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神様になったレン兄ちゃん

 新しい鼻緒が足にここちいい。太一のはずんだ息が白くぽわんと広がって、すんだ空気にとけていく。新しい年が明けて間もない朝。下駄の音が、カラコロとうれしそうに海辺の町に響いている。太一はおとなりの庭に飛びこんで、「レン兄ちゃーん」と大きな声を出そうとして、はっと息をのんだ。

 椿の木の根もとに、一羽の鳩がおちている。

 大きな赤い花がきれいな形のまんま、ひとつだけ、灰色のその小さな体によりそっている。とつぜん目に入ったその景色は六歳の幼い太一の目に、こわいというよりは美しいもののように写った。鳩はぴくりとも動かない。おそるおそる近づいてみる。

「死んでるの? ねぇ、生きてるの?」

 声をかけてみても、やっぱり動かない。そうっと人差し指でつついてみる。

 あたたかい!

 両手ですくい上げたしゅんかん、自分でもおどろくくらい大きな声を出していた。

「レン兄ちゃん! おおごとだ」

 つまずきそうになりながら縁側にどすんと座る。

「どうした? 大きな声を出して」

 ひょろりと背の高い、優しい目をした青年が姿をあらわして、並んで腰をおろす。

「鳩が、鳩が。どうしよう」

 ふっくらしたほほをして、太い眉ねをぎゅっとよせている太一を見て、レンはかすかにほほ笑んだように見えた。

「どこにいたんだ?」

「あそこの椿の木の根もと」

 太一はあごをしゃくってその木を見た。

「そうか。巣からおちたんだろうか」

「ねぇ、兄ちゃん。あたたかい。まだ生きてる」

 太一に抱かれるままになっている鳩の姿から、もう先が長くないことは、レンにもすぐにわかった。

「ね、だいじょうぶだよね。兄ちゃん」

 レンは太一の頭に手をおいた。

「太一、残念だけど、もう助からない」

「ええっ」

 さらに眉ねをよせた太一に、レンはおだやかな声でゆっくりといい聞かせた。

「この鳩はな、もうすぐ命を終える。だから見つけたお前がみとってやるんだ」

「みとる?」

「死ぬとき、そばについていてやることだよ」

「ほんとに助からないの? まだあったかいのに」

 消え入りそうな声に、レンはうん、とゆっくりうなずく。

「お前が、この鳩と出会ったのも何かの縁だ。こうして太一に抱かれて、鳩もよろこんでいると思うよ」

 口をゆがませて、しばらくだまっていた太一がぽつりといった。

「こわいよ……」

「こわい?」

「うん。だって、死んだカエルやミミズは見たことがあるけど、生き物が死ぬところは見たことない」

「そうか、初めてか」

「兄ちゃんは、ある?」

「うん。兄ちゃんが太一くらいのときに父さんが死んだけど、そのときそばにいた。カエルとくらべたら母さんにしかられるから、ナイショな」

「こわくなかった?」

「うーん。こわいというか、信じられなかった。ずっと病気で寝ていて、そのときも手をつないでいたんだ。『ごりんじゅうです』といわれても眠っているようにしか見えなくて。でも、そばにいてよかったと思ったよ」

「どうして?」

「母さんが、『お前がそばにいて、父さんもうれしかったろう』と泣いていたから」

「ふうん」

 太一はそれきりだまってしまった。

「よし、じゃあこうしよう」

 困った顔で鳩を抱いている太一の腰のあたりをレンはかるがると抱え、ひょいと自分のひざに座らせた。十七になるレンは、痩せていて太一の父よりも二寸(六センチ)は背が高い。背中がレンの胸にふれて太一はほっとした。肩の力がぬけたのがレンにも伝わった。

