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京都旅行最終日ー広隆寺、西本願寺

5月24日 金
 さすがにあちこちずっと寺などを見て周り、今日は特に太秦にある広隆寺に行けるくらいでいいと思ったが。なぜか国宝第一号となった超素晴らしい半跏思惟像(奈良・中宮寺の半跏思惟像と並び立つ)超素晴らしい古刹であるにもかかわらず、京都の観光誌含め、真面目な古寺ガイドブックにおいてもほとんど広隆寺には触れられず、また京都の著名なお寺たちもいまや時勢柄か、美麗なホームページを作っているのに、広隆寺はHPも作っていない。古本含めて情報を漁ると重要・国宝クラスの素晴らしい仏像が集っており、古典的な美術としての価値も極めて高いにも関わらず、由来がはっきりしない謎のところも多いお寺の様子。これは興味が湧かないわけない。

 JR乗り換えて太秦天神川から一両編成の嵐山電鉄で太秦広隆寺で降りるとすぐそばなので、嵐電に乗ったらひとつの車両に外国人中心で満員の混みよう。けっこう宣伝が奥手でも見学者が多いのだなと思っていたら、2番目の駅くらいで着いたのに全く人の動きなし。男女ともガタイの良い白人の人たちが中心なので一歩も前に行けず。だれも広隆寺は気にせず、終点の嵐山に向かうのか?次の乗り換え駅でそれなり人が降りるので、自分もなんとか降りて、戻りの太秦映画村駅で降りて広隆寺へ向かう。



・広隆寺
 中古書では相当貴重な古仏が収蔵所みたいなところに未分化な感じで収められているとか、国宝第一号の半跏思惟像を大学の学生が触れて人差し指を折ってしまったとか。そのせいもあったのかと想像したのだけど、最近のネット情報では拝観者に対して堂守の人の注意が厳しく細かいとか書いてあったので、総合情報的に緊張感を持ちながら拝観に向かったのだが、実際拝観受付のかたも、仏像が陳列されている霊宝館の館内の人も、極めて穏やかで柔らかく、先入観はすべて崩された。
 情報では仏像は素晴らしいが館内の明かりが暗すぎるとあったが、確かに入ってすぐの神将像を見た時に暗いなと思ったけれど、館内の灯りに慣れたというよりも徐々に明度も上がっている気がするのだが…
 それにしても、ここは確かに古刹、名刹だらけで他の京都のお寺ではこの霊宝館の一点、二点だけでお寺の中心仏にされてもおかしくない感じがある。あえていえば、大きさは東寺のほうが全体にサイズが大きいけれど、あちらの堂内くらいか。あちらとて、こんなにも時代が遡るような仏像はそうはないと思われた。あえていえば飛鳥や奈良の古仏を見に行った時の趣きに相当近い印象がある。
 かつ、もっと近場感があるのでタイムトリップ感があるというか、タイムレス感があるというか。各部天像、観音像、大日如来、菩薩、そして一際際立つ半跏思惟像(弥勒像)。もう一点、脇に国宝の弥勒菩薩半跏思惟像がある。そこは少し近くで見れるように、畳の上に上がって見ることができる。
 矢内原伊作という人のだいぶ昔の広隆寺見仏記は今でも素晴らしくて(私の古寺巡礼(ニ)光文社、知恵の森文庫)、こちらのほとけの思惟=考える状態を、ロダンの「考える人」と比較して、厳しく自己と対峙してるというより、あるいは仏として人に向かうほほ笑みというより自分の内側から出る微笑みとして捉えられるみたいな批評で、写真などを見ると確かにそれは見事な観察だと思えた。もっと素朴な、内側から溢れでる歓びにも似たほほ笑みだと。
 ただ、ぼくが実際に実物を見た感想を言えば、やはり思惟をしている姿には見えた。中宮寺の近代的なとも言えそうな飛鳥時代の作と思えないような半跏思惟像も、微笑んでいるようにも見えるし、考えている姿にも見えるという意味では、同形のものに思えた。
 いずれにせよ矢内原伊作さんは中宮寺の半跏思惟像に対して広隆寺の半跏思惟像いっそう素朴で、広隆寺の方が人間的で親しみやすいと書かれていて、確かに造形の全体のまろみ、柔らかさにおいてそれはそうかもしれない。
 で、ぼくもこの霊宝館の古刹を見て思ったのはその素朴さ、親しみやすさ、そしてもっと言えばありがたさを強調しないむき出しの裸な感覚だった。
 それは、このお寺の立像たちにどこの古寺にもある「解説」がほとんどないことも関係するかもしれない。古刹たちの明確な来歴がはっきりしないせいかもしれないが、そこを埋め合わせようと、たとえば弥勒とはとか、阿弥陀とはとか、菩薩天、吉祥天、竜王、明王とかの説明で埋めることもできるかもだが、そのように拝観者に媚びない、良い意味でのそっけなさが逆に裸感覚、素朴な感覚、親しみやすさにつながる所以かもしれない。でもぼくは充分にこの古仏たちの見事さに圧倒された。
 ここのお寺の来歴は実は京都でも最も古く、渡来系の秦氏が深く関係している。そして聖徳太子との由来が深くて、聖徳太子建立の七寺のひとつ。百済から渡海した秦氏一族の秦河勝が聖徳太子から仏像をたまわり、それをご本尊としたと日本書紀に記述されているらしい。そして秦河勝夫妻の像もこの霊宝館には安置され、聖徳太子七歳の立像も安置されている。

