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戦 争 (遠藤不比人)

――敵は正しく見定められるのか?

「24 時間戦えますか?」

 たとえば「自由競争」であるとか「競争原理」などという表現が肯定的な意味で飛び交うのが、私たちの社会の現状である。そういった社会において、「戦争」という言葉の意味内容が、いつのまにか、比喩的なレベルで「競い合う(競争)」といった新自由主義的な美徳と化しているのではないか?この疑問をまずは提出したい。

 ここで、かつてある精力剤の CM が採用したキャッチ・コピー「24 時間戦えますか」(1988 年初出)を思い出してみると、この疑いがかなりの現実性を帯びるはずだ。まさにグローバルな「自由競争」において(たぶん)アジアの熱帯雨林のなかでまで、スーツ姿で日夜(24 時間)奮闘する日本人サラリーマンの姿。そこにはまさに新自由主義的かつポストフォーディズム的な社会における「競争」の初期の形が戯画的に見えてこないだろうか?(ついでにいえば、あそこには「大東亜共栄圏」のイメージが無意識としてあるらしい。)

 この過酷な「競争=戦争」のためには「24 時間」、つまりは普段/不断の「体力」の「自己管理」が要求される(最近ではよりソフトな語感の「マネジメント」のほうが好まれる傾向がある)。さらにその「競争=戦争」の環境(この文脈で「戦場」という比喩がしばしば使用されることにも注意)は先進国の瀟洒なオフィス街にとどまらず、極端な場合はアジアのジャングルでさえありうる。そんな「職場環境=戦場」にも「対応可能」であるべき体力の管理=マネジメント。あの CM はこのような「競争=戦う」身体を「ジャパニーズ・ビジネスマン」というフレーズを連呼しつつ露出していた。それと同時に、この「勝ち組」サラリーマンが過酷な「受験戦争」の勝者であったこともまずまちがいない(場合によっては「共通一次試験」が課す複数の科目に「柔軟に」対応した受験生であったのかもしれない)。

 24 時間、あらゆる環境に「フレキシブル」に対応しうる、自己の能力=体力の管理(あるいはマネジメント)。あの CM の戯画性はその後本格的に到来する「新自由主義」および「ポストフォーディズム」的価値観(イデオロギー)を先駆的に暗示しながら(おそらくは無自覚に)それを揶揄する批評性すらもっていたのかもしれない。いずれにしても、ここで留意すべきはつぎのような現状である。「戦争」が「新自由主義」そして「ポストフォーディズム」的レトリック(比喩)たる「競争」へと姿を変えることで、いよいよ労働者が古典的な水準で搾取されている事態が「自然=当然(natural)」なものにされている、そのような状況である(「労働者の搾取」などという古典的な表現をあえて使用した意図についてはあとで触れる)。つまりここで言えるのは、「戦争」が本来の政治的意味を失い(というか隠蔽され)、強力な経済的なレトリック、すなわち「競争」となっているということである。

 そのいっぽうで、字義的な意味での「戦争」についてはどうだろうか?これもいまや古典的かつ戯画的な響きすらもってしまった「左翼」を自称するひとたちの「戦争反対」というメッセージがひどく非現実的に聞こえはじめてきた、そんな印象を抱くひとたちも少なくないのではないか。その背景には、そういった抽象的な政治的議論の以前に、目先の具体的な経済的問題が先決である、といった「日常的な」感覚があるのかもしれない。政治的な問題よりも経済的な問題が優先されてしまう、または「政治的なもの」の「経済」化ということ(「戦争」の「(自由)競争」化はまさにその好例だ)――こういった傾向が私たちの自覚できる範囲を超えて急速に進行しているのではないだろうか。このような私たちの社会の傾向に批判的に介入をしていくためにも、どうやら「戦争」という言葉は、その比喩的な使用も含めて重要な鍵語であるらしい。こういった吟味をするために、いささか迂遠に思えるかもしれないが、まずは原理的にこの言葉の字義的な意味を考えてみる必要がある。

