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「ふむ。おかしな話ですね。『カラ=ビ⇨ヤウ』の足元の蓋を開けてみたら渋谷駅の奥深くまでこのようにして螺旋階段が続いています。先ほど、ポケットからこっそり拾っておいたステンレス製のボルトを投げ捨ててみたのですけど、底まで辿り着くのについうっかり欠伸をしてしまえる程に時間がかかりました。なぜ若者の街の象徴、渋谷駅の地下にこんなものが建造されていたのかは見当もつき
 サメ型のリュックを背負った女は星柄のモンペのポケットに右手を突っ込んでもう一度だけ小さなボルトを取り出して螺旋階段の中央付近に向かって放り投げてしまうと、恐る恐る深淵を覗いて思わずブルブルと震えてまだまだ自分には知らないことがあるのだと自覚する。
「どうやら、ようやく父親の呪縛から解き放たれて『ヒダリメ』を受け入れる覚悟を決めた沙樹が恐る恐るぼくらの後を追ってきたらしい。当然ながらこの先には『ホワイトディスティニー』が待っている。彼女の勇気を受け入れよう。ぼくらだけになってしまうかと思っていたのにね」
「こほん。先生、それはいけない考えです。いつだって黒猫流忍術に必要なのはエロスの開花であり幼き女の恋心です。沙樹さんには私からささやかな淫欲について伝授したつもりです。私は信じていましたよ、待ち望んだヒロインが私たちの元にやってきてくれることを」
 暗闇によって閉ざされた空間に脚を踏み入れた神原沙樹は黒い眼帯で覆われた『ヒダリメ』を気遣いながらポラリスとして中心点を示している光に導かれるようにして螺旋階段を一歩ずつ降りていく。
「ついに魔法少女としての役割に目覚めて『ネオンテトラ』を率いるだけの覚悟が出来たんだな。『S.A.I.』は必ずお前の力で復興させるんだ。父親とも母親とも違う答えを示してみろ。俺が手助けをしてやる」
 足音ががらんどうの空間に鳴り響いて黒い帷に覆われた渋谷駅地下最深部へと突き進む神原沙樹の鼓動が高まり始めると、一分間に鳴らされる心拍音が回数を増やしていき、左胸のあたりを突き破るようにしてヘルツホルムの白い妖精『九琶礼』が登場する。
「いつの間に私とひとつになっていたのですか。ちょうど一人では心細いと思っていたところです。この階段を下っていくとお母様が封じ込められている結界があります。お父様に一度だけ連れて行ってもらったことがありますけど、道は狭く暗く足元は心もとない。だからこそ『九琶礼』さんのお手伝いが必要でした。私と旅を続けていただいてもよろしいですか?」
「もちろん、構わない。いくら勇気と希望と夢を獲得したからといってお前はまだ十歳になったばかりのか弱い少女だ。親にも兄妹にも頼れないのであればパートナーは必要だろう。俺と手を繋ぐんだ。此処で『マコト』の血族を絶やすわけにはいかない。知っての通り『螺旋図』は受け継がれたポラリスで終局しているはずなんだ」
「では私はまずは先行されているお二方に追いつこうと思います。『九琶礼』さんとの盟約に従い、私は『ヒダリメ』を発行させていただきます。すべては星屑の使徒『ネオンテトラ』が集いし日の為に」
 神原沙樹は真っ白でむくむくした身体の『九琶礼』と手を繋ぎまるで終局へと向かっていく螺旋階段を降りていき、サメ型のリュックを背負う女と黒猫の元へと駆け寄っていく。
「よくきましたね。ここは『カラ=ビ⇨ヤウ』から供給されている真魔術回路によるオピオニズムで満たされた空間です。まるで捻くれてやさぐれた大人たちの心が行き場を失ったヤンキーたちのように入り浸って屯しているこの世の底です。絶望のベッドが待ち受けているのを沙樹さんは知っているようなので私たちを案内してもらえますか? もちろん私には未だ世界の果てを見たいという好奇心は残されていますが、今回はそうではありません。生命のスープはご存じですか? 私たちが求めているものが此処にはあるはずです。さぁ、旅の続きをご一緒に」
