シネマ小並館 その16:伝説の果て、文明の向こう 『マッドマックス/サンダードーム』(星3.4)※ネタバレあり

マッドマックスシリーズレビュー、今回は第三作の『マッドマックス/サンダードーム』。

荒野をさまよう最中、飛行機乗りに移動手段と財産を奪われるマックス。追跡の中で物々交換により栄える『バータータウン』へと流れ着く。街に入り賊を追い詰めるため、自分の腕っ節を差し出すも、バータータウンの主導権を巡る権謀術数に巻き込まれ、挙げ句何も取り戻せないまま砂漠へと身一つで放逐されてしまう。マックスは砂漠の果てで絶体絶命の危機に陥るが、そんな彼を救ったのは、子供たちだけの奇妙な集団だった…というお話。

前作と比べると金はかかっててセットとかはハデなんだけど、反面アクションシーンが少な目なのでアクション映画としては地味だし、前作よりもお話としてはわかりにくい。だが、前作で『伝説の男』として語られたマックスが、今作では『神話の男』として登場を予言され、新たな伝説、いや、神話を作り出すことになるという、(アクション映画としてはともかく)シリーズ的には前作をある意味凌ぐものがある。

とりあえず評価を書いておくと、星5つ中3.4くらい。コレはコレで面白いというか興味深いんだけど、どこか神がかっていた2に比べると数段落ちるとは思う。でもダメなのかというと、何度か観てるというほどダメでもないんじゃないかなーと思う感じ。

というわけで、以下はいろいろと前作までを踏まえた考察とかをば。

ストーリーの流れ的には前後するが、物語のメインは後半の『キャプテン・ウォーカー』(字幕ではウォーカー機長)を信仰する子供たちの集団が出てくるあたりからだ(とおれは思っている)。彼らの信仰するキャプテン・ウォーカーは彼らの祖先の救出者であり、やがて彼らを救出し『トゥモローモローランド』へいざなう、という。まるでかつて一部の地域で信仰された『カーゴカルト』信仰、というか神話のように思える。
バータータウンから追い出されて、たまたま人の来訪もない僻地の子供たちに救助されたマックスは、その『キャプテン・ウォーカー』だと間違えられた。帽子を放り投げたとき、たまたま突風が吹いて帽子や凧が風にあおられる、という演出が、どこか神秘性、神話性を補強するように見える。

さらに、運命のいたずらで彼は再び前作のような役を(意図せず)させられることになるのだが、秩序の崩壊の最中V8の狂気に抱かれ、文明崩壊後に人の信頼に触れて伝説となった彼が、よもやさらに『神話的』な存在になるとは、さすがに初めて観たときには面食らった。

この『キャプテン・ウォーカーを待っていた子供たち』のパートだが、テーマのひとつはやはり『記憶』だと思う。
字幕版だと、彼らが過去を語るとき、それなりの頻度で『メモリー』という言葉が出てくる。原語でRememberと言ってるところでも『メモリーしてきた』と書かれるくらいである。字幕が悪名高い戸田奈津子なので、ついつい『原語を無視して勝手をするので? そいつはコトだ』とか思っていたが、何度かラストまで観て『記憶すること、記憶をつなぐこと』がテーマのひとつだと気づいて、あながち間違ってないというか、テーマを酌んではいるよな、と考え直した。

(まあさすがにRememberに『メモリーしてきた』はないとは思うけども。せめて『「記憶」してきた』だよな…)

伝説は、積み重ねられ、時を経ることによって神話となる。キャプテン・ウォーカーの帰還を待っていた子供たちは、文明の崩壊祖先たちを助け祖先たちとともにいずこかへと消えたキャプテン・ウォーカーを『記憶』しつづけ、希望を持ち続けたことで生きながらえてきた。そして最後も、子供たちとその子孫は、記憶を未来へつなぐ意志を持ち続け、マックスは(彼らは名前を知らないので『救世主』としてではあるが)その記憶の中で重要な位置を占め続けることになる。

この後半と好対照を成すのが、前半の『バータータウン』の描写だ。

前作では文明崩壊後の『人間同士の信頼』や『秩序』や『希望』の回復が描かれていたが、今作ではバータータウンを通じて『文明』そのものの回復の萌芽が描かれている。ただし、交易、豚の糞由来のメタンを使った発電、掟を定めることによる一定の秩序など、文明のハードウェア面としての『街』の充実が描かれる一方、地上の交易拠点の指導者アウンティと地下の発電施設の指揮者『マスター・ブラスター』の衝突や権謀術数など、穏やかではない描かれ方である。

