郡司ペギオ幸夫の一日に比べれば短いけれども退屈しないことには変わりがない


note(ノート)の方では、できるだけproactiveなことを書きたいと思っている。


 私の友人で郡司ペギオ幸夫というのがいて、とても変なやつなんだけど、心から尊敬している。

 「ペギオ」というのは、子どもが生まれたときに、妻に名前をつけてくれと言われたから、「ペンギン」というのはどうだと応えたら、それだけはやめてくれと言われて、仕方がないから自分につけた、と確か聞いたことがある。

 いろいろな伝説のある郡司ペギオ幸夫だが、ほんとうかどうかわからないけど確か一度本人が言っていたのは、どこかで一日に一本しか来ない列車に乗り遅れて、そのまま次の日の同じ時間までそのホームで待っていたんだけれども、全く退屈とかしなかったということで、私はこのエピソードがとても好きだ。

 そもそも、考えることとか感じることなんて無限にあるはずで、外部的な刺激が豊かか乏しいかということはあまり問題にならない。

 そのような気持ち、というか志向性は子どもの頃は誰でも持っていたはずで、それが大人になると世間の常識にとらわれて田舎は退屈だとか刺激がないとか言い出してしまうのだろう。

 内田百閒さんも『阿房列車』の中で、乗り遅れて次の列車までずっとホームで座って待っているシーンがあるが、郡司ペギオ幸夫の一日に比べれば短いけれども退屈しないことには変わりがない。

 このような話は、極端なことのようだけれども、教養として身につけておくと、人生の奥行きがぐんと増すように思う。

とりあえずこうやってメモしておきます。郡司ペギオ幸夫の一日に比べれば短いけれども退屈しないことには変わりがない

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