「戦争をする」「戦争はいやだ」

 ここで目先を変えて、「戦争」という日本語の使用法について、しばらく原理的に考えてみる。石田英敬との対談で西谷修は「戦争」という日本語のとても恣意的な使用法について、ある重要な指摘をしている。たとえば、日常的に頻繁に使う言葉遣いとしてつぎのような表現がある――「戦争をする」「戦争はいやだ」。このふたつの表現に共通する言葉はもちろん「戦争」である。しかしその意味内容はほとんど正反対の事態を指し示しているのではないか、と西谷は強調する。前者「戦争をする」が戦争遂行にかんして積極的あるいは少なくともニュートラルな姿勢を、後者「戦争はいやだ」がそれについて消極的ないしは批判的な立場を示しているということが問題になるのでは必ずしもない。ここで重要なのはつぎのような点だ。

 「戦争をする」といった場合、西谷氏の例を借りれば、「旅行を計画する」あるいは「ビルを建てる」という言い方のように、その表現では「戦争」が人間という主体(主語)の文法でいう「目的語」となっている。つまり「戦争」というものが、主語たる人間によって管理することが可能な対象=目的であるということ、一言でいえば、「戦争」とは「主体の能動的活動の直接目的補語」(石田 240)と想定されている。

 しかし後者の表現「戦争はいやだ」の場合はどうだろうか。そこにはつぎのような状況を考えなくてはならない。

じっさい「戦争が起こって」みると、つまり「戦争になって」みると、人々は何かを作るようにして戦争にかかわるのではなく、多くの人は戦争の中にのみ込まれるわけです。そして否応なく戦争を経験として生きることになる。その場合には、人は何かを作る主体として戦争にかかわるのではなくて、むしろ主体として動けない、あるいは、すべて状況に規定されてしか動けない。つまり、まったく受動的に、そこに投げ込まれてその状況を生きざるをえない、というような状況に置かれてしまいます。「戦争はいやだ」は、そのように、状況の中に受動的に投げ出された存在にかかわる言表なのです。(石田 241 強調原文)

このように「戦争」をめぐるふたつの表現法はまったく正反対の事態を示している。さらにここで付け加えるべき点は、つぎのことだろう。前者の言い方「戦争をする」の主語は、たんなる人間といった漠然とした存在ではなく、むしろ「国家」というべきである。つまり「戦争」の独占的な主体としての近代国家のことをここで想起しなければならない。

 その点から後者の表現「戦争はいやだ」を考えてみると、そこで想定されている状況はつぎのようなものではないだろうか。つまり「国家」の圧倒的な権力に強制されて、ひとりの「国民」の義務として戦争に動員されていくといった状況。そのいっぽうで、戦場において「敵」を殺すことが「国民」の義務として強制されることはなくとも、つまり「銃後」と呼ばれる立場にあっても、近代の総力戦にあって「国民」は、さまざまな形で戦争に巻き込まれていくことを覚悟しなくてはならない。もう一度いい直せば、「戦争」の主体とはあくまで「国民国家」であり、その制度=権力構造にあって個人としての人間はすべて原則的に「国民」というカテゴリーに入り、その履行すべき義務として「戦争」を強制される。つまりは「戦争」とは「個に対する全体の圧倒的優位」(242)という事態を前提としている。

 ここで話をいったん整理してみる。きわめて日常的な表現である「戦争をする」と「戦争はいやだ」が明晰に示す、「戦争」という言葉自体が内包する正反対の意味をしばしば混同したまま、私たちは「戦争」について論じているのではないか? こういった自意識をまずはもつことが重要である。このような相違を意識し、「戦争」における「個人=国民」の圧倒的な受動性を批判的に吟味しながら、一種の「反戦」論をすることがここで可能であるだろう。というか、これまでの議論の流れからごく自然に予想=期待されている方向性が、これであるのかもしれない。しかしこのような批判的(左翼的)な言説は、さきほど触れたような「経済」が「政治」を凌駕してしまう社会の現状=日常において、抽象的にしか響かないおそれがある。

 ここではむしろ発想を逆転してみたい。ただ「戦争反対!」と叫ぶような「左翼的」抽象論をするのではなく、むしろ「戦争」という言葉の使用法をさまざまなレヴェルで(場合によっては肯定的に)吟味してみる。それを前提にして、「国家」ではなく「個人」が「戦争」の主体となることによって、その「個人」が「国家」から解放される可能性を考えてみたらどうだろうか? そこにはどのような可能性があるのか?そういった議論は、「経済=競争原理」がすべてに優先される現状へ具体的かつ日常的に介入する可能性を示唆する。そこでいま一度この「戦争」という語の「政治」的な意味内容を吟味する必要がある。