 とても意地の悪そうなお婆さんのような顔をして好奇心を旺盛にして白い天使と供にやってきた神原沙樹を出迎える。
 複雑な事情を考慮したのか黒猫は珍しく欠伸をしないでパンと手を叩くと、目の前に階段状に並べられた透明な空気の塊が現れて黒猫は颯爽と駆け上がり神原沙樹の右肩によじのぼる。
「景色は悪くない。これならまっすぐに階段を沿って歩いて行ってもすぐに辿り着くことが出きるはずだだ。さぁ、眼帯を外すんだ。君は誰にも劣等感なんて低俗な感情に溺れることなく堂々と自分自身であり続けることが出来るはずだ。夢は見ることが出来ない。けれど、『ホワイトディスティニー』とは必ず邂逅出来るはずだよ。いつ以来だろう、君が母親の元を訪れるのは」
 神原沙樹は一瞬だけ『九琶礼』の顔をみて表情を窺ってから左眼に装着していた黒い眼帯を外して異形を目の当たりにしてちょっとだけ驚いてくれたサメ型のリュックの女と視線を合わせてまだ子供であることにきづくと不完全な世界をどうにか背伸びをして受け入れようとする。
「私たちは罪を犯しました。悪を見過ごし間違いに溺れて過去を蔑ろにしたまま未来を築こうとしたんです。私の『ヒダリメ』に従ってください。罪を償うべきです。私の母は二重螺旋の底で待っています。どうか今の気持ちを忘れないで」
 とても静かで真っ直ぐと淀みのない決意を三角形の耳で捉えた黒猫は神原沙樹とサメ型のリュックの女を先導するようにして螺旋階段を降りて暗闇がいかに優雅で愚かさなど決して許さないものであるのかをふんわりとした足音で伝えようとする。
「そうさ、君はもう決めたんだ。大人になるということを決断している。ここではギャグボールが許されていない。恋人同士の為だけに開発された通信装置は整形されたアルゴリズムの反復によって妨害されてしまうはずだ。そうだね、和人」
 螺旋階段の入り口付近で反響した黒猫の透明な歌声に反応した二つの人影がにやりと笑って手に持っていた拳銃型の装備の安全装置を外して世界の終わりに向かって完璧な静音構造によって設計された弾丸を撃ち放つ。
「へえ。沙樹さんは人が羨むほどの憎しみを身体の中に飼われているのですね。決して見せてはいけない涙のようで宝石のようにも感じてしまいます。私が持つには少し贅沢かもしれませんと肝に銘じましょう。非存在透明化通行容認服『天狗の隠れ蓑』を利用してお供した方がよさそうですね」
「あぁ。君は決して見えない。存在を否定された訳ではないが、世界に許されているということでもない。ただ天狗がそうであるように無限の叡智を欲していたがそうではなかったというだけなんだ。パンの僕たる森の番人のように姿を隠すんだ。誰にも見つからないように決して賢者に君がいるということを悟られないようにね」
 黒猫は螺旋階段を扇動して地下空洞を戦慄く一陣の風と同化するようにして歌うようにして螺旋階段を順繰りに降りていき、後をついていく神原沙樹の方を振り返ることなく漆黒が深まることだけを予感させて地下鉄の轟音がこだまする空間を降っていく。
「あの。黒猫さん。先生と彼女は呼んでいました。けれどあなたは猫さんです。人間のようにエーテルを持って怯えたり災厄に見舞われることを嘆いている訳でもないのではないですか。沙樹は魔術回路を持った人間たちは未熟者だとお父様に教えられました。お母様は肺病を患っているだけなのだとおっしゃっていたけど『時の牢獄』から出してはくれませんでした。だから私はたった一人です。仲間が必要だとは思いますか?」
「どうかな。『アルテマ』では宇宙までは到達できない。銀河鉄道が必要になるはずだけれど、極彩色の信徒たちはやがて君の元に集って革命を呼び起こすかもしれない。だけど、それはもっとずっと後の話だよ」
