「 歪みつつある合理的配慮 前編」

龍谷大学保健管理センター 須賀英道

ちょっと前の話になるが、車椅子の乗客が、ある航空会社の飛行機の搭乗の際に、タラップを這って登ったことが取り上げられ、航空会社に対する非難がネット上でかなり盛り上がった。車椅子の乗客への搭乗アシストがなされず、足が不自由ながらも一人で一段一段這って登ったのである。この部分を聞くと、何とひどい仕打ちを受けたのかと、車椅子の乗客の方にその苦痛や屈辱感に共感する。同時に、そうした状況を与えた航空機のスタッフとその航空会社を責める気持ちが湧き上がる。一般のマスメディアでもその部分を取り上げ、車椅子の身体障害者への支援的態度と航空会社への批判の記載がされた。その結果、航空会社の謝罪コメントがなされた。

私も当初その流れに同感であったが、多くのネットで事の詳細が明らかにされてくると、事情は大きく異なり、とても共感できず、ある意味で批判的態度に変わっていった。事の詳細が事実なのか、誰かのでっち上げなのかはわからない。しかし、今回の状況だけでなく、以前も同じような状況が繰り返されていたことを知ると、なぜ這って登ったのか、そしてその事実がなぜ公開されたのかなど、心理学的に見ておおよその推測がつく。

まず、今回の航空会社は通常価格とは比べ物にならないほど格安の航空運賃を提供していることである。車椅子の搭乗者は敢えて、その格安の飛行機を選択した。そして、搭乗前に自分が車いすを使用していることを申告せず、タラップの直前でスタッフが駆けつけて搭乗サポートをしなかったことに抗議し、這って登ったのである。

ここでの見方には、2通りがあろう。まず、いかなる場合も車いす使用者が目前に現れたら、スタッフが駆け寄り直ちにサポートをすることがサービスとして必須であるという考え方である。現在の社会では、このサポートは身体障害者が当然施されるべき権利であり、周囲もそれに答える必要があるという大前提がここにある。特に、業務についているスタッフは、そうした行為をする義務があるという見方である。確かに、周りが日常から障害者に限らず、高齢者や妊婦などの抱える弱点を慮り、自主的にサポートに加わることは素晴らしく、他者への思いやりにも繋がる健全な社会倫理の模範である。スタッフも最優先にそうしたサポートに動くことにもなる。しかし、現状では社会倫理がここまで成熟していないことを知らねばならない。つまり、ここまでの完璧なサポートをどこでも、どんな場面でも得ることは、まだできていないのが実情だということである。そして、こうした社会倫理を通念として人が共有するには、他にも優先的に対処すべき問題が現代社会には数え切れないほどあり、とてもさばききれるものではない。

すると、もう一方の見方がわかるだろう。今回がどこまでのサポートが得られて納得できるかである。まず、今回は格安チケットであったことである。メリットとデメリットで見ると明らかで、メリットは値段が格段に安いことであり、そのメリットを生み出すために相当数の条件が切り下げられている。機内空間が狭いこと、搭乗ゲートまで遠く時間のかかること、機内飲料が有料、持ち込み荷物が少ないなど数え上げればきりがない。通常価格での条件に比して低い条件を納得して、一般人も敢えて格安チケットを選択している。相当多くのプラス要素を切り詰めることで値段が落とされているわけで、そこでは、人件費を削減するためスタッフ数も減らし、機内サービスも落ちるのは目に見えている。こうしてみると、大勢の人が搭乗する際に細かな目配りをスタッフに求めるのは酷であろう。このタイプの飛行機を、車椅子の方は敢えて選択したのである。なぜか、想像はつく。サービスより値段を優先したからであり、そこにサービスが伴わなかったと不満を述べるのは筋違いである。

一般の場合でも、飲食店の選択をする際に、味、雰囲気、サービス、値段などさまざまな点を考慮し、何を優先するか意識し、最終選択となる。この場合、全てが満たされることは稀であり、どこかが犠牲になっている。それを、値段を優先して入った店のサービスが悪いと不満を言うのは元来おかしいのである。もし、サービスが思いもよらずに良かったら、得をしたように褒めることこそ、気分は良くなるのである。

