしてくれるのだろうか。まあしてくれるだろうな、なんと言ってもこのぼくのことが好きなんだから。

 教室に戻ると、ぼくは参考書を開き始めた。今週末の夜からいよいよ塾に通い始める。その前準備として、塾の先生にバカにされないようにするためにも、ぼくは自主学習を始めたのだった。ぼくがこれから通う個人指導塾では、悪辣な講師がたくさんいるらしい。そんな講師にあたって、「まだ勉強始めてないの?」なんて責められでもしたら、ぼくはきっと再起不能になるだろう。
 入学式の前の日に、ぼくら新三年生は始業式を行い、そのときに新クラスも発表された。ぼくはクラス表を見て愕然とした。エフとクラスが離れてしまったのだ。こうなれば、去年度までのようにストーキングはできないだろう。クラスによってホームルームの終わる時間はまちまちで、ぼくのクラス担任はこれまでの傾向から早く、そしてエフのいるクラスの担任はとんでもなく遅いことで有名だった。そのため、ストーキングを無事遂行するには、彼女の帰りをどこかで待っていなくてはならない。しかしエフの教室は同じフロアだがぼくの教室と対極の位置にあるため、いつ終わるのかが正確に分からない。
 ぼくは、分かりやすくもない参考書を前にため息をついた。このクラスにはまだ友達といえる人間はいなかった。元来内向的なぼくにとって、新しいクラスに順応するのは至難の業だった。まあ、勉強に集中できるからいいか……。
「めぐみ――だっけ。休み時間も勉強なんて偉いねえ。どこの大学狙ってんの?」
 見上げると、入学式のときに話しかけた女子が前に立っていた。どうやら、一回話しかけたことで友達認定されたということなのだろう。ぼくは、
「まだ大学は決まってないんだ」と素直に答えることにした。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。――私は葛エリ。みんなカツエリ、カツエリってフルネームで呼ぶんだよね。だからめぐみはエリって呼んで」
「分かった、エリ。こちらこそよろしく」
 エリが手を差し出したので、一瞬躊躇ったが握手をした。エリの手は細く、冷たかった。
「そっちは目指してる大学あるの?」
「んんー、一応ね」エリは少し恥ずかしそうに小鼻を指先で掻いていた。
「俺今大学選びに困っててさ――差し支えなければ教えてくれない?」
「ちょっと恥ずかしいから……でも国立大学とだけ」
「へええ、すごいね」
「すごくないよ!」エリは被りを振った。「てか、そういう反応がやだから言いたくないのよ!」
「悪い悪い――まあ多分、どの大学聞いても、おんなじ反応してたから安心して」
「結構ドライなんだね、めぐみ」
「言っただろ、俺はまだ行きたい大学全然決まってないんだってば。だから俺から見たらもう決まってるやつみんなすごい」
「まあでも確かにそろそろ決めないとモチベーション維持できないでしょ」
 ぼくはエリの意見を真っ当だと思った。よく考えれば、ぼくの周りにこんなに真っ当な人間が今までにいただろうか?
 ぼくはエリの顔を見た。ほのかに茶色く染まったロングヘアーに、胸元で光る大きなリボン。嫌味がなくて、喋りやすい。間違いない。エリは、美少女ではない。――しかし人気があるに違いない。
「でも今週末から塾に通い始めるんだ」あれこれ将来設計を語るエリの話を遮ってぼくは言った。「一年間続けてた趣味も中断してね」
「へえ、そうだったんだ! ――ちなみになんの趣味だったの?」
「んんー、強いて言えば……飼育日記かな」
「ありゃ、じゃあ死んじゃったの?」
「いや、親戚に預けたんだ」

 授業開始から数日が経って金曜日の夜、前もって予約していた時間になってぼくは塾に着いた。この大きなビル一つが、この塾の所有物になっているようだ。入り口には警備員が立っていて、入るや否や大きな声で挨拶された。受付の人に「予約していたものですが……」と説明すると、一人で来たことにとても驚いた様子だった。どうやら保護者が一緒に来るのが普通らしい。ぼくはギャグのつもりで、「今両親は世界一周旅行に行っていますので……」と言ってみたら、笑うどころか、とても気まずそうな顔で同情し、「で、でも全力でサポートいたしますから!」と明るい声を一生懸命繕った様子でぼくを慰めた。気を遣ったはずが逆に気を遣わせてしまったようだ。受付の人はそのままぼくを面談室のようなところに通し、少しお待ちくださいと言ってそそくさと去っていった。
 しばらくするとノックがあった。扉が開くと、若い女性が入ってきて「今日はよろしくお願いします」などと深々とお辞儀した。ぼくは驚いて席を立って同じようにお辞儀する。すると女性は、「ああ、座ったままで結構ですよ」と慌ててぼくを席に促し、女性も席につく。
「本日お母様かお父様はお越しにはなりませんか?」
「ええ、その……」先ほどのギャグが滑ったことに、ぼくは些かナーバスになっていた。「一生来ないですね」
「それはどういう……」
「その、なんていうか――父は単身赴任中なんですけど、母は――」
「ということは、これから全ての契約は、めぐみさん経由で行う形でよろしいですか?」
「はい、なんかお金はもう自由に使っちゃっていいみたいなんで」
「そうなんですね! では早速授業の話になりますが――」
 それからとんとん拍子に契約の話は進んだ。取り敢えずぼくは三科目だけここで面倒を見てもらうことになった。もし、エリのように国立大学を目指すのであれば、もう少し科目を増やさないといけないらしい。国立と私立でそういう差があるなんて知らなかった。ついでに言えば、ぼくの学校から国立を目指すのは若干厳しいということだった。だからエリは、自分の志望校を言うのを躊躇っていたのだ。だったらなぜエリはそこまで国立大学にこだわるのだろうか。明日聞こう――と考えてから、ぼくがまだ、エリにそう言う内容を突っ込んで聞けるような親しい間柄ではないことに気がついた。
 人と仲良くなるには、それ相応の時間と根気がいる――
 花びらのすっかり落ちた桜の木を見つめながら、ぼくはその途方のなさに気が遠くなっていた。

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