「私の胸はまだ蓮華様や凍子さんのようにはなれずに揺れてもいません。何も知らないままでいるだけなのですね。だとすれば、彼女たちがいずれ現れる可能性を否定するのはもう辞めます。きっと叶わぬ夢を見ているだけなのだとしてもですね」
「まあ、混み入った話は君の母親と会ってからにしよう。未来永劫に渡って死から遮断されている牢獄に幽閉されている白き根源の魔女。全身を魔術回路とへと転換することで不老不死にまで到達するが可能な禁断の術式-K/r^3によって彼女は存在を定義され続ける。KAMIKAZEが何故鬼を宿した人間を量産することを求めたのか知るものならば迷わずこういうだろうね。『ホワイトディスティニー』がそれを求めたからだって」
悔しそうな顔をして神原沙樹は歩みを止めて口を紡ぐ。
 返すべき言葉が見当たらず、誤解や不理解によって伝わってしまう意志を避けることで『ヒダリメ』を発症することなく運命そのものから逃れることが出来た理由を幼き頃の思い出から呼び起こそうとする。
「えっと──あの──会えばわかると思います。お母様は何もかもを受け入れていました。正しいことなのか間違っていることなのか今の私にはわかっていますから」
「あぁ。君は呪うべき運命を抱えて幻滅と幻惑に支配された『S.A.I.』から離脱するためにぼくたちの場所を訪れたんだ。さて、ここからは君一人になってしまう。非存在透明化現象通行容認服『天狗の隠れ蓑』によってぼくの存在は限りなく零へと到達する。旅の終わりが始まるよ。君の夢を伝えに行くんだ」
 黒猫がすっぽりとフードで頭を覆ってしまうと彼のしなやかで耽美な哺乳類猫科としての肢体はゆっくりと透明へと転化して記憶と概念から除去されて存在が神原沙樹からかき消されていく。
 神原沙樹は突然放り出された暗闇の空間でたった一人で現実を肯定して塞がりかけていた鼓膜にも腐食と腐敗を細胞が壊死として許可している『ヒダリメ』によって螺旋階段の最深部で光り輝く希望の欠片を捉えて脚を進める。
「えっと、黒猫さん。私はですね、お父様のことが嫌いではありません。あの人はいつも泣いているとお母様は言っていたけれど、決してそんなことはないですし、私にだけはいつも優しくしてくれました。厳しく育てようという気持ちはあったけれど、私が泣きそうになるとついうっかり笑顔を零してそんな気持ちを台無しにしてしまう人でソラリスさんやダカレさんはお人好しだと悪口を言っていました。だから、お父様が死んでしまった時、貴史さんの夢が叶えられた瞬間に私は彼が偽物なんだと気づいてしまったんです。何故、この場所に密ノ木が来られなかったのは伝わりますか? 彼は最後の最後で私を否定して『ヒダリメ』の宿命を私自身にだけ与えられた過酷な呪いなのだと決めつけてしまいました。あの、『深紅の器』っていうのはですね、身体を流れる血液のことをいうのだと私は当たり前のように知っています。それなのに貴史さんはやっぱり欲しいって願っているんです。誰にも渡すことが出来ない自分を捨ててまで、こんなことに夢中になりたくないって心の何処かで知っていながら天堂家のいいなりになる道を選んでいます。貴史さんは運命と出逢えるでしょうか? それはきっと私だって同じかもしれません。どうしても逃げ出すことが出来なくて私はたった一人で螺旋階段を降りています。アドバイスをしたくても声は透明で誰にも届かなくなっていて口惜しくなるほど月並みな風の歌になって消えていってしまうんです。だから、もしかして私は最初から一人ですか? 真っ暗闇でお母様に会いたくて脚を止めようとしないまだ十歳になったばかりの女の子のようです」
 神原沙樹は寂しさのあまりに口笛を吹いて存在を明示しようとしてさっきまで傍で付き添っていてくれた人影のことを出来るだけ思い出さないようにして、たった一人きりであることを自覚して階段を降っていくけれど、口笛の音が妙に耳障りになり始めて私はどうやって大人になるんだろうと密ノ木貴史が見せた最後の嘲笑を決して悔しさに変えてしまわないように歯を食いしばり流れ出た涙を吹いてひた隠ししていたオデキのような左眼のことを封じ込めていた黒い眼帯を取り外す。
