“I am...”について
浜崎あゆみの“I am...”というアルバムは2002年1月1日の発売で、私で言うと高校二年生の冬休みに当たっている。
このアルバムとともに自分の人生が絶望の底から浮かび上がったという記憶が鮮明にあって、それは現実の時間軸における正しさはともかくとして、今の自分にとって最も正確な記憶の一つである。
それは変な表現かもしれぬが、アルバムにおける一等星“evolution”でayuもこう謳っているのだから、歴史的な正しさよりも、自らの記憶を緒(いとぐち)にして進めよう。
現実は裏切るもので判断さえ
誤るからねそこにある価値は
その目でちゃんと見極めていてね
自分のものさしで
こんな時代(とき)に生まれついたよ
だけど何とか進んでって
だから何とかここに立って
僕達は今日を送ってる
wow yeah wow yeah wow yeah
“evolution”
人生の深い絶望については、一昨年来書いてきた自分史に長々と、あるいは途切れ途切れながら書き記してある通りで、当時から二十年が経つ今ならば、その絶望の原因が、人間関係が固定化されていたことにあったのだと、はっきりと分かる。
大樹と書いてひろきと読む名前にも、あるいはその宿命は記されているように思うのだけれど、拡がりを持って人間関係を構築し続け、広い大地に根を張ることが、自分を樹てる(たてる)ことになると直感して生きてきた私が枠に囚われずに生き始められたのは、ピタリと高校二年生の頃に符合している。
同級生であったY君が彼自作のHPを私に紹介してくれたことがきっかけとなり、彼や彼の周囲にいた人々の掲示板やチャットルームで、夜な夜な遣り取りをし始めたことが、家族とも地元とも学校とも異なる世界と繋がる機縁となったのだった。
すらっとした体格の彼は、スポーツマンでありながら、オンラインゲームも楽しんでいるという、2000年代初頭には珍しい人物であった(珍しい者同士が引きあったにしても、ゲームをしない完全な門外漢の私を引き入れてくれ、本当に有り難いことだったと思う)。
そのときの私は、それこそ何物でもないのに、他愛もない遣り取りに加わらせてもらったり、時には関西で開催されるオフ会にまで何度か参加させてもらったりして、彼と出逢っていなければ決して出逢うことのなかった、年齢や性別、プロフィールがバラバラの人間関係に恵まれることになる。
この当時の私と、それを振り返っている私とを繋ぐ“I am...”とについて、話を戻すと、例えばこんな歌がここには収録されていて、拡がりと繋がりとを感じつつあった21世紀の初めの私にも、とても共鳴するものがあったように思う。
ミカケテ ミツケテ ミサダメテイル
ミツメテ ミトレテ ミタサレテイル デモ
ミアゲテ ミカケテ ミクラベル ホラ
ミクビル ミダレル ミハナサレテル
そう僕達はあらゆる全ての場所で繋がってるから
この言葉について考える君とだってもうすでに
“Connected”
先程の友人のページとは別に、もう一つ出入りさせていただいていたHPがあり、そちらのthemeはなんと、浜崎あゆみと、私が興味を持っていたオーディオ、そしてインテグラル理論という、膨大かつ深淵たる知識の海となっていて、ここでの出逢いもまた、私が拡がりを持つ世界観へと向かうための大きなきっかけになっている。
ちなみに、上で引用した歌詞は、この方が“I am...”発売時にまったく同じ箇所を引用されていたことに敬意を込めて再掲したのだけれど、現実世界のリアルな社会と、オンラインという仮想空間とが、繋がって双方に影響を与えていることを、端的にしかも感情を交えて表現していて、今聴いても、そして改めて文字として歌詞カードから転記してみても素晴らしいと思う。
“Connected”がどんどんと進む時代に、羨望と嫉妬が入り交じりながら世界を見つめる眼差しが向かう先は、他者のようでいて実は自分であって、裏を返せば自分の成長と世界の成長とは繋がっているということでもあるから、自分の目の前に起きる現実を乗り越えるための勇気を、今日もこの歌からもらっている私がいる。
ちゃんと聴いてて 伝わるまで叫び続けてみるから
私はずっと 此処に此処に此処にいるの
“I am...”
