「 やはり勧善懲悪ドラマは癒やしになる」

龍谷大学保健管理センター 須賀英道

最近、テレビで勧善懲悪ものの時代劇があまり見られなくなって久しくなる。かつて平成の初期の頃までは、ゴールデンタイムに水戸黄門や大岡越前があった。当時はこんな単純なストーリーなんてと否定的に捉えていたが、なくなると寂しいものである。視聴率が下がったからと言われるが、必ずしもそれだけではないだろう。製作者側にその意欲が失せたことが一番ではないだろうか。なぜ、制作意欲が失せたのか。それは、ネタが尽きて、マンネリ化したという認識のもとに制作モチベーションが下がったのである。ここには視聴者視点がないがしろにされている。

勧善懲悪の時代劇のストーリーは単純明快である。起承転結を基本とした、一話完結型である。始まりは主人公の登場である。主人公は、民衆など社会的権力の弱者であり、優しさや思いやり、人との絆などの強みを生かして質素に生活を送っている。ここには平凡な中にも家族愛や地域コミュニティによる小さな幸福感の充足があり、視聴者側は、主人公が社会的弱者であることへの共感を持ち、質素であってもメンタル的に充足した人間関係の中に生きていることに安心感も覚える。

それが、些細なことから権力者の無謀な振る舞いに巻き込まれ、悲劇的な一路を辿るようになる。こうした悲劇的な状況の進展はさらに悪化し、ここに視聴者は憐憫の情が高まる。そして、その原因となる権力者に対して悪者というレッテルを張り、憎悪感をも抱かせるのである。

憎悪感を如何に高めるかには悪役役者の不吉な笑いが欠かせない。ここには主人公の弱者への哀れみと悪者への憎しみという相反する感情を同時に抱かせ、視聴者の感情を揺すぶる。そこに救世主が登場する。ただし、その登場の仕方はいきなりではなく、伏線的に身分を隠して主人公と関わりを持たせ、時間の経過によって主人公の置かれた悲劇的状況が整理され、視聴者の感情の揺れが最大に達した時点で救世主として変身する。これが救世主の登場パターンである。まさに、月光仮面やウルトラマン、仮面ライダーの登場に等しい。変身ツールで見ると、水戸黄門は葵の御紋の印籠であり、大岡越前はおしらす(白州)の場での再会であろう。悪者も一度は最後のもがきをする場合もあるが、最終的には「ははー」と頭を下げ、自らの罪を認め収束に至る。ここに悪者にも改心の期を与えるのが日本的な物語の終結であろう。

こうした単純明快なストーリーには飽きが来るかもしれない。しかし、1時間以内の一話完結型には、僅かにくすぐられるヒューマニズムへの共感によって安心感が得られる。これは日々の生活でのさまざまなメンタル的ストレスの癒やしになっている。極端に例えると、仕事を終えて帰宅し、1時間ほどのクラシック音楽を聞く癒やしに近いかもしれない。特に、モーツァルトの長調系のシンフォニーや協奏曲を聞いてホッとするひとときに似ている。最初に軽快な主旋律で快感を与え、途中に♭による変調が加わり揺すぶられ、最初の主旋律の再現とともに爽快なタッチで終りを迎える。時間も45分ほどである。疲れの癒やしに最適な音刺激といえる。勧善懲悪の時代劇もこれと同じく、日々生活の癒やし感がある。

ストーリーの内容はさまざまなバリエーションがあり、主人公や悪者、救世主など、各種の組み合わせでもって作られているが、物語の終結に最も癒やし感の生じるパターンは既述した起承転結であろう。まさに、モーツァルト音楽に等しい。しかし、同じパターンのストーリーを作っていると、製作者側にマンネリ感が生まれ、変化をつけたくなる。特に、製作者に変化欲求が強くなると、起承転結の基本パターンに無理に手を加え、結局は視聴者側に不完全燃焼が生じるのである。問題提起や結末を視聴者のイマジネーションに委ねる方法がその最たるものであろう。ある意味での芸術性を求めるような、作品感覚のものであれば、そうした結末も一理あるが、視聴者の癒やしにはならない。製作者の自己満足としかいえないだろう。

こうした視点では、子供を対象としたものでは筋が一貫している。わかりやすくといった意図が入っているためかもしれないが、結果として視聴者側の視点に終始している。月光仮面の時代から、ウルトラマンシリーズ、仮面ライダーシリーズ、ゴレンジャー、ポケモンなど、まさにその時代の背景の中に、例の起承転結パターンと救世主(ヒーロー)の出現によって満足感を与えているのである。話のパターンは単調でも登場人物のキャラクターを変えるなどの創意工夫が常に取られている。