「えいっ! えいっ! どうだ? 気持ちいいか? ぼくのいうことを聞いたら気持ちよくしてあげるよ。あのさ、そうやって人ではない格好をしてよがるのを我慢したって何もいいことはないだろ。頭痛と吐き気を抑えて射精を楽しむなんてどうかしてるだろ?」
 螺旋階段を下っていく途中に現れた六畳一間ほどの踊り場で色欲の大罪司教ソラリスが鞭をしならせて天井から吊り下げられた顔の見えない中年の男を痛めつけて憎しみを表現して誰にも伝わることのない作品の出来を誰かに自慢したくて悔しそうに地団駄を踏み決して自分の力では気持ちよくなんてなれない男に唾を吐きかけている。
「えっと目がしぱしぱします。なぜこんなところに大罪司教が蔓延っているのですか? ソラリスさんは子供の私には分からないことをやっています。痣だらけになった身体のおじさんを弄んだりして何が楽しいのですか?」
 正義感に駆られた神原沙樹はもう決して散りばめることはないと思っていた『スイーツパラダイス』の袖を捲って星屑によって社会的絶対基準道徳観念記憶のみによって行動して過ちを犯そうとしている両性具有を象徴するペニスバンドを身につけたソラリスに近づいていく。
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「けっ。お前は童貞ってやつか? ぼくがおちんちんをしごいてやっているのにまだ勃起もしないじゃないか。精液の匂いでぼくの鼻腔を刺激して凌辱して侮辱してみろ。お前なんて誰も見ていないじゃないか」
 
「ええ。ここは聖なる場所でお父様も他の人を安易に侵入させたりしませんし、大人がするようなことをして楽しむ場所でもありません。私はまだ子供ですしソラリスさんがして楽しむことをみて愉快な気持ちになんて決してならないです。私の為に作っていただいた螺旋階段の中途であなたは一体何をされているんですか?」
 ひどく意地悪な顔をして些細な暴力を駆使して中年男性の身体に傷をつけていたソラリスが忠告に気付いて我に返り、本来彼が持ち合わせていた純朴さと純粋無垢を瞳に宿して顔をあげ神原沙樹と相対する。
「な、何を言っているんだ。ぼくはただ彼の為に生理現象のお手伝いをしてやっただけだ。だって、大人っていうのは辛いんだろ? 恋をするだけで胸が痛むし人を思いやるだけで苦悩する。気持ちを理解するには気持ちを共有するのが一番だ。痛い痛いって泣き叫んでくれればぼくがどんなに救われるか分かっているか。ぼくはこいつのな、罪を許そうとする色欲の大罪司教なんだぞ。お前の頭の中は徹底的にエロいことだらけってことを教え込んでやっている」
 ふん、と威張り散らして両手首を縛り上げられて天井から吊り下げられた中年の男を蹴り飛ばして色欲の大罪司教として最も重要な役割を果たすようにして十歳になったばかりの神原沙樹を見下している。
 けれど、まだ年端も行かない年齢になったばかりの神原沙樹は星屑によってすでにご加護を受けている。
 『スイーツパラダイス』がもたらした甘美なひと時を身にまとい、大人たちの誘惑には決して屈せずに夢と希望に満ち溢れた童心によって世界そのものの更新を諦めようとしない。
「じゃあ惨めなのはあなたでもなくこのおじさんでもなく私自身だって言いたいんですか。なんていうか、その私は小学生だし、明日になればもしかしたらランドセルを背負って学校に行かなくちゃいけないですよ。そういう時には決まって私の迂闊さを揶揄う男子が現れるんです。スカートは当然ながら履いていけません。それぐらいはわかります。なぜ私とよく似た瞳を作ってまで本当は未来なんてないんだって嘘を受け入れようとするんですか? 明らかにそのおじさんは苦しんでいます。もう辞めればいいじゃないですか」