イントロも伴奏もなく、この絶唱から始まるアルバムの中には、前作の“Duty”という絶望の淵から、何とか生きて戻った人間の強さが描かれていて、そこで何より大事になるのは、ここに至るまでに出逢った全てとそこに対峙した自分とが繋がって、今の自分があるということだろう。
そう、“Connected”という言葉が繋げているのは、見知らぬ誰かよりも、先ずもって自分自身の過去と今、そして未来である。
例えば次の歌詞。
ほんの少しでも笑ってくれるなら
まだココに生きる意味もあるよね
ほんの少しでも求めてくれるなら
まだココに生きる事許されるかな
“NEVER EVER”
いつか、ここに歌われたような気持ちを忘れたとしても、内省的で消極的であった自分が、何処かへ消えてなくなるわけではない。
20年前の私はどこかで、強くなることは痛みに対して鈍くなることだろう、つまり弱さを失うことだろうと、思い込んでいた節があるけれど、決してそんなことはない。
当時の弱く小さき自分は、いつまでも自分の深奥にいて、時を経てもなお、この歌と響き合うことができる。
美しすぎるものばかり
集めて並べて眺めて
キレイな夢ばかり見ては
現実をただ嘆いた
ココがどんな場所であっても
これからどこを通っても
自由と孤独わけ合って
今ならありのまま行けそう
“Naturally”
理想と現実との乖離を、見てみぬフリでやり過ごしていた自分も内包しながら、成長してきた自分がいて、それでも嘆かわしい現実が眼前にある、そんな今を過ごす私の言葉は、あるいは綺麗事だと一笑に付されるかもしれぬが、それでも自分のままで歩むと決めたならば、今日斃れてもまた明日には起き上がるだろう。
きっと光と影なんて
同じようなもので
少し目を閉じればほらね
おのずと見えるさ
喜びのうらにある悲しみも
苦しみの果てにある希望も
どんなに遠く離れていても
僕らはいつでもそばにいる
例えば君がくじけそうな日には
愛してくれる人がいる事を
思い出して
“Daybreak”
アルバムの後半にあって、夜明けを意味するこの曲にも、何度救われたことだろう。
僕らと君とは、別の人格として捉えても良いし、あるいはいつかの自分自身達と今の自分自身と読み換えても良くって、たとえ孤軍奮闘しているような時にだって、歩んできた道々で出逢った自分に励まされて、次の夜明けに光を受け取ることは、できるに違いない。
<2番>
Ah-出会ったあの頃は
全てが不器用で
遠回りしたよね
傷つけあったよね
<ラスト>
Ah-出逢ったあの頃は
全てが不器用で
遠回りしたけど
辿りついたんだね
”Dearest”
文字にすると見逃してしまいそうなくらい、些細な歌詞の違いであるけれど、自分が立つ視座の高さは天と地ほども違っている。
当時の私は、ここで歌われるような、かけがえのない出逢いがいつか来ることを切望していたように思う。
それはある意味では、果たされたとも言えるけれど、ここでもやはり本旨となっているのは、その経験を経た“自分との出逢い”なのではないだろうか。
この”Dearest”で二年連続のレコード大賞受賞など、当時の飛ぶ鳥を落とすような人気の中にあって、この曲のPVを覚えている人も多いだろうから、これを機にぜひ改めて見ていただけたら、とても嬉しい。
私がここまで長々と書いてきた自分と他者、自分と自分、ということについて、ほんの6分ほどで語られている。
この項の執筆も都合3日間に亘り、また文字数も3000字を超えてきた。
全15(+1)曲の全てを具に述べることもできるけれど、こうして輪郭の印象だけを描くことで”I am...”を聴き直す人に対して、あるいはこれから聴く人に対して、解釈の余地を残しておきたい。
誰にとっても、いつの世であっても、切り離すことのできない自分自身について、”I am...”という文字が示す余白に、“これまでの自分”と“これからの自分”との間にいる“今の自分”を感じていただければ、この上ない幸いである。
君にもし 翼が
残されてなくても
僕にまだ 翼が
ひとつだけ残っているから
一緒に... 一緒に....
“Endless sorrow ~gone with the wind ver.~
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