勧善懲悪のスタイルとして時代劇が見られなくなったが、最近では形を変えて現れている。

勧善懲悪の現代版を挙げると、刑事ものがあるかもしれない。従来の刑事ものは、その基本路線は推理であり、巧妙な犯行をなした犯人を微かな手がかりをもとに探し出す方向性であった。しかし、最近ではその基本路線に勧善懲悪が上乗せされた感がある。被害者への共感・憐憫と犯人への敵意・憎悪感を両価性に、視聴者の気持ちを揺さぶり、事件解決にて収束させる起承転結パターンである。しかし、刑事ものでこのパターンはあまりに単純すぎるためか、被害者と加害者の役割分担を逆にしたものが圧倒的に多いように思う。その方が日本人気質に合うとも言える。それは、殺される被害者のほうが悪者で、極限状態に追いやられて犯行に至った加害者への共感が強くなるパターンである。ここには犯人逮捕後の含みとして、加害者側の改心を必至の流れにしている。これは、時間経過は前後正反対であっても、結論は勧善懲悪に等しい。最初に悪者を抹殺し、加害者を保護するスタイルである。必殺仕事人の逆バージョンとも言える。

こうした視点で現代ドラマを見てみると、勧善懲悪スタイルが最近かなり増えているだろう。

米倉涼子のリーガルVはその典型と言える。権力者によって罪に陥れられた弱者を弁護士という救世主にて救済するパターンであり、その結末は裁判勝訴である。あまりに単純な起承転結では視聴者の飽きが来ることを恐れてか、ややこしい内容(救世主に弁護士資格がないとか云々)を付属的に追加し、さらに判決直前の弱者側を最悪状況にまで揺さぶらす。そして、逆転ホームランにて大岡裁きに至る。現代版時代劇にほかならない。

面白いことに、米倉涼子は医療界を舞台にしたストーリーでも同様な救世主を演じている。

ドクターXである。医療界のブラックジャック的位置づけとして登場し、難治疾患の手術を成功させる。執刀直前までは大学病院内の他医師に阻まれながら、強引に執刀し成功に終わる流れであり、オペ室で彼女がメスを握った一瞬が「この印籠が目に入らぬか」という切り札なのである。大学病院内の他医師の役割は、患者の治療より自らのプライドを優先させる悪者として登場している。大学医学部という権力下に従属し、患者の気持ちを忘れ、最新医療の武器を振り回す輩を風刺する状況設定であろう。彼女の周りの医師を小心者の集まりとして設定されているので、ドクターXなる救世主の登場は実は彼らの代弁者でもある。悪者の代表である最高権力者の医学部長や教授連も、彼らの本音としてドクターXへの医療の本質の期待が見え隠れする。何とも日本的な勧善懲悪パターンと言えよう。

勧善懲悪パターンの現代ドラマと言えば、数年前に半沢直樹が日曜劇場として登場した。1話完結ではなく、10話のシリーズものであった。ただここでは、救世主の登場によって終結に至る手法ではなく、主人公自らが苦境を乗り越え、徐々に味方を増やし、悪に立ち向かう流れである。ストーリーの経過において、主人公の置かれた状況が好転と悪化が振り子のように反復し、その度に視聴者の気持ちが揺すぶられる。特に逆境に立たされ孤立した主人公への感情移入が生じ、「やられたらやりかえす。倍返しだ」という決まり文句にぐっと共感させるのである。場面背景は現代社会の金融業界であり、権力弱者である一人の社員が正義感に燃え、会社の不正な動きに対決していくストーリーである。ここで視聴者がヒューマニズムの心をくすぐられるが、それは現実社会における視聴者自身の投影とも言える。現実社会でのストレスの下にある視聴者の持つ鬱憤気分が、このストーリーの展開で発散されていく。上司に直接言えない普段の自分をこの主人公が「やられたらやりかえす。倍返しだ」という言い切りに期待を託すのである。話の展開とともに、立ちはだかる敵が1人ずつ破れていき、終結は最高権力者の土下座で幕を閉める。大岡裁きの白洲の場で印籠提示させる完全燃焼型であろう。

最近のテレビに時代劇は見られなくなったが、視聴者の求める気分の癒やしは勧善懲悪である。別に見なくても損失はないし、見ても何ら得にならない。でも、ストレス解消にはいいだろう。さらに、京都を舞台にしたストーリーも多く、自宅の近くや個人的に知った場所がロケ地に出てくるのも親しさを覚える。勧善懲悪ものは、家族でビールを飲みながらのひとときに最適なツールかもしれない。

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