「なあ、太一。鳩に『おつかれさん』ていってやろう」

「……」

「ひとりぼっちで死んでいくのはさみしいからさ」

「うん……」

「オレもいっしょにいるから」

「わかった」

「よし、えらいぞ。寒くないか?」

「うん、だいじょうぶ」

 レンは太一の頭をごしごしとなでると、大きな手で太一の小さな手をまるごと包む。

「ねえ、この鳩は、いっぱい飛んだかな」

「ああ、きっとね。うらやましいよ」

「レン兄ちゃんも空を飛びたいの?」

「そうだなぁ。高いところから下を見てみたいな。家がマッチ箱みたいに見えるくらいの高い空から」

「うわぁ、ぼくは高いところはニガテだ」

 そういいながら、太一は、ぶらぶらと足をゆらした。

「お? 太一。新しい下駄だな」

 その言葉を聞くと、太一の顔がぱあっと明るくなった

「うん! この下駄を兄ちゃんに見せたくて走ってきたんだ。お母ちゃんからもらった」

「そうか、よかったなぁ」

 太一は両足をぴんとのばして見せた。

「それでね、これをくれたとき、母ちゃんがすごくおもしろかったんだ。父ちゃんの口まねして、『いいか。ふだんはぞうりをはいて雨の日だけ使えば長持ちする。一年間、だいじにはくんだぞ』って」

「その口まね、にてたのか?」

「うん。にてたなんてもんじゃない。そっくり。それでね……ふふっ」

 太一はそのときのおかしさがこみ上げてきて、しかたがないというふうだ。

「お餅にまいていたのりをね、はがしてね、眉げにくっつけてしゃべったんだよ! もうおかしくて、おなか痛くなっちゃった」

 くっくっと肩をゆらす。そのしんどうがレンにはここちいい。

「そうかぁ。お前の母ちゃんは人を笑わす名人だもんな」

 そういいながらレンは、中国の戦争に行ってもう二年になる太一の父・守と、太一のために明るくふるまっている母・千代の笑顔を思いうかべていた。太一が四つのときに出兵した守のことを、しっかり覚えていられるように、千代は口まねをしているのではないかとレンは思った。ユーモアがあってさっぱりとした性格の彼女には、自分も母親もどれだけ救われていることか。父親が死んで、母ひとり子ひとりになって悲しみにくれていたとき、となりに越してきた二人。けんかも笑い声もよく聞こえる新婚夫婦が、どんなに明るさを届けてくれただろう。

 引っ越しの挨拶にきたのは、まだ太一が生まれる前のことだった。「大工をしているので、屋根の修理なんかはまかせてください」と守は少し高めの声でいった。太い腕で大きなりんごをにゅっとレンの鼻さきに突き出し、大きな口でニカッと笑った。そのとき、レンは七歳。眉の太いおじさんだな、と眉ばかり見つめたことを今でも覚えている。

「はっ」

 ぶらぶらしていた太一の足がぴたりと止まった。

「どうした?」

「今、すこし鳩が軽くなった」

 太一の肩に力が入っているのがわかる。レンは両手に力をこめたあと、しずかにいった。

「お空にのぼっていったんだ」

「お空に?」

「うん。まちがいない。うちの父さんも、高い空にのぼって星になったんだ。母さんがそう教えてくれた」

「そうか、星になるのか」

 そういえば、太一もそんな話を聞いたことがあったのを思いだした。亡くなったご先祖さまは、キラキラした星になって見守ってくれているって。太一は、じっと鳩を見つめたあと、何かをいいかけてやめた。そしてもう一度口を開くと、なんどもうなずきながらいった。

「飛んでいた空より、もっともっと高くのぼって、星になるんだよね」

 太一の肩がすこしふるえている。不安な気持ちをこらえているのが、レンにはわかっていた。

「きっと太一にありがとうっていいながら、のぼっていったよ」

 太一の肩のふるえが止まった。

 小さな手の中で鳩は少しずつ冷たくなっていったけれど、太一はふしぎと、もうこわいとは思わなかった。大きなレンが両手をしっかり包んでくれていて、背中もほかほかと温かかった。

 その年、一九三九年(昭和十四年)の秋、レンはとなりの茨城県にある土浦航空隊に入隊した。

 守が中国から復員したのは、そのひと月ほど後のことだった。その日のことを、太一はよく覚えている。日に焼けた守の顔。軍服はひどく汚れていて左足をひきずっていた。ぎゅっと抱きしめられたら、苦しくて臭くてとても痛かった。

 

 それから二度目の桜が咲いた一九四一年(昭和十六年)の春、太一は二年生になった。始業式の朝、登校した太一の足が校門の手前でふと止まった。一年生の終業式のときと、なにかが違うと感じたのだ。