「なんというか、まあ。それじゃあただの馬鹿だな。こいつは喜んでいるに決まっている。大人は自分の意志で行動するし、誰かの言いなりになんかなったりしない。ぼくが偽善者だったところで何も関係ないじゃないか。色欲っていうのはあらがえないんだよ。パンツの色を当てるようにはうまく行かない。星屑っていうのが何もかも変えてくれるなんてぼくは思っちゃいないよ。当たり前じゃないか」
「起死回生の逆転ホームランと昔、愛していていた人が言っていました。野球のように人生がいかなくたって私は諦めないって言っただけです。捻くれているように思えるからクレームを言っているんです。ここは、私のドラマの中で映画の続きなんです。物語はまだ始まったばかりだ!」
 神原沙樹は思い切り格好つけて六畳一間の踊り場で天井を向かって指差して、空気を一変させるとホッと一息をついたように涙を流して中年の男性が自分を労っている。
「へぇ。セックスね。出来るじゃないか。それが星屑の望みってやつか。空に輝く満天の星がぼくを罵っていたと思うのは勘違いってことにしてやる。地下深く潜っているのはその為だよ。暗闇なら悪事は薄まって誰かのせいに出来る。こんな気持ちを誰かに分け与えようなんて気持ちにはなれないからな」
 色欲の大罪司教ソラリスは寂しそうな顔をして遠くを見つめて昔自分も子供だったことを思い出してどうにか湧き上がる情欲によって成立している勃起と勃起不全の相性を確かめようとした自分のことだけを戒める。
「あの。おちんちんを触ってほしいんですか? すいませんけれど、これ以上は事故に繋がります。行き過ぎを控えていただけないと私が旅を続けられなくなるんです。遠慮をするんですね?」
「あぁ。分かった。分かった。お前の為に片付けてやるよ。だけどいいか、エロっていうのはな──」
「いいんです。ここであなたの物語は唐突に打ち切られてしまうんですから。これ以上語る術を持たないっていうのは子供の私でも分かっていることなんです。終わってしまうなんてことを朝起きた途端に告げられることを許そうとするのはお母様の役目ではきっとないと思います。甘えないでください。あなたは大人じゃないですか」
「嫌になるな。大人っていうのは気持ちが良いことだけに夢中になる。お前みたいなガキンチョじゃ耐えきれないぐらいの気苦労と共にな。せいぜいママにあったら、これぐらいのワガママが許せるようになるといな」
「あれ。まだ私に生意気な口なんて聞くんですね。少なくともこんなところでエッチなことばかりに夢中になっているあなたの方が間違っているんですよ」
 十歳の女の子のまだ何も知らない神原沙樹の流暢なお説教に何も言い返すことが出来ずに色欲の大罪司教ソラリスは剥れた顔をしたまま傷だらけになって青痣だらけの中年男性の手首から麻縄を外して天井の吊りどこから降ろしてしまうと、とても労わりながら抱き寄せるようにして地面に下ろして笑顔をむけて流れてくる涙を右手の拳で拭き取っている。
「なぁ、ぼくが間違っていたのか。こんなことに夢中になってつまらない時間を浪費させたって思うのか」
「いや、そうは思わん。ただお前が司教であることを自覚していないだけだ。私はお前に敬われるような人間ではないし、お前は色欲を司る未熟で罪深き『マコト』の下僕だからな」
「ふん。生意気な口を聞く。ぼくの教えがいつか役に立つ時がくる。そのために眠り方っていうのを教えてやるよ」
 二十代ぐらいの青年男性のソラリスは地面に寝転がって痛みに唸っている中年の男性の脇に落ちていたナイフを拾うと体重を乗せて一気に腹部の中心部に向かって刃先を突きおろしてしまう。
「なぜ殺したんですか?」
 血飛沫を顔面に浴びた色欲の大罪司教ソラリスに向かって神原沙樹は涙すら流れることの出来ない現実を受け入れる余裕すらなく湧き上がる衝動の在り処を丸裸のまま尋ねようとする。
