パタゴニアのリジェネラティブコンファレンス

沢山の情報が詰まっています

吉田太郎さんwrite

最近の若い人は、加藤登紀子を知らない。そのヒット曲、知床旅情はなんとなく知っていたとしても、それを作詞・作曲したのが、森繁久彌だといっても、森繁そのものを知らない。となれば、西條八十作詞、服部良一作曲の蘇州夜曲を歌ったことで知られる満州の女優、李香蘭といってもおそらく通じないであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=w0ht7Wkkc3s

 とはいえ、満州を舞台とした「ラストエンペラー」で最近、他界した坂本龍一が悪の帝王、甘粕正彦を演じたこと。そして、坂本龍一が「目の前の経済的利益のために先人が100年をかけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々を犠牲にすべきではありません」と亡くなる約1カ月前に、小池百合子東京都知事をはじめ、新宿区長、港区長、文部科学相、文化庁に対し、神宮外苑の再開発に伴い、樹木を伐採しないよう求める手紙を出していたことは知っているかもしれない。

https://mainichi.jp/articles/20230422/k00/00m/040/151000c

 そこで、今回は、森繁久彌、加藤登紀子、坂本龍一、そして、街路樹の保存という一見するとバラバラのトピックをつなげるという話題を提供してみたい。もちろん、つなぐのは、たまたま金子友子さんが話題にしてくれた甘粕正彦だ。

 情報屋のメインのミッションは、もちろんアグロエコロジーの普及にあるのであって、パタゴニアのリジェネラティブの8回シリーズのまとめもやっと終えたところなのだが、

http://shinshuorganic.seesaa.net/article/499014935.html

一方で、情報ソースによって、皆さんが抱いているであろう世界観を覆すこともミッションのひとつとしている。そこで、甘粕正彦のイメージを変えるためのエピソードを今日は提供してみたい。なお、出典はこちら。

http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/amakasu.htm

■私信なき徹底したリストラと抜群の経営者

 1939年11月1日。甘粕は満州映画協会の理事長になった。総務部長の山梨稔が歓迎の辞を述べる。

「わが満州国生みの親、建国の父として余りにも有名な甘粕先生を理事長として迎えましたことは、私ども一同の大きな喜びであります。我々は新理事長のもとに粉骨砕身、社業の発展に努力し、満州の地に骨を埋める覚悟をもって・・・・・」

「もうよい。やめなさい。やめるのですッ」

 部長の挨拶は、甘粕の怒声でたち切られた。

「満州国建国の功労者というお世辞は、私には当たりません。粉骨砕身などという美辞麗句をいくら並べても、心に誠がなければ何にもなりません。私たちは日本人ですから、死んだら骨は日本に埋めるのです」

 甘粕の就任式はこれで終わった。翌日。山梨稔総務部長はヒラに降格された。理事長就任前から、甘粕は満映の人事を徹底して調査していた。山梨は降格の第一候補だった。

 学歴詐称等、不正手段で入社した者を中心として解雇された者は全社員の5%になった。だが、甘粕は解雇された人には次の就職先を世話したので誰からも不満は出なかった。

 そして、日本人であろうと中国人であろうと実力だけで給料を決め、社員・俳優を問わず中国人の給料を日本人のそれと同レベルに引上げた。一気に給料が数倍になった中国人俳優もいたし、減給された日本人社員もいた。

 看板女優の山口淑子(李香蘭)の月給は250円だが、中国人俳優、李明の月給45円だった。

「あまりにも差がありすぎる。李明は200円程度にしなさい。下っ端の俳優達は18円。これでどうして食えますか。少なくとも今の李明の45円の線まで引き上げなさい。高い給与を出すと必ずよく働くものです」

 経営も、それまで数ある満州国内の国策会社のなかでも赤字の代名詞のような満映だったが、甘粕が来てからは指折りの優良会社に変貌した。

■社会福祉事業と音楽文化で若者を魅了

 甘粕は、福利厚生の一環として社内運動会を開催し、社員の親睦を図ったりした。日本人と中国人の親睦を図るにはスポーツが一番良い、という社員の提案があって厚生施設を作った。「そんなことはできない」と渋る経理部長は甘粕に、やれといわれたら、やればいいのですっと一喝された。

 当時の満州で、国家における文化の必要性を理解していたのは甘粕ただ一人だけだった。

 山口淑子の人気が高まると満州にはファンクラブが作られた。甘粕は時々ポケットマネーでパーティーを開き、満映の女優達を招待した。一方、新京市長主催のパーティーの席上、満映の女優は、もちろん山口淑子も、ホステスのように酌を命ぜられていたが、それを知った甘粕は烈火のごとく怒り、「女優は芸者ではない。芸術家だ!」といって酌を止めさせた。

甘粕はまた、音楽にも力を入れた。当時満州国には二つのオーケストラが存在した。一つは1908年、ロシア革命を逃れてハルビンに移住した白系ロシア人によるオーケストラ。一方満州国の首都新京では1932年に日本人による新京交響楽団が結成された。この時代、映画とその伴奏を努めるオーケストラは密接な関係があった。そこで、1945年3月。敗戦のわずか5ヵ月前に甘粕の発案でこの二つのオーケストラは一時的に統合され、全満合同交響楽団と称し150人のメンバーからなるオーケストラとして満州各地を巡演し、熱狂的な歓迎を受けた。

 ハルビン交響楽団のごく初期に同楽団の事務局員として尽力した加藤幸四郎も、妻と娘を連れてその演奏を聴き、その素晴らしさに感動した。その娘の名は、登紀子という。

 また、当時、新京放送局のアナウンサーだった森繁久弥は「満州という新しい国にわれわれ若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金をもうけようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」 と語っている。

■国家の名誉として街路樹を守る

 ある日、北京に行った甘粕が大使館員と車を走らせていると、妙な印がついている街路樹を何本も見た。不審に思って大使館員に尋ねると、石炭が不足しているので関東軍の命令で印のついた木を切って石炭にするという。驚いた甘粕は、こう語る。

「とんでもない愚行だ!そんなことをしたら、地元民はもとより、世界中の中国人がどう思い、どのような反応を示すことか。古都の美しさを破壊した日本は世界から軽蔑される」。

そういって直ちに関東軍にかけあって中止させた。甘粕は北京の街路樹を守ったのだった。

一個人としての甘粕について満州国総務庁の武藤富男は「甘粕には私利・私欲がなく、生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら・・と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった」と語っている。

 甘粕はもうすでに日本の敗北、満州国の崩壊を予測していた。戦いに敗れた後も、日本の誇りは保たれねばならぬ――悲しいほどの愛国心を、甘粕は抱いていた。

 ということで、見事、坂本龍一が演じた甘粕は街路樹を伐採から守ったのでした。

   めでたしめでたし。

https://ameblo.jp/yashima1505/entry-12565267183.html


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