政治的行為としての「戦争」

 西谷も言うように、明治以降の翻訳語としての「戦争」という日本語には、あいまいさがつねにともなう。それ以前の「戦〔いくさ〕」「役〔えき〕」などという単語のニュアンスが、近代的な主権国家以後の文脈とないまぜになる場合すらありえる。そこで「戦争論」の古典中の古典としていまだに頻繁に参照されるカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』(1816~30)が生まれた文化圏の、ドイツ語における「戦争」のニュアンスにここで触れてみたい。クラウゼヴィッツの有名な戦争に関する定義につぎのような表現がある――「戦争とは別の手段による政治の継続である」。

 クラゼヴィッツは、近代の典型的な国民国家を完成させたナポレオンの「国民軍」との実戦経験をもった職業軍人という立場から執筆した。つまりこの定義の背景には、少なくともふたつの「国家」の間でなんらかの利害の不一致が存在し、それを外交的=政治的なレヴェルで解決できなかった場合の次善の手段として「戦争」が定義されている。要するに「戦争」とは、まずは「政治」の延長線上に定義・想定されるものであった。

 クラウゼヴィッツの書物と同じくドイツ語圏の「戦争論」として、これもしばしば参照されるテクストに、フロイトの「人はなぜ戦争をするのか(Warum Krieg?)」(1933)がある。これはアインシュタインとの往復書簡という形をとっているものだが、最初の返信の冒頭でフロイトはつぎのように言っている――「私がまず心配したのは、戦争という問題は、政治家にふさわしい実務的な問題であり、私たちのような学者の出る幕など、ないのではないかというものでした」(10-11)。ここでも「戦争」は、狭義の(=「実務的な」)「政治」とまずはみなされている(といいながら、とくに後期フロイトの精神分析が真にラディカルであるのは、「戦争」とセクシュアリティないしは「享楽」を連続して思弁した点にこそあるのだが、それは本項目の主題ではない)。

 このような点に留意するときに、日本語で「戦争」と翻訳されるドイツ語のニュアンスについて少々の考察が必要であるだろう。クラウゼヴィッツにしてもフロイトにしても、使用する単語は Krieg である。この名詞と密接な関係があるドイツ語の動詞に kriegen がある。これは英語の get に近い意味をもった語であり、独和辞典の語義を並べれば「得る、もらう、受け取る、獲得する」となる。つまりドイツ語の Krieg という言葉には日本語の「戦争」という語にはない連想がともなうかもしれない。本来は自分(自国)が所有すべきものであるにもかかわらず、それが他者(他国)によって所有されている(奪われている)場合に、正当な(まさに「政治」的な)主張の一環としてそれを獲得(奪い返す)=kriegen すべく戦う――そのような連想である。実際、動詞 kriegen の旧い用法には「戦う、戦争をする」という語義がある。

 利害の対立という、いわば典型的に「政治」的な状況においてまずは想定されているのが、ドイツ語における「戦争=Krieg」ではないか。現実にクラウゼヴィッツの『戦争論』は、近代的な主権国家=国民国家がヨーロッパにおいて複数誕生しつつあり、その間の利害の対立という外交的=政治的問題が露出しはじめていた一九世紀前半の歴史的文脈をふまえながら執筆された。繰り返せば、ドイツ語における「戦争(Krieg)」には狭義の政治的かつ「実務的」な問題たる利害の対立、そこに発生する所有(権)という問題が語感として抜きがたくあるはずだ。

「政治的なもの」

 ここで私たちは根本的に「政治」的な行為としての「戦争」という主題に出会っている。さらにドイツ語圏におけるある重要な「政治」論を参照してみたい。それはカール・シュミットの『政治的なものの概念』(1932)における「政治的なもの」の定義である。シュミットによる「政治的なもの」の定義は、驚嘆すべきほど明晰かつ単純である。それは一般に「友/敵理論」とも呼ばれているが、つまりは「政治的なもの」の最重要な定義として、シュミットは「味方」と「敵」の明白な峻別を主張した。これを言い換えれば「政治的なもの」とは少なくともふたつの主体の間に存在する「敵対性(antagonism)」のことである。シュミットは高名な法学者としてナチスの法理論を学問的に担保した履歴により、毀誉褒貶のはなはだしい存在であるが、それにもかかわらずこの定義は現代の政治思想において(それも「左翼的」な理論においてとくに)しばしば参照されている。