広隆寺創建の秘密に関心のある方はこちらのPDFもご参考に。
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/068.pdf

 如何に名刹かは国宝二十点、重要文化財四十八点が収蔵されているところにも現れていよう。
 他の京都の寺院が歴史の古さを残しているとすれば東寺くらいで、他は名勝庭園や襖絵、屏風絵、障壁画などを有する禅寺系、浄土系、密教系のお寺で印象としては桃山時代から江戸前期の時代、つまり政治と文化人が一定程度繋がりが見えやすいのとは違い、この太秦の地(よく考えれば、うずまさと呼ぶけれど、ちゃんと“秦”の字が入っている)はそれらの京都文化とはまたやや趣を異にする、一種奈良時代よりまだ時代が遡るくらい京都の政治文化と距離のある異色性があり、そこに京洛の流れとはまた違う、京都の多様性を垣間見る気がした。
 思えば、明治維新頃の神仏分離令に基づく仏像破壊の中で、おそらくこの広隆寺の昔、収納庫のようなところに古刹が整理されず収蔵されていたように、現代であれば貴重かもしれない古刹古仏が打ち壊されたのかもしれず、それは歴史的損失だったろうなぁと、想像が飛躍してしまった次第だった。


 で、午前のこの日、やはり拝観者はごく少数であった。今回の気づきは西洋人の人たちでお寺を見て回る人はごく少数のグループで来ているケースが多く、たとえばカップルとか、せいぜい3人組とか、あるいはひとりでとかでくる人が多いし、石庭なども関心が高いように思えた。そしてそのような人たちは総じて物静かで拝観者の姿勢としてはしっかりしている人が多い印象だ。それでもこの時間、西洋人の人はひとりもいなかった。
 観光客がどんどん訪れるようでは、確かにこの本物の古寺は困ることだろう。密かに静かにじっくりと圧倒されに来て、京都洛中内とは異質な傾向を見つける。その価値を見つけるには世間に媚びないのが一番ベストなことなのだろう、と勝手に思った次第。


・西本願寺
 浄土真宗西本願寺は京都駅からほど近くにある。実は東本願寺がもっと京都駅に近いのだが、なぜ同じ親鸞聖人を祖とするのに西と東に別れたのかはその原因もなかなか複雑な話ではあるようだ。ちなみに自分の家はいちおうお東さんなんだけど、今回は西の本願寺を見に行き、旅最後のお寺周りとした。ちなみに西も東も本願寺の本庁は大伽藍なんだけど、拝観料はとりません。堂内の撮影もオッケー。



 旅を振り返れば東寺密教立体曼荼羅から始まり、庭の美、日本画の素晴らしさの発見、あるいは京都市内では目にしにくい奈良飛鳥時代まで遡る日本仏教の始まり、渡来系文化の礎の地まで、実に多様で、同時に室町、桃山、江戸とつながる歴史的な人物のヒントがカードのように集まる政治と文化の結びつきの強さも(奈良もあえていえばそう。何しろ鎮護国家仏教の地だから)感じ取ることができる旅でした。復習したい要素もたくさん見つかり、ぜんぜんまだ見えないことも多い。ただ、目を瞑ればやはり庭の造作の素晴らしさ、お寺の位置どり、襖絵などの日本画、祭壇のまわりを凝らせば目に入る壁画など、京都のお寺の文化的なクオリティの高さをやはり思わずにはおられません。

 そうそう来れる場所でもないですし、たとえば京都に限らず西洋ももちろんさまざまな聖地があるわけだし、同時に宗教と時の政治権力とかの結合とか彼の地においてもおそらくいろいろ生臭さいものも含みつつも、憧れとしてぼくはそういう場所に触れる機会があればすごいことだろうなあと思いました。もちろん、それは間違いなく夢に過ぎませんけれども。
(終わり)

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