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私の失敗体験談⑧

平成29年も3回に分けて書いています。この年は結構盛りだくさんの年で2回では収まりきらない・・・。

大手予備校の2次試験対策講座に毎週通学して、新作の答練でも点数が取れてきました。もしかしたら、合格できるのは無いか・・・。そう本気で思っていました。しかし、そんな簡単な試験では無い事は明らかですが。 

 そして本試験の日を迎えました。もうこの時点で勉強開始してから6年経過しています。本試験の日にいろいろな思いがぶつかり合い、気合モードが入ったのを覚えています。

ゆずの「栄光の架け橋」を聞きながら試験会場に入りました。

誰にも見せない泪があった
人知れず流した泪があった
決して平らな道ではなかった
けれど確かに歩んで来た道だ

あのイントロからこの歌詞までで涙ウルウル状態になっていた事を覚えています。しかし超気合モードは2次試験ではあまり良くありません。

「冷静に今までやってきた事を淡々とやる。」これが2次試験の極意ですが、この時、既にバランスを崩していました。

 そして試験が開始されました。

久々の事例1は衝撃を受けました。お菓子屋さんメーカーの話でした。「ちょっと何言ってるか分からないんですけど・・・」サンドウィッチマン状態です。

事例2は介護ベッドの事例でした。当時はキーワード至上主義で「井戸端会議」推しの解答に。自分では普通にこなせたと思っていました。

昼くらいに気持ちが落ち着いてきましたが、その時点で既に折り返し地点は過ぎています。事例3、事例4はそこそこ出来たと思います。

本当であれば「新身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」という実況と共に私も合格するはずでした。

しかし、そう上手くはいかないのが現実です。

結局BCABで不合格です。事例2が40点台ではダメダメです。

そういえば事例2は昔から苦手だったな。過去問のキーワードを覚えるだけの勉強だから本試験に向けての勉強では無かったのです。それに気づいたのは後の事になりますが。

この時は事例1と事例2を強化すれば来年合格できる!!と勝手に思っていました。

これで平成29年の本試験は終了です。

前回のブログで母親が歩けない状態であると書きました。大腿骨頭壊死という病気で、10月に人工関節の手術をしてそのまま1ヵ月間入院。試験が出来なかったという干渉に浸っている暇もなく日常が過ぎていきます。

今では母も歩けるようになりましたが、リハビリも大変でした。

ちなみに仕事においては、群馬県に転勤が決まりました。これは家庭が崩壊状態でしたので転勤を無理やりお願いしたものです。

これで埼玉の単身赴任生活も幕を閉じました。これで家族と毎日会えるぞ!!ルンルン気分で自宅に帰りました。診断士勉強もこのまま継続していくぞと気合を入れていましたが。

しかし、この転勤が最悪の事態を招きます。これはまた次回に書きます。
この年の12月、痴呆が進んでいた父親が突然亡くなりました。突然血を吐いて、検査入院をしました。しかし「検査しても悪いところが見つからない」と言われましたが、次の日の早朝容体が急変してそのままです。葬式の手配、遺品の整理などやる事満載で悲しんでいる暇も無く、あっという間に1年が終わりました。

結局10月の本試験以降、診断士の勉強は殆どする暇も無かった事は言うまでもありません。

 この年を振り返ると
・2次本試験では「冷静に今までやってきた事を淡々とやる。」事が重要です。
・予備校の新作問題で高得点を取れる事=本試験で高得点を取れる事では無いです。
・「栄光の架け橋」はいつ聞いても良い歌です。モチベーションが下がっている方は聞いてみて下さい。YouTubeでオリンピックの動画と共に見ると今でも感動します。あの実況は最高ですね。

「富田が富田である事を証明できれば、日本は勝ちます!!」というフレーズも感動します。

では今日はここまでにします。

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