 シュミットを参照するじつに多岐にわたる政治思想を概観している余裕は、ここではない。そこで私たちが生きている21世紀の日本における政治的な状況に介入するために、このシュミットあるいはさきほどのクラウゼヴィッツを引用しながら、あらたな政治理論の可能性を模索している例に触れておきたい。

 たとえば『暴力の哲学』という著作において酒井隆史は、さきほど触れた「新自由主義」的価値観のなかで「政治的なもの」がことごとく「経済」化されていく現状において、シュミット的な「政治」を批判的に吟味し再定義したうえで、それを再導入する必要を主張している。「新しい貧困」や「ワーキング・プア」といったことが社会問題となりながら、その現状を直接・間接に肯定・温存してしまうのは、「新自由主義」と「ポストフォーディズム」が連携しながら社会に充満させている「自己責任」という価値観である。冒頭でも触れたように、厳しい「競争社会」において「勝ち組」として「生き残る」ためには、あらゆる職場環境に「対応可能=フレキシブル」な「能力」を普段/不断(二四時間)の努力で身につけることこそが「自己管理(あるいはマネジメント)」であり、その意味で「貧困」とは「経済的人間〔ホモ・エコノミックス〕」たる「個人」の「自己責任」となる。

 この「経済優先」の価値観が隠蔽しているのが、「資本家」による「労働者」の搾取という古典的かつ「政治」的な構造であることはいうまでもない。酒井の言葉を借りれば、「日本では労働組合も学生も対抗性をほとんど失っていて、〈政治的なもの〉は、ほとんど政策的な違いのない二つの政党の競合に収斂されつつある」(154)。シュミット的にいえば、労働者/資本家という友/敵関係、つまりは「貧困」という事態の根本にある「敵対性」=「政治的なもの」が「経済(競争)原理」によって覆い隠されていると言い直してもよい。シュミットのいう「政治的なもの」=「敵対性」の前提には、クラウゼヴィッツの場合と同じく、主権国家間の「敵対性」があった。しかし酒井はその本来の定義を修正しながら、現代の私たちの社会における「政治的なもの」の「経済」化という新自由主義的な価値観へ介入しようとしている。つまり国家間の「敵対性」ではなく、国家と個人、あるいは経営者と労働者の間の「敵対性」としての「政治的なもの」の再導入ということである。したがって、私たちは、シュミットの本来の意図を書き換えながらも「カール・シュミットになら」いながら「『正しく』敵対性を定める必要がある」(154)。あるいはクラウゼヴィッツの定義を「転倒」させて「政治は別の手段をもってする戦争の延長である」というテーゼから出発する必要がある(85)。

 酒井による「政治的なもの」の再導入という議論の射程は「暴力」の非「政治」化という問題にもおよぶ。つまり「新自由主義/ポストフォーディズム」的な価値観の全面化のなかで、「政治」的な暴力ともいうべき「垂直」の暴力が「水平の暴力に内向する」(28)傾向がそれである。ここでいう「垂直」の暴力とは、労働者による資本家への広義の暴力、つまり階級的=政治的な闘争と考えてよい(ここでは階級的抑圧が垂直軸として想像されている)。いっぽう後者の「水平の暴力」とは、たとえば北米における「アフリカ系アメリカ人」と「プエルトリコ系」の抗争、「ドメスティック・ヴァイオレンス」一般(28)のことなどを指す。つまり、本来は「政治的なもの」である搾取の(垂直の)構造が巧妙に隠蔽され、「正しく敵対性を定める」ことが困難になった結果、同じく搾取をされた階層同士の間に相互に(水平に)暴力が向けられる事態がここで洞察されている。ここで私たちが即座に想起するのは、あの秋葉原における無差別殺傷事件であるだろう。昨今の「新自由主義」と「ポストフォーディズム」的搾取の典型的な対象である人物が、それゆえに「正しく敵対性を定める」ことができなかった(できなくさせられた)ゆえの「水平」の暴力を、あの無差別殺人に見ないことはむずかしい。

ここでふたたび「戦争=政治」論

 「政治的なもの」の「経済」化――このような事態を、私たちは今日の「新自由主義/ポストフォーディズム」的な搾取の構造に見ることができる。この点に関して、『新自由主義と権力』の著者である佐藤嘉幸は、フーコーの『生政治の誕生』を参照しながらこう論じている。

