シネマ小並館 その15(前編):『マッドマックス2』評 ~V8の呪縛から解き放たれるマックス~(星4.5)

前回に続いて、マッドマックスシリーズのレビューをば。今回は2。好きすぎるので、『V8との関係性に主軸を置いたレビュー』と『箇条書きレビュー』の前後編二本立てでいきたいと思う。

まず評価から書くと、星5つ中4.5。間違いなく自分にとっての『心の映画』である。観たのは今年に入ってからだけど。

エネルギー危機と戦争を経て文明の崩壊した未来。男一人と犬一匹、V8のインターセプタで荒野をさまよい続けるマックスは、ある男から『油井を持ち、無尽蔵にガソリンを生み出す精製所』が存在すると聞く。『ヒューマンガス』率いるならず者集団に日々脅かされる中、精製所を脱出しはるか彼方の楽園へ移住を検討していた精製所の住民。そんな彼らに取り入り、脱出に必要なトレーラーを拾って提供するかわりにガソリンを得たマックスだったが…というお話。

前作では秩序の崩壊しつつある社会が描かれていたが、今作では前述の通り、文明そのものが崩壊している。政府による統治はすでに機能しておらず、荒野にはならず者たちが跋扈する始末。
ただ、そのならず者たちは前作のトゥーカッター一味よりは頭悪くは見えないという。というか、それはボスのヒューマンガス様がそれなりに話の通じる、ある程度の落ち着きと統率力を持った人間であるからなんだけれども。

前作、危惧していたドライバーへの復帰を、復讐のため自ら選び取り、かつそれが終わっても狂気らしきものを孕みながら荒野へ消えたマックスだが、それなりの時間をおいたのか、幸せな時間の記憶があるからか、完全に狂うことなく荒野を徘徊している。
とはいえ、マックスは明らかに口数が少なくなり、固く心を閉ざしているし、ならず者たちに殺されたであろう犠牲者を見てもなにも思っていないように見える。襲撃を受けた精製所の住民を助けるときも『ガソリンが欲しいだけだ』とうそぶき、トレーラーを命からがら届けたあとも『ガソリンを貰えればそれで取引は終わりだ』と慰留の声に耳を貸さなかった。
おそらくそれは、自分がかつて狂気を孕んだ者であること、いわば『秩序や人同士の信頼や人としての誇りに一度は背を向けた存在』であることについての、折り合いのつけかたなのかもしれない。背を向けた以上、もう戻れない。今更戻れない、みたいな。

状況が変わるのは、マックスがV8インターセプタ(そして犬)を失ったときである。

正直に言うと、V8を失ったあと、マックスが精製所住民の脱出作戦に加担する理由が、はじめはよくわからなかった。
でも、1から観返してみて、V8がマッドマックスの世界観の中で持つ象徴を自分なりに考えてみた結果、割と収まりのいい答えが見つかった。
マックスはV8の喪失により、狂気の呪縛から解き放たれたのではないか、と。

もちろん、精製所の住民たちに『人間同士の信頼と秩序の回復』をみたから、というのもあるだろう。前作でマックス自身が言った『自分はこのままだとならず者と同じだ』というセリフに似た言葉を、引き留めにかかったパッパガーロから投げかけられる…というのも、象徴的ではある。フェラル・キッド(野生児)に妙に慕われているのも、前作で息子を亡くしていることを考えると、最後の決断に影響している可能性があるかもしれない。
だが、それでもマックスは出て行った。人同士の信頼は、もしかしたら彼の中になにか懐かしいものを呼び起こしたのかもしれないが、彼を引き留めるのに十分ではなかったようにも見える。

V8さえあれば、ガソリンの続く限り、彼はどこにでも行ける。しかし、V8での彷徨を続ける限り、彼は今までのように、一定量の狂気、もしくはかつて抱いた狂気の影に縛られたまま、どこにも行き着けない。もしかしたら、そのような状態だったのかもしれない。

V8の喪失により、マックスはやっと前作終盤からの『狂気』とその影から解放された。自分はそのようにとらえている。

そしてV8を喪失したマックスが『あるもの』を積んだトレーラー(タンクローリー)を駆り、ヒューマンガス一味と繰り広げる壮絶過酷なカーチェイスには、やはり何度観ても圧倒させられる。
マッドマックス2のカーチェイスには、一種の美学のようなものを感じるのだが、その詳細は箇条書き編で! マッドマックスの一番おいしいところなんだけど、というかおいしいところなので次回のお楽しみに!?

どうしても後半のカーチェイスやヒューマンガス一味の見た目のヒャッハー具合に目がいきがちではあるが、ところどころの描写も目を見張るところがある。

ジャイロキャプテンと一緒に精製所から去ってゆくヒューマンガス一味を俯瞰するシーンが、おれ的には映画の美しいシーンの五本の指に入りそうないきおい。
そして、精製所から出て行って捕まる男女が暴行を受け殺されるシーンも恐い。遠くから双眼鏡や望遠鏡で見ているだけ。しかも女が殺される場面の全体像は映さず、ボウガンを放つ暴漢の手元だけを映し、叫び声も効果音も入れない(劇伴だけ流れている)という恐ろしく冷淡なシーンなんだが、この冷淡さが暴力性のうち何割かを悲劇性へと昇華させているように思う。
(ちなみにNetflixで観られる吹き替え版では女が殺されるところで叫び声が付与されていて、その冷淡さが殺がれている。ほかにも原語版には存在しないセリフが付与されているところがけっこうあるので、Netflixの場合吹き替えだけでなく原語版でも観ることを勧める。いや、吹き替えも悪くはないんだけども)

というわけで、後編・『箇条書きレビュー』編をお楽しみに。

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