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目借時

 午後イチの古典の授業っていったら、そりゃあもう地獄っしょ。
始まってまだ十三分。どうあがいてもまぶたがくっつきそうで、俺はノートをとるふりをして、すでに六回はあくびをかみころしている。新学期早々、居眠りをするわけにもいかないし。
いや、まてよ。
眠気と戦おうっていう崇高な態度だからこそ地獄なのであって、この心地よさに身を任せてしまえば、まさにここは天国なんじゃないか? なんたって二年になって最初の席は窓際で、今日も心地よい春風が吹いていて、しかも右斜め前にはあのコが座っている。
夏目あおば。
そう、この角度から見る彼女は、俺的にいちばんかわいいと思う。肩までの髪を耳にかける仕草がいい。小さくてまるっこい耳、すっとした頰のラインがたまらない。黒板を見るふりをして今日も見つめ放題だ。一年の時は隣のクラスだった彼女とは、ほとんど喋るチャンスがなかった。というかこの一年間、そんな余裕は全くなかった。
入学時に、俺は密かに誓いを立てた。それは、女子に一度も、
「キモい」
と言われずに高校を卒業することだ。男に言われてもスルーできる。だが女子はいかん。ヘタしたら軽くひと月はひきずってしまう。
簡単に口にできる三文字で、俺の柔らかメンタルをえぐらないでくれ!
そう心から願っているのだ。どうかご理解いただきたい。
我が名は春人。はるひとではなく、はると、と読む。が、小学生の時に幼馴染みがシュントと呼び出し、中学時代には、サッカー漫画が流行ったせいでシュートに変換されてしまった。全くいい迷惑だ。なぜって俺は、サッカーはおろか球技全般が壊滅的に下手くそな、作家志望の十七歳だからだ。暗いとレッテルを貼られてしまう文芸部に所属し、誰かに分けてやりたいほどのあり余る妄想癖のある俺が、今までキモいと思われないようどれだけのエネルギーを費やしてきたか。それはもう、ごく普通の奴らには決してわからない、血の滲むような努力の連続だった。
口に出す言葉には細心の注意を払うのは当たり前。頭に浮かぶアレヤコレヤのうち、口にするのは五分の一に減らす。一文は短く話し、集団行動には決して遅れを取らず、運動はそこそこできるとアピールするため、毎朝のランニングは欠かさなかった。走った後は軽くシャワーを浴びてから制服に着替え、二つ年下の妹に、だらしなく見えないかをチェックしてもらった。そのおかげで、まぁ可もなく不可もなく、という無難な奴のラインをどうにかキープし、女子にキモいと言われることなく一年を終えることができたのだ。二年になり、夏目さんと同じクラスになれたことも、日々の奮闘を見た神様が、褒美をくれたものと密かに思っている。とはいえ、卒業というゴールはまだ遠い。油断は大敵。細心の注意を払いつつ、かつ平和なスタートを切れた喜びを謳歌しつつ。今日も俺は、教壇に立つ先生を見ているふうをよそおって、自然に夏目さんの姿を視野に捉え、至福のときを過ごしているというわけだ。
話を彼女に戻すが、夏目さんは、左利きで演劇部で、可愛いのに裏方志望で、脚本も書くって噂で、そんでもって姿勢が良くて、いつだってきちんと前を向いてノートをとっている。そのとり方に、彼女なりの強いこだわりがあると、俺はこの二週間で気がついた。
授業が始まると彼女はバインダーから一枚のルーズリーフを取り出す。何色かの紙を用意している様子だ。そしてここがポイントなのだが、ルーズリーフに合わせた色のペンを使うのだ。ブルーのルーズリーフには青のペン、クリーム色にはオレンジというふうに。それが彼女なりの、記憶にとどめるやり方なんじゃないかと俺は踏んでいる。今日は目に優しい若草色のルーズリーフに、緑色のペンで黒板の文字を書き写している。
静かな教室に、カツカツ、とチョークを黒板に走らせる音だけが響いている。
カツカツカツ
カツカツカツカツ
カツカツカツカツカツカツ……
さすがにカツカツ、の音が続きすぎて、皆が顔を見合わせ始めた。
 風光る、山笑ふ、春の海、遠足、石鹸玉、草餅、猫の恋……。
教科書も何も見ず、延々と季語を黒板に書き続けているのは結城先生。今年からうちの高校に来た、文芸部の新しい顧問だ。先生は、ゴールデンウイーク明けの授業で句会をやろうとしていて、かなり張り切っている。すでに黒板の八割が、ものすごい達筆で埋め尽くされようとしているが、一向に後ろを振り返らない。先生が背中を向けているのをいいことに、皆がコソコソと話を始めた。どんだけ書くの? とクスクス笑っている奴もいる。みんながふわふわと笑ったり揺れたりしているのに、先生の背中を見つめる夏目さんだけが、止まって見える。
ついに黒板を季語で埋め尽くした先生が、ようやく前を向いた。
「このように春の季語には、寒い冬が終わったという喜びを感じるものがたくさんありますね。初めて俳句を作る人に、もってこいの季節だと僕は思います」
自分のことを僕、というこの先生は、この人怒ることがあるんだろうか? と思わせる平和な顔だちをしている。なんとかっていう超人気の俳優に、笑った顔が似ていると文芸部の女子たちが色めき立っていたけれど、俺は前の顧問のやまちゃんの方が好きだし、ずっと男前だったと思う。
「さて、この中で」
黒板を指し、先生はくっと笑った。
「さすがに書きすぎました。全部写さなくていいですよ。あとでプリントを渡しますから」
軽くイラッとするほど爽やかに微笑むと、こう続けた。
「この中で、気になる季語はありますか?」
緑色のペンを持ったかわいい左手が、遠慮がちに挙がる。
「あの……その、蛙って漢字のついてるそれ、なんて読むんですか」
「ああこれは、かわずのめかりどき、と読みます」
先生は、蛙の目借時、にひらがなをふった。
「春は暖かくてついウトウトしてしまいますよね。それは蛙が人の目を借りているからだ、という説があり、そこから生まれた季語です。ユニークですよね」
先生の言葉に頷きながらノートをとる夏目さん。その姿を見ながら俺も、蛙の、とノートをとろうとした。
あれ?
なぜか右手に力が入らない。頭がぼうっとして、猛烈な眠気が襲ってきた。
あ、ダメだこれ。抗えないやつだ。
すーっと、先生の声が遠のいていく。
ふわふわと心地よい風に抱かれている感覚。ああ、ついに眠気に負けてしまったか。でもいい気分だ。今日は良しとしよう。戦士にも休息は必要だ。
淡い眠りの中で夢を見た。なんと俺は、夢の中でも授業を受けていて、ちゃんとノートをとっている。いったいなんの授業だろう? 先生の姿はぼやけていてわからない。男の人のようだけど。しかも、夢の中の俺は普段よりよっぽど真面目にノートをとっていて、かなり綺麗な文字を書いている。
偉いじゃん、俺。
でもなぜか俺の指は細くて白くて、手にしているペンが若干大きく見えた。ふとノートの隅に目をやると、
結城先生の誕生日って、いつだろう?
緑色の文字でそう書いてあるのが、はっきりと見えた。
 