『街』をつくることも、記憶をつなぐことと同じくらい大切ではある。
記憶を積み重ね、伝説や神話を作った子供たちに対し、バータータウンは物々交換により経済の実績を積み重ね、そのリソースで街を作ろうする。
記憶の積み重ねとしての伝説や神話は、やがてソフトウェアしての文化へとむすびつくし、経済の積み重ねとしての街は、やがてハードウェアとしての『都市』へと結実する。文明が蘇るとすれば、文化と都市の両輪があって、ということになろう。

とはいえ、この映画では、文化の前駆体たる子供たちと、都市の前駆体たるバータータウンの交差により、バータータウンは崩壊してしまう。
(だが、前半では対立?していたマックスとマスターが、終盤で手を組んで、子供たちとともに新天地を目指す、という部分もある。まあそれ故にバータータウンは崩壊するんだけども)。

バータータウンの指導者であるアウンティは生き残ったため、どこかで(マスターのような技術に長けた者を再び取り込んで)バータータウンが復活し、かついつか文化の前駆体とくっついたときに、文明の復活の第一歩がアウンティによってしるされる可能性もなくはない。
なにより、アウンティの目撃したマックスが、伝説として記憶され、いつか神話となり、その延長線上でバータータウンに息づく文化が胚胎し、文明が生まれる可能性もあるのだ。
また、子供たちは旧文明の痕跡がありありと残る場所へとたどり着くが、そこからハードウェアとしての『街』が復興し、『都市』となり、『文明』に結びつく、ということももちろんある。

…というのもいささか大仰な考え方だが、その考えからさらに見方を変えると、この映画が『1で息子を亡くしたマックスが、その代わりに文明を生み出し、文明の父となる』物語である、というもっと大仰な話だと解釈できなくもない。

で。
題名でもある『サンダードーム』は、バータータウンの紛争解決の舞台である。平たく言うと『決闘場』。喧嘩があるごとに、その中で互いを戦わせて生き残ったものだけ出す、という仕組(一応バータータウンの一大イベントではあるようだ)。
で、サンダードーム、名前こそ大仰だがただの『金網デスマッチWith武器&バンジーロープ』である。面白くないわけじゃないけども、名前のわりには(しかもサブタイに入ってるのに)妙にジミだし、出てくるのは序盤の一戦だけ。
ただ、勝利の決め手となる『あるもの』を出してから使うまでかなりじらされて面白い。出したはいいが使おうとしたタイミングで攻撃され落としてしまい、手にしては落とされ、見失い、また手にして…という一進一退感がいい塩梅。

で、始末を命じられたブラスターとの勝負の末、彼をしとめる段になって、実は彼が精神的なハンディキャップを負っている人間だったことが判明する。
マックスは取引が『汚い取引』だったことに憤慨する。はじめはそれがあまりピンとこなかったんだが、アウンティの地位を脅かし、アウンティが完全に掌握せんと画策していた地下は、実際はハンディキャップを負ったものなどのマイノリティが生きる場所である、ということを考えると、なんとなくだが理解できる。

前作のエネルギーの象徴が石油だったのに対して、今作では『豚の糞由来のメタン』というのは秀逸かもしれない。エネルギー危機(≒石油の枯渇)がきっかけで文明が崩壊した世界で、もし石油にも頼れないとしたら?という想定でこれが出てくるのは面白い。大規模な発電はできないかもしれないが、糞由来のメタンは発電用、もしくは車両の燃料として、そしてその産出者たる豚は食用にもできる(もっとも豚の食糧を確保できるあてがなければ成立しないのだけども)。

さて、子供たちがキャプテン・ウォーカーの『記憶』について語ったあとマックスに見せた壁画は、服装含めてマックスそっくりである。比較的描かれたのが新しいようなので、マックスが訪れたあとに子供たちが壁画として『記憶』を完結するために描いたもの、と思われるんだが…自分は初めて観たとき、どころか最近まで『マックスが訪れる前に描かれたキャプテン・ウォーカーの画』だと思ってて、マックスが(そしてサルも)この地に訪れることの『予言』だと思っていた。まあ、はっきりしないから映像から読みとるしかないんだけど、来訪後に描いたととるのが自然、と気づいたあとでもなんとなく『予言』のような気がしてならない。

あと、どうでもいいしなおかつ一部の人にしか通じない例えではあるが、『マッドマックス/サンダードーム』は、ボトムズでいうとクエント編や『赫奕たる異端』のような存在なんじゃないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?