このように捉えると、なぜこのような事態になったのか、今回の状況が見えてくる。搭乗者は事前の車椅子使用の申告もせず、サポートの得られない状況に自らを導き、そこでの遭遇状況を攻撃的態度として表明し、這って登った。そして、その事実をネットに公表した。その目的は一般の方への弱者アピールである。障害者である自分の境遇へ共感してもらうことと相手の航空会社への非難である。実際、以前にもこの人は、他の状況でも同じように、待遇不満についてネット公表している。意識的でなくとも、こうした状況に自らを落とし込むことは、精神科的に見るとアピール性のある演技性のもので、ある種のヒステリーとも言える。

では、なぜこうしたアピール性の行動が出ているのか。発達障害の方も含めて、多くの障害者の方は、ここまでの権利主張はしない。自分が障害を持っているからと言って、過分に周囲への負担をかけたくないと言う。サポートが得られれば、素直に感謝の念を抱くが、サポートがないからといって不満を持つような生活は送りたくないと言う。さらに、ここに大きなポイントもあり、控えめな気持ちで周囲に接することのほうが、明らかに周囲からのサポートも増えるというのである。弱点の主張は逆効果なのである。

そうは言っても、弱点をアピール性に主張することは、最近の1つの流れかもしれない。合理的配慮という言葉が叫ばれるようになったのも、この流れの最も大きな特徴である。

誰もが同じスタートラインに立てるようにするというのが、合理的配慮の基本的コンセプトである。機会均等のコンセプトで現代社会での社会倫理として当然といえる。しかし、この説明の例としてよく取り上げられるのが、高い塀の向こうにある物を見る際のサポートである。高い塀の向こうにある物を見ることの可否が、生来の背の高低で事前に決まってはならず、背の低い人には踏み台が利用できる環境でなければならない。これが合理的配慮だという。この例は、一見するとわかりやすいが、具体的ケースに当てはめると極めてわかりにくい。どこまでのサポートが可能なのかが不明瞭なのである。

高い塀の向こうにある物を見るといっても、自然に目に入るといった受動的場合から、短時間に的確に視覚情報を得るといった積極的な場合まで幅が広い。自然に目に入る状況に置かれればそれでいいといったレベルにとどまれば問題ないかもしれない。しかし、自然に目に入っても、見えたものが使えなければ意味がないといった不満も生まれる。ここが大きな盲点である。本来、見ることができる機会を誰もが得られるといった機会均等の次元であったことが、知らない間に、誰もが最終的にしっかり視覚情報が得られるようにすべきだという意見にすり替わっていくことである。このことは結局、最終結果も平等にするような流れになりかねない。

どうしてこうした流れになるのかを見てみたい。高い塀の向こうにある物を取得するといった最終目標を設定すると、見る機会と得る機会のそれぞれに機会均等が生まれ、そこに各人各様の具体的で詳細なスタートラインが何本も生じる。その数多くあるスタートラインに立つことがサポートされると、結局は自然にゴールインしていることになるのである。

高い塀の向こうにある対象を取得するために、踏み台を提供するのは、初回では納得できる。しかし、障害者にとって、踏み台に乗っても健常者と同様に対象が見えるわけではない。見ることができる時間が短かったり、視力が弱かったり、対象の理解力や判断力が弱かったり、数え上げると限りないほどの弱点がある。さらに、手が短かったら対象に手が届かない。対象を掴む握力、引き寄せる力、落とした時に再度拾う力など、ここにも限りないほどの弱点の側面がある。そこを逐一サポートしていくと、結局は全面サポート、すなわち最終的にゴールレベルの結果が提供されることになる。元々、障害者の弱点は質的に0か1の視点では捉えられず、量的な視点が必要になる。こうした量的弱点の全てに対して、合理的配慮によってスタートラインを同じにしていくと、結局のところゴールラインも同じとなる。すなわち、最終結果が平等になるのである。こうした合理的配慮の視点に怖さがある。

合理的配慮が積極的にアピールされること、すなわち、弱者のアピールであるが、これが極端に進むとどうなるのか。弱点のアピールによって気軽にサポートを求め、最終結果を容易に取得することが可能となるため、それを求めようというシフトが生じるのである。ここでは、モチベーションがなくても、サポート要求によって目標が到達できる状況も生まれる。すると、ある目標(例えば、資格取得など)を達成しようとした際に、健常者がかなりの努力を掛けて達成することと、障害者が最大のサポートによって達成することのバランスが崩れてくる。バランスが崩れるとは、本来、目標達成のモチベーションを強くもち、努力によって達成し、その達成感による気分の向上から次の段階に挑むといった基本的心理構造が歪んでくることである。このことは、従来の最強の武器であったモチベーションの効果が薄らぎ、社会構造の中での役割が低下していくのである。

後編に続く

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