「おい、シュート、シュート!」
後ろの席の奴が、俺の椅子を思い切り蹴った。
ん? 
顔を上げると、先生がじっとりとした目で俺を見ている。
「おはようございます、川津春人君」
 クスクスと笑い声が起こる。ヤバい……。
「蛙に目を貸しちゃっていたように見えましたけど。大丈夫ですか?」
 うわ、勘弁してよ先生。そりゃ居眠りした俺も悪いけどさ、文芸部の部員だからってフルネーム知っているからって。お願い突っ込まないで。見逃して。
「あ、いやはい、全然大丈夫です。そんなことより先生、大事な質問が」
「はいなんでしょう」
「ええと、えーと」
 本当は質問なんてない俺の頭に、ふと、さっき夢で見た文字が鮮明に浮かんだ。
「あの、先生の誕生日っていつですか?」
どっと笑いが起こって、チャイムが鳴った。助かった、みんな笑ってくれた。しかもタイムアップだ。安心した俺の目に、見たことのないくらい驚いた顔の、夏目さんが映った。
「誕生日ですか? 教えたらプレゼントでもくれるのかな?」
先生は笑うと、
「ええと、ちょうど句会を予定している五月十四日……だったら良かったのですが、その一日前が誕生日です」
教科書を教卓でとんとん、と整えながら言った。
「牡牛座かぁ。先生、血液型は?」
「先生って、何歳ですかー」
数人の女子から、次々と声が上がる。
ええ? 結城先生って、そんなに人気あるの?
俺だけでなく、他の奴らの驚きと落胆がジワリと伝わって来た。

次の授業は化学の実験で、皆、足早に実験室へと向かう。教室はあっという間に人がいなくなった。俺をのぞいて。
なんか疲れた。もう帰りたい。
よっこらしょ、と立ち上がったところに、誰かが教室に戻って来た。
夏目さんだ!
「あの、川津君」
「へっ? なな、なに?」
や、やば。あんまり驚いたせいで、変な声が出てしまった。夏目さんは、黙って俺を見ている。そうだ彼女、さっきものすごく驚いた顔をして俺を見ていたんだった。何か変なことしちゃった? この沈黙をどうにかしたいけれど、自分から言葉を発せられない。
「み、見てないよね? 私の……」
「なっ、なにを?」
心臓がバクバクと騒ぎ出す。
見てます見てます、めっちゃ見てます夏目さんのこと! しかも毎日! 
やばい、気づいてた? もしかして俺、キモい目で見てた? 
どわっと汗が噴き出す。
「あ、あのね、見えてないよね?」
「え? 見えてない? なにが?」
「あ、ごめん、ごめんね。変なこと聞いて。忘れて」
夏目さんは、くるりと背を向けた。と思ったら、もう一度振り返った。
「あのね、川津君、ありがとう」
そう言うと、嬉しそうに教科書を胸に抱いて走って行ってしまった。
ありがとう? なんで?
俺は、力が抜けてその場に座り込んだ。良かった。キモいって言われたら、うっかり死ぬところだった。ああ、なんかものすごく……腹が減った。
                    
                     


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