シネマ小並館 その4:仮面の下の素顔が、物語を語りはじめる『V フォー・ヴェンデッタ』(星3.5)

前から気になってはいたが、なかなか観る機会がなかった映画。Google Playのレンタルで視聴。原作は成年向けのアメコミで、脚本はウォシャウスキー兄弟(のちに姉弟)。

国内ではいい評判も悪い評判も聞かなかったので、正直あまり期待はしてなかったんだが、これは期待した以上に面白かった。
内容としては『全体主義を突き崩すヒーロー』のお話。怪傑が大活躍するようなベッタベタな感じなのかと思いきやそういうわけでもなく、中盤でV(政府にたてつく仮面の怪傑)が主人公のイヴィーに割と…いや、かなりひどいことをしたり、Vやイヴィーの視点だけではなく政府の内側から核心に近づく動きが描かれたりもする。アクションシーンもあるにはあるが、全体的にはサスペンスタッチである。

この映画でいちばん心を打たれるのは、中盤でイヴィーが読む『ヴァレリーの手紙』。同性愛者として生きて、なかなか世間に受け入れられない中で、いっときの幸せを見つけたものの、全体主義の犠牲となった女の遺書。彼女と最後のパートナーが結ばれるシーンは美しく、『バラの三年間』は、彼女らにとっては(社会がきな臭くなってはいったが、それでも)素晴らしい日々だったのだろう。ヴァレリーは『誠実に生きることは辛いが、自らにとって大切な真実を捨てなければ、人は自由になれる』と語る。

(ちなみに、劇中にはもうひとり同性愛者の男が出てくる。彼はその性向を隠し通しながら生きざるを得なかった。彼は禁じられた異教の古い聖典に美を見出したために殺される)

彼女たちと他の人々とは、恋愛の対象が同性であるか異性であるか、という違いしかない。何かが違うことで、なぜ命を奪われねばならないのか。

実際には、言うまでもないが、人にはたったひとつどころではないたくさんの違いがある。
後半で、何百人もの『仮面の男』が現れ、一斉にその仮面を脱ぐシーンがある。画一的な仮面の下には、さまざまな、かつはれやかな人の顔がある。ひとつの思いを共有するが、誰ひとりとして同じ顔はない。
この場面もまた、胸を打つ。
みんな同じで、みんな違うのだ。

人というのはおかしいもので、人と同じ価値観を共有することで安心し、人と違うことで不安や恐怖を感じるにもかかわらず、人がかたちづくる社会自体は、他人と自分が違うことを前提にしている。

個々の人間は違う。そしておのおのに背景となる物語がある。おのおのの物語も恐らくひとつとして同じ者がないが、(ユングの話ではないけど)異なりながらもどこか根が同じだったり、なにか共通したものが存在していることが多く、どこかで共感ができるはずだ。あくまで個人の感想だけども。
仮面は、それを覆い隠す。ヴァレリーが『誠実に生きることは辛い』というように、それぞれの物語が見えすぎることがつらいかまたは怖い、という場面は多い。自他共にシチュエーションに合った仮面をかぶることで、生々しい真実や恥ずかしい物語を覆い隠し、他者との違いを覆い隠し、自分はみんなと同じだ、と繕おうとする。そういう方法も、方便としては有効だ。そうでないと、人は疲れてしまう。

自分とは違う他人に恐怖を感じるとき、そこでおのおのを覆い隠す『仮面』を、自分でかぶるだけならまだいい。
だが、仮面を、むりやり相手にかぶせてしまうことはないだろうか。他人と自分の違いに対する不安にかられ、お前はおれたちと同じだ、もしくは、私たちとは違う、と意に添わない仮面を相手におっかぶせて、小さく壊れやすいおのおのの『真実』や『物語』をその仮面の下に追いやって、目を逸らしながら仮面ごと叩き割ってはいないだろうか。
ヴァレリーたちは、その犠牲者ともいえる。
全体主義は、そうした弱さの中、逃げの中から現れるのではないか。

その仮面も、さっき書いたように、クライマックスでは逆に肯定的なものとして映る。ひとつの理念に共鳴していることを表すものとして、また同時に、おのおのが個別の人間であることを逆説的に示す、最高の『方便』として。

さて。
劇中では、Vの詳しい生い立ちや素性は明かされない。彼自身も『仮面の下には人の顔はない。理念だ』と語る。彼が『V』になる経緯は明かされるものの、彼自身の出自(収容所で被験体になるまでの経緯)も、顔さえも明かされない。ヴァレリーやイヴィーなどとは異なり、詳しい物語を持たないキャラクタとして、その役割を全うする。そして11月5日の『演奏会』を仕上げる最後のレバーは、Vからイヴィーの手に託される。仮面は、そしてVなる男も、自由を人々の手に取り戻すただの方便で、実行は『理念そのもの』ではなく、仮面の下に物語を持つ『人』に託されなければならない。Vはおそらくそう感じていたのではないか。

独裁者があるものを統制の方便として使ったのと同じように、その方便の結果『反作用』で生み出された怪物『V』もまた、全体主義の反作用として、人々の革命の方便となったのかもしれない。

なんかカタい文章でダーッと書きまくってしまったな。
ガイ・フォークスの仮面(いまやアノニマスの象徴として有名だが)をかぶった『V』という男、初登場でえらい長い自己紹介をしてみたり、マスクと黒ずくめのかっこのまま花柄のエプロンをして朝飯を作ってたり(しかもBGMは『イパネマの娘』)、甲冑とサーベルでじゃれる(!)など、『私には憎しみしかなかった!』とかいう割には実はかなりおちゃめさんなんじゃないかと思ったりもするんだが、中盤である覚悟をさせるために主人公のイヴィーにとんでもねえことをしたり(端から見たら洗脳としか思えない!)、目的の遂行のために政府首脳を撹乱させてみたりと、基本的には抜け目ない。
演じるのはマトリックスシリーズでスミス役だったヒューゴ・ウィーヴィング。スミスとは正反対の役である。劇中ではずっと仮面で、一切顔を見せない(一応仮面を付けてないシーンもあるにはあるが陰になってて表情は見えない。あとラストでちらっとだけ出てくるところがあるらしいが、よくわからなかった)。

あと、V(とゴードン)が作ってた『たっぷりのバターで焼く(というか揚げるに近い)玉子のせのトースト』がすごくおいしそうに見える。実際食ってみたらくどくて食えたものではないのかもしれないが、おいしそうに見えるのだからしかたがない。ああいうのってイギリスではフツーなのかな。

星的には3.5くらい。こんだけ熱っぽく論じておいて4とか5じゃねえのかよ、って自分でも思うが、映画全体としてはだいたいこのくらい(賢者モード)。いや、ヴァレリーの手紙のとこは4くらいまではいくかも。

とはいえ、今後もたまに観たくなる映画になりそうなのは確か。

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