ここにいたことのあかし

思えば、ツイッターでだらだらとよしなしごとを書いたり、ニコ動に旅動画をうpするのも、ここでこんなことをだべってるのも、自分の『生きた証』とか『自分がここにいたことの証明』のためにやってんのかなぁ、って思う。

大半の人は、多くの人にその存在を知られないまま死んでゆく。
多くの人々の記憶に名を残すような人なんてほんの一握りで、おそらく普通の人なら、死んで五十年も経てば、ちかしい人々の記憶からも、徐々に薄まって、最後には静かに消え去ってゆくのだろう。

(まあ、ヒトの場合は『記憶に残す』以外にも『子孫を残す』ことで生きた証ができるんだけども、今の世の中だと、子孫というかたちで生きた証を残すことが困難になってゆくのかもしれない。若いうちに結婚できない人が増えて行く的な意味で)

海にバケツ一杯の真水を投げ込むように、自分のいた記憶が薄まり、消えさってゆくこと。
それかむなしいことなのか、というと、別にそうでもないんじゃないかという気もする。

人は、だれかの記憶に残るために生きてるわけじゃあない。

記憶に残るために飯を食ったり、働いたり、楽しんだり、悲しんだり、恋をしたり、子供を作ったりしてるわけではないと思う。

じゃあなんのためなのか、と聞かれると俺もわかんないんだけど、とにかく、多くの人はそんなふうに生きてるようには見えないし、おそらくそうなんじゃないか。

とはいえ。
自分のことを、だれかに、より長く覚えておいてほしい、という気持ちは、多くの人にあるんじゃないか、とも思う。

人というのは、人同士のつながりの中で生きている。
どれだけ多くの人とつながっていたいかはその人にもよるけれど、誰ともつながりたくない、という人はほとんどいないんじゃないか。

個人的には、誰ともつながらなくなってしまうことは、絶望…すなわち死そのものだとすら思うんだよね。
誰かが自分の存在を認識してくれてることが、人間として生きていることそのもの、みたいな。

ツイッターでもフェイスブックでも、ついついRTや『いいね』がついてないか、と気にしてしまう。
それは自分の自己顕示欲(このことについてはまたあとで書こう)なのかもしれないが、そういう意味もありつつも、結局は『自分のことをだれか見ていてくれてる、存在に気づいてくれてる』という安心感を得たいというほうが強かったりする。自分の場合は、だけど。

で。
つながりは目には見えないので、そのつながりがある、もしくはあった、ということを、何らかの形にしたいと願い、形づくる。

もしくは。
まだつながってない誰かとの、まだ見ぬつながりを求めて置かれる灯台のようなもの。

それが、生きた証なんじゃないか。

今あるつながりも、未来のつながりも、基本的には目には見えない。
本当に大切なものは目に見えない、と言われることがあるけど、本当に大切なものならば、たとい見当違いでも、目に見えるようにしたいものだ…と、自分は勝手に思ってる。

そのつながりをしめすものが、鉄道の廃線跡の土盛りが残るように、何十年後も残るとしたら。
おそらく、それを見た人には、何があったのかがわからないかもしれない。
形だけ残った、名前のない遺構。使い道のない風景。

でも、それでいいんじゃないか。
自分の生きた証が、自分という属性が褪せて『だれかの生きた証』になったとしても、それを見つけてくれること自体が、うれしい。

生きた証って、そんな感じでいいんじゃないか。

…なんて書くと『お前死ぬんじゃないの』とか言われそうだけど、死にませんよ。

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