「あ」

 学校名が書かれている看板が新しくなっているのに気がついた。その削ったばかりの板の明るさに違和感を感じたのだ。そこには、見なれない漢字が書かれていた。

「国という字に、ええと『民』と書いてある。なんだろう?」

その疑問に、校長先生はあいさつのいちばんさいしょに答えてくれた。「尋常(じんじょう)小学校」と呼ばれていた学校が、今日から国民学校になったと先生はおっしゃった。それから、あなたたちは今日から小学生ではなく、少国民です、とみんなの顔を見わたした。

「みなさん一人ひとりが、軍国日本の国民、たいせつな一員だということです。戦場で戦っている兵隊さんたちをうやまい、先生のいうことをよく聞き、物を大切にしましょう」

 校長先生の話はいつもより声が大きくて、たのもしい感じがした。それに、自分たちは兵隊さんと同じ、だいじな存在なのだといわれた気がしてうれしかった。

 家に帰って校長先生の話をすると、守はふんっと鼻をならして、横をむいてしまった。今日も昼から酒を飲んでいる。足はすっかりなおっているのに、ときどきしか仕事をしない。太一は、学校の話なんてしなければよかったと思った。千代は今日も近所の畑しごとを手伝い野菜をわけてもらっていた。それで煮物をつくりながら、太一が学校に持って行くぞうきんを縫っている。

(母ちゃんが座っているのは、ご飯を食べるときと、縫いものをしているときだけだ)

 そんな気持で千代を見つめていたら目があった。笑った目が、だいじょうぶよ、といっているみたいだった。

 

 学校で、中国では国の中で争いが続いていて、野蛮(やばん)な中国軍が苦しめている民を日本軍が助けているのだと教わっていた。だから太一は守にたずねたことがある。

「父ちゃんは、どんなふうに戦っていたの? 中国の人をたくさん助けたの?」

 そのことばを聞いた守は、太い指で太一の頭をいたいほどなでくりまわした。おこっているような悲しんでいるような、なんともよくわからない目で、太い眉をぎゅっと真ん中によせたまま、太一の質問には何も答えなかった。

 「人がかわった」と、近所の人がだれかのうわさをしているのを聞いたのもそのころだった。大人たちが立ち話しているところに通りかかって、太一の顔を見たらすぐに顔色がかわって会話が止まったし、守のことなのだろうと予想がついた。それも、悪いふうに変わったといっていることも。悲しかったけれど、千代にはいえなかったし、こんなとき、レン兄ちゃんがいてくれたらなぁとため息が出た。

 太一は、四つのときから二年間もそばにいなかった守が、出兵前にどんな性格だったか、そう詳しくは覚えていない。はっきり覚えているのは、歌舞伎役者のまねをして、大きな目をより目にして笑わせてくれたことくらいだ。復員してからは無口で、あんまり笑わない。ぼんやりしているかと思うと、ふらりと出かけてしまうこともある。でもそんな守を千代は大好きだというし、千代はいつも元気で明るいし、そう悩んだこともなかった。

 ある日きゅうに思い出した。それは守が中国に行ったばかりの冬、小学生たちが提灯(ちょうちん)をもって行列をしていた日のことを。

「ばんざーい」

「ばんざーい」

 みんなうれしそうに声を上げながら笑いながら歩いていた。提灯の光がユラユラゆれて、とてもきれいだった。あのとき四つだった太一はその列に加われなくて、すごくうらやましかったのだ。あれは兵隊さんたちのおかげで、中国の南京という町を日本が占領したお祝いだと聞いていた。そうだ。父ちゃんが中国でどんな活躍をしたかを聞いて、みんなに話せばいいんだ、と太一はひらめいた。それはすごいと感心する人もいるんじゃないかと。

「なぁ父ちゃん、聞かせてよ」

 太一は居間で寝転がっていた守を揺り起こし、何度も頼んだ。すると、がばっと起き上がった守は、見たことのないおそろしい目をして、太一をにらみつけ、ひとこといった。

「もう、二度とそれをいうな。わかったな」

 そのときの父の声は、身がすくむほどこわかった。

 

