3月10日〜11日 母の通夜から告別式

3月10日 日
母のお通夜を迎える。参列者、兄夫婦と甥夫婦(若い、30才くらい)当別の叔父と叔母。お二人とももう90超えなので、当別のような遠隔地から来ていただいたのは心苦しい。当別の福祉施設「ゆうゆう」のかたがわざわざボランティアで車椅子の叔母を一緒に連れて参列いただいた。地域福祉の力量を見る思いだ。

 読経をしてくれた真宗の僧侶も非常に若かった。甥の年齢とそんなに変わらない、三十いくか行かないか、だろうか。
 なんか読経がシャウトのようで、ありがたみが薄い。そんなお経を息継ぎに咳き込んで気張らなくても大丈夫。母は間違いなく成仏してるから。ただ、読経後の説諭はこころ沁みるなかなか良いものだった。セレモニー前後に流れるスクリーンのスライドに使った母の若い頃の写真8枚はとても良かった。母は現役時代に取られている写真の量が多い。特に集合写真とか、他者と一緒に写っているのが多く、ひとりのものは存外少ない。

 美人とは言わないが、保健師養成衛生学院というところの教務主任(学問を教えない、生徒の担任のような立場)をしていた人らしく、何となく教師のような雰囲気がある。
 硬い教師というよりも、温厚で社会性が高い人の感じ。そうだな、社民党から立憲民主の参議院になった阿部知子さんと雰囲気が似ている気がする(テレビでかつて見た印象程度だが。まあ、想像がつく人もいないだろうが)
 やはりここ10年来の老いた母との関係が深いので、中年期〜初老期の母の姿は遺影などに使う写真を探す過程では新鮮なものがあった。

 それにしても、全く真逆な次第になってしまった、僕は…。母が後期高齢者になるくらいにも、僕はまだ自分の問題ばかりにかかずらわっていて、母がどんなふうに社会に関われていたのか学べることもあったはずだが、同居家族でもあり、ものごとは遅きに帰す、ということになってしまった。

 遺影用の写真や、通夜の読経が始まるまでのスライドなどを改めてテレビ画面で見ながら、晩年頃の母のことばかり見ていたな、と自分の親の距離をとって見れないまま、本質を見過ごし続けたことを恥ずかしく思った。そんな通夜の夜だった。


3月11日 月
 夜を斎場の中で過ごす。兄、甥夫婦がホテルを予約したため。職員がいないため、宿直のような形。
 母の存在が大きかったため、泣くかと思ったが、そうはならず。今のところは。

 可笑しいけども、自分の中の家族に対する8年くらいの役割が終わり、さて続きは何を糧にしていくか。今後の課題を急に意識する。

 無事火葬も終わる。母も骨になり、とうとうもうこの世でその姿は失った。
 ぼくもいま方向喪失の感覚を持っている。涙は出てこなかったが、心では泣いているようだ。
 母のようなきちんとした人からどうして俺らのような子どもが生まれたのだろう?
 兄はマッチョでウヨクの変人で、弟はヘンタイの引きこもり。親としては望ましからざるものだったろう。

 ただ、母とてバランス感覚はあったにせよ、戦中育ち時代の普通と常識を強く抱いていたのは違いない。彼らの鏡は幸い割れなかったのだし、もしボクらの世代が割るチカラがあったのだとしたら、そしてもう割った人がいるのなら、僕にはもう何もいう資格はない。

 さて、明日からというわけでは全然ないのだが、次の生活の目標を考えていかねば。

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