「理由なんてない。だってぼくは頭がおかしくなったってことにしないと、この先生きていくのが大変だから、それだけなんだよ」
 赤く汚れてしまった両手に握り締めたナイフを投げ捨ててこびりついた血液を太腿になすりつけると呆然とただ立ち尽くす神原沙樹にわざとらしく身体をぶつけて螺旋階段を登っていく。
「行ってしまったな。俺は傍で見てやることしかもう出来ない。魔法少女にも『コインロッカーベイビーズ』にもなれなかったお前が選ぶべき道は当然ながら『ヒダリメ』という本当の自分を受け入れる以外の術はない。どうにかしてかけがえのない時間そのものを奪う悪夢から逃れる方法を見つけ出したいんだ。いずれ快楽によって破壊されてしまう構造変換から俺が嘘だけを分解してやる」
「ありがとうございます。『九琶礼』さん。もしかしたら私は大人になりたくないと思っただけかもしれません。受け入れたくないものを見て信じられないものを排除しただけなのかもしれないです。それでも、私は零を開発して、一を理解しました。何もないとだけは言わなかったつもりです」
「また大それたことをいうんだな。いいか、耳を澄ませ。奥底から風が唸り、透明な存在がお前を見守っている。もう口を開いてくれたりはしないだろう。お前はただ彼らの力を借りて前に進もうとして脚を踏み出すことが出来ただけだからな。俺がしっかり見えているな? 『ヒダリメ』だからなんかじゃない。お前が見ようとしているからということだけを忘れなければそれでいいんだ」
 深々とお辞儀をして地面を濡らしていた血液や体液の異臭に表情を歪めながらも鼻水が垂れてきてしまう自分のことを情けなく思いながらヘルツホルムの妖精『九琶礼』の苦言にしっかりと耳を傾けてもう一度顔をあげて未だ暗闇だけが染め尽くしている螺旋階段を降りていく。
「あの。『九琶礼』さん。つかぬことをお聞きしますけれど、私の頭の中に怖いものや恐ろしいものが蠢いているような気がしてしまいます。逃げ出したいと思ってしまう私の心は弱いんでしょうか? 可愛らしいものや美味しそうなものがひどく恋しく思ってしまい、ついお父様のお顔を思い出してしまいました」
「そうだな、お前は多分もう会うことが出来ない人だ。それからきっとお前の母親もそうだろう。それに此処には天井から差し込む微かな光しかないし、頼ろうとしても何も掴めないだろう。俺の瞳が青く染まっているか? もしそうだとすればお前は大丈夫なんだ。何からも目を逸らしてはいない」
「いけません。そうやって私のことを騙そうというのですね。何も見えていないどころか足元の階段を降りていくだけで精一杯です。それに『九琶礼』さん、あなたのことだって──」
 カチャリと鉄と鉄がぶつかりあう音がしてハッと神原沙樹は特定周波数干渉要因比率との意識の交換に夢中になっていた自分に気がついて硬質な響きの方へと振り向いて自分と同じ顔をしていながらも苦しみに耐えて憎しみを殺して愛について決して妥協することの許さない檻の中で涙すら枯れ果てたまま憤怒と嫉妬と怠惰と強欲と色欲と暴食と傲慢を抑え込んだまま祈ろうとする神原真江と邂逅する。
「小生が間違っていなかったでござるな。善悪の彼岸で恋が爛れ落ちて破滅だけを求めるのならばクレーンゲームは発動する。だが、魔神は決して人を許したりはしないでござる。手に入れられるものと手に入れられないものを理解する為にこのゲームはまだまだ必要でござるな」
「いや、そうじゃないよ。稔。俺たちはルナ☆ハイムコーポレーションだ。戦争を創り出し人心を支配して金を産み出す魔法使いなんだ。悪鬼と罵られても悪魔と手を繋いでしまったとしても月の光を乞うことにしよう。eSシリーズは『ホワイトディスティニー』の解放によって成就するはずだからね。全ては『ファティマ』の導きのままに」

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