新自由主義的統治において、経済的なものが政治的主権を生産していると、フーコーは述べている。経済、あるいは経済成長こそが国家に政治的正当性を付与しているのであり、その政治的審級は経済的審級に対してその自律性を失い、経済に侵食されることになる。(28)

まさに私たちにとって既視感に満ち満ちた光景である。しかし、こういったいわばマクロのレベルだけで「経済的なもの」の全面化が進行しているのではない。こういった全体的な趨勢を個人的な価値観(イデオロギー)として私たちが内面化することを促進=自然化しているのが、これまで触れてきた「競争」をめぐるレトリックである。このレトリックにより、経済的な搾取の「垂直な」構造が「水平化」され、各個人間の「二四時間」の「自己管理」が「戦い=競争」として要求されることにもなるわけだが、それはすでに見たとおりだ。これを国家=資本による「戦争」の修辞学的な搾取と呼んでみたい。

 私たちが「戦争」という言葉を鍵語にした理由がここにある。現代日本における「生」を思考するために、「戦争」をめぐるクラウゼヴィッツやシュミットの議論に触れたのは、一見したところ迂遠な作業に見えたかもしれない。しかし私たちは日本語における「戦争」という言葉の修辞的な搾取に抵抗するために、あえて日本語にはないドイツ語 Krieg=kriegen(戦争=獲得)の含意を日本語に導入してみたい。本来は私たちのものであるべきもの(そこには具体的な賃金はもちろん生活のための時間すら含まれる)が不当に経営者に搾取され、しかもその構造が「競争原理」という経済用語〔レトリック〕によって自然=当然化されている現状。これに抵抗するためには、「垂直」の権力構造(労働者/資本家)に「正しく敵対性を定め」つつ、私たちの本来の利益=権利を「獲得=戦争」しなければならない。それは「経済的なもの」の全面化に対する「政治的なもの」の再導入にほかならない。本来は「垂直」に向けるべき「戦争=政治」を「経済=競争」に修辞的に横領され、それを「水平」の「競争」へ方向付けることを強いられる「新自由主義」。これへの「闘争=戦争」は、まずは言葉のレヴェルでの搾取に対する抵抗となるべきだ。

 言い換えれば、この抵抗とは、「戦争」を主権国家の独占物と考えたクラウゼヴィッツやシュミットの思想の批判的な再定義である。この作業は「戦争=政治」をまずは「個人」へ、もっと正確にいえば「国家」に還元されない「個人」からなる「コミュニティ」へと取り戻すために必要=必然的な第一歩となるはずだ。このように「経済」による「政治」の隠蔽という新自由主義的状況に対して、レトリックのレベルで介入をすることは、「政治=戦争」の「個人(たち)」への奪還を意味する。そしてその意味は二重となる。まずは、「戦争=競争」の修辞学的な収奪において「個人」が「新自由主義/ポストフォーディズム」により全面的に支配されてしまう現状への介入がひとつ。さらに、すでに見た「個に対する全体の圧倒的優位」としての文字通りの(字義的な)「戦争」を批判するためにも、私たちの議論は有効であるはずだ。「政治」よりも「経済」が優先されるなかで、それゆえに字義的かつ大文字の「戦争」に対する批判が抽象的に響くなかで、「政治」を再導入することはこの「政治的な」批判を有効に機能させる第一歩ともなるはずだ。それは比喩的にも字義的にも「国家」に独占された「戦争」を批判するために本質的な立ち位置となる。

参 考 文 献 (リンク先をご覧ください)

出典:『文化と社会を読む 批評キーワード辞典』

〈著者紹介〉
遠藤不比人(えんどう ふひと)
成蹊大学文学部教授。
専門は 20 世紀イギリス文学・文化。

著書に『死の欲動とモダニズム――イギリス戦間期の文学と精神分析』(慶應義塾大学出版会)、『情動とモダニティ──英米文学/精神分析/批評理論』(彩流社)、共著に『知の教科書――批評理論』(講談社選書メチエ)、『文学研究のマニフェスト――ポスト理論・歴史主義の英米文学批評入門』(研究社)、翻訳にトッド・デュフレーヌ『〈死の欲動〉と現代思想』(みすず書房)、ジョージ・マカーリ『心の革命——精神分析の創造』(みすず書房)など。

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