 そして翌年、一九四二年(昭和十七年)の夏になった。

 三年生になった太一は、その朝、ぺらぺらのナスが浮かんだ朝ごはんのみそ汁を飲んでいた。ナスを一切れそうっとハシでつまんで、目の高さまで持ち上げた。

「今日はまた、いちだんと薄いぞ。向こうが透けて見えそうだ。こりゃあ母ちゃんの新記録かもしれん」

 土間で茶碗を洗っていたモンペ姿の千代が、こわい顔をして、くるりと振り返る。

「太一! ふざけてないでさっさと水くんできな! 瓶の下のほうしか残ってないよ」

 ムギ飯の粒がくっついた茶碗に汁をうつして一気に流しこむ。共同の井戸まで二分で、水瓶をいっぱいにするのに五往復だ。

「今日も暑いからしんどいなぁ。でもこれをやらないとセミとりに行かせてもらえないし」

 ぞうりを履いて、天秤棒(てんびんぼう)を肩にかける。水をいっぱい入れて運べば早く終わるけれど、途中でけっきょく水をたくさんこぼしてしまう。だから六ぶん目くらいまで入れて運ぶ。それでも重くて、三年生で体の大きな太一でもゆっくりしか歩けない。朝飯のあとでもまだ腹がへっている身には大しごとだ。ガラリと戸を開けると、表でザッザッと音がした。まるで兵隊さんみたいに足並みをそろえて数人の大人が家の前を通り過ぎたのだ。そのあとには、ガヤガヤとついて行く近所の人たちの気配。縁側で新聞を読んでいた守が、太一のよこをすり抜けて、はだしで表へ飛び出した。太一と千代もその背中を追う。小さな畑をはさんだとなりの家の前に、男の人が五人、いや六人、背中をぴんと伸ばして一列に並んでいる。玄関から出てきた雪子おばちゃんが、頭の手ぬぐいをはずしたのが見えた。

「朝早くから申しわけございません。中島レン殿のお母様、雪子さまでいらっしゃいますか」

 お腹の出たえらそうなおじさんが、白い布をかけた箱をだいじそうに抱えている。強い日の光をうけて、その白が光って見える。

 あれって、町長さんだよな。なんで朝からこんなところに?

 雪子は、両手で手ぬぐいを握りしめると軽くうなずいた。町長が、ゆっくりと息を吸う。

「息子殿は、昨年十二月八日、かの真珠湾で米戦艦(べいせんかん)を沈没せしめた軍神(ぐんしん)のお一人であったとの報告を受けました!」

 おお! とまわりから声が上がった。その反応を見て町長の声がもっと大きくなる。

「中島レン殿が搭乗(とうじょう)された飛行機は、惜しくも敵弾(てきだん)を受けて火を発し、巡洋艦(じゅんようかん)に体当たりされ壮絶なる自爆を遂げられたそうです。ご子息は、わが町の誇りであります!」

雪子はだまって、石のように動かない。

「近日、町を挙げて慰霊祭をとり行いますので、その日程はまた後ほど」

 つばを飛ばしてしゃべり終えた町長の顔が真っ赤だ。正面に立っている雪子の顔は青白く見える。手ぬぐいをだらりとさげた手をにぎり、白い布がかけられた箱を掲げるようにわたすと、町長たちは最敬礼し、もとの道を一列に並んだまま帰って行った。その一行の姿が見えなくなると、雪子は箱を抱えたまま、がっくりと膝をついた。

 急にセミの声が、雨のように降ってきた。

 雪子はほうけたような顔でまったく動かない。千代はそんな彼女の肩を抱きながら目を伏せ、守はだまったまま、ものすごくこわい顔をしていた。集まっていた人たちは、鬼のように目を見開き、今にも噛み付きそうな守の顔を見ると、だまって家に帰って行った。太一の心臓の音はどんどん早くなって、その鼓動が指先まで響いた。

 半年前の十二月八日、たった六十数人の日本の兵隊たちが、大きな軍艦を沈没させて、二千人以上の米国兵をやっつけたという話を、太一は毎日のように先生から聞いていたし、作文も書いた。

「この戦いで命を落とされた軍人さんは、神様となられて、大日本帝国が勝利するのを見守ってくれているのです」 

 先生はこぶしを握りしめて話すと、黒板に大きな字で「軍神」と書いた。生徒たちは何度もその字を帳面に書いた。

 さっき、町長さんは確かにいった。レン兄ちゃんが、米国の軍艦をやっつけた一人だったって!

 家に上がるとすぐ、太一はこうふんした声を出した。

「すごいね父ちゃん! レン兄ちゃんは軍神になったんだよね」

 その瞬間、太一の体がふっとんで、ふすまに叩きつけられた。父の顔が鬼みたいだ。左のほっぺたが、焼けるように熱い。

「いいか。雪子さんの前で、二度とその言葉を使うんじゃあないぞ」

 耳がきいんとして、こわくて、太一はそれいじょう何もいえなかった。

 

 町長がやってきた次の日、レンの話は町中に広がっていた。太一の学校はレンの母校でもあるから、軍神の後輩にあたるということで、みなこうふんして熱気に包まれていた。登校すると囲まれて質問攻めになった。

「太一君のおとなりのお兄さんだったんでしょう?」

 話したことのないとなりの組の女の子まで、太一をたずねてきた。初めてのことで、なんだかいい気分だ。

「レン兄ちゃんは、ぼくのほんとうの兄ちゃんみたいな人だよ。いつも遊んでくれたし、夕飯もよくいっしょに食べていたし」

 それを聞いて、わざと大きな声を出すやつがいた。

「なにいばってんだよ。お前がえらいわけじゃないんだぞ」

 そいつのとりまきたちも、そうだそうだと口をそろえる。

「それに、なんだよお前のほっぺた、片方だけはれてんぞ。頭がおかしくなった父ちゃんに殴られでもしたか?」

「お前の父ちゃん、もう二度と戦争なんて行きたくないっていったんだってな。オレの父ちゃんが聞いてたんだぞ」

 太一は、それまでレンのことで高鳴っていた胸がぎゅっとしめつけられ、くやしさと恥ずかしさで顔が熱くなった。ぜったいに泣くもんかと歯をくいしばった。

 次の日には、レンの使っていたカバンや学生帽、教科書が職員室前に並べられた。先生はことあるごとにそれを拝むようにみんなにいい、近くに住むお年寄りたちも、遺品に手を合わせに来るようになった。その机のおかれた壁には、大きな鳥が空を飛ぶ絵が貼ってある。レンがこの学校で描いたものが残っていたのだ。

 そうだ。兄ちゃんは、空を飛んで戦ったんだ。この鳥みたいに。

 太一は、誇らしい気持ちでいっぱいになった。

 学校から帰ると、役場の人たちがまたレンの家の前に集まっていた。太一の背丈よりも大きい柱を運んできて、玄関のわきに立てている。

 カーン カーン

 大きな音が響いて、近所の人が集まってきた。

「軍神 中島蓮兵曹長 生家」

 大きな字で書かれている。立派な柱なので、さわってみたくて手をのばすと、男の人にシッシッとされた。

「これこれ、汚い手でさわってはいかん。この柱は、軍神のご生家である証だからな。前を通るときは、必ず一礼するように」

 なんで? ぼくの兄ちゃんなのに。

 兄ちゃんは、本当にぼくのことを弟みたいにかわいがってくれていたんだぞ。ぼくのことをそんなふうに邪魔者みたいにあつかったら、兄ちゃんはこの人たちを怒ってくれるにちがいない。それから、気にするなって、頭をなでてくれて、肩車してくれて。

 ねぇ、そうだろ? レン兄ちゃん。

 太一はレンにぎゅうっと抱きつきたいと思った。

 でも、もう会えないんだ。

 イライラしていた気持ちが、すうっと引いていった。

その日から、遠くの町からも「軍神もうで」に来る人たちがあとを立たなくなった。雪子は畑しごとでどんなに疲れていても、客が来るとレンの遺影を胸に、軍神の母として立ち続けなければならなかった。毎日のように、ありがとうございます、と頭をさげていた雪子がどんどん元気がなくなってやせていく。それが太一にもはっきりとわかった。

 

 レンが土浦航空隊に入隊する前のこと。太一はひとつだけ聞きたいことがあって、お祝いの会のごちそうを食べたあと、思い切ってたずねてみたことがあった。

「ねえ、ぼくの父ちゃんには赤い紙が届いて、それから戦争に行ったんだよ。赤紙っていうの。兄ちゃん知ってるでしょ?」

「ああ、知ってるよ」

「兄ちゃんにも、赤紙がきたの?」

「いや、オレは、自分から志願した。訓練して立派な兵隊になりますって」

「どうして?」

 太一は、守が家にいなくなって、レンまで離れてしまうのがほんとうはイヤだった。でもまわりの大人たちが、おめでとう、というたび、そんなことはいってはいけない気がしてだまっていた。でも、どうしても聞いておきたかったのだ。レンのような若い者には赤紙がきていないのに、なぜ自分のそばからいなくなってしまうのかを。レンは少し困った顔をして笑うと、

「兄ちゃんは、太一がいてくれるから安心して戦いに行ける」

といった。

「太一はオレの母さんもだいじにしてくれるし。な、そうだろう?」

「うん。ぼくが雪子おばちゃんを守るよ」

 あわててそう答えたけど、「どうして?」の質問には答えてくれないんだな、と思った。

「太一はオレの弟だ。本当の母さんだと思ってくれよ」

「うん。ときどき肩を叩いてあげる。ぼく上手だから、雪子おばちゃんすごく喜ぶよ」

 うんうん、と兄ちゃんは何度もうなずいた。そして大きな両手で、太一の両手を包んだ。細くて長い指だった。

 入隊の日、たくさんの人に見送られながらレンは振り向かずに、歩いて行った。

 復員したばかりの守は、レンが入隊したことをとても悲しんでいた。守と千代が、夜中に小声で話しているのを聞いてしまったことがある。守は、レンが体の弱い雪子に、少しでも楽をさせたくて志願したのだろうとつぶやいていた。

「あんな優しい子が生活のために行かなきゃならないなんて。この国はいつまで戦争を続けるつもりだ」

 吐き捨てるようにいった守の声。

「あなた、そんなことご近所に聞かれたら」

 悲しげな千代の声が、今でも耳に残っている。

 

「太一、見てごらん。たまごを三つも分けてもらえたんだよ。おいしいたまご焼きを作るから、雪子さんを呼んできて」

 千代にいわれて、太一は隣の家に走った。すると雪子が土間でうずくまっていた。

「大丈夫? 雪子おばちゃん、具合悪いの?」

 ぼうっとこちらを見る目がくぼんでいるように見える。

「平気? 立てる?」

 雪子は木の箱を抱えてぺたりと座っていた。太一の顔を見ると、みるみる目のふちに涙がたまっていった。そしてだまって箱を開けて中にある半紙を取り出した。レンの名前がきれいな字で書いてある。

「これが……レンだというのよ」

 雪子は、やつれた顔で箱をぎゅっと抱いて、また動かなくなった。

 どうしてだろう、という気持ちが、太一の心の奥のほうからわいてくる。

 お兄ちゃんは神様になってみんなにほめられているのに、ありがとうございます、と頭をさげているおばちゃんは、こんなに苦しんでいるなんて。

「たったひとりで……心細かったろうに」

 絞り出すような声でそういう雪子の姿を見て、太一は、鳩をみとった日のレンのことばをとつぜん思い出した。

――ひとりぼっちで死んでいくのはさみしいからさ――

 そうだ。

レン兄ちゃんは飛行機で敵にぶつかっていったんだ。

 たったひとりで。

 自分のまわりの空気だけがきゅうに冷えて、体がぶるぶるとふるえてくる。

 ざりっと音がして我に返ると、雪子が立ち上がろうとして転びそうになっていた。

「あぶない!」

 さっと支えると、雪子の手は氷のようだった。あの日、冷たくなっていく鳩を抱いていた太一を、レンはだまってひざに抱えていてくれた。レンの胸にふれて温かかった背中の感覚が、ふとよみがえってくる。太一は、雪子の背中を後ろからそっと両手で包んだ。

「ぼくがいっしょにいるから」

 レンのようにいったつもりなのに、太一の声はふるえてしまった。雪子は声をもらしながら泣き出した。その姿を見ていると、どうしても思ってしまうのだった。

 もしぼくが戦争に行って立派に死んだら、母ちゃんもこうして泣き続けるのかな、と。

 

                                 (原稿用紙換算